かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer』感想~美意識がもたらす暴力について~

今回は、『劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer』(以下『OQ』)を観た感想を書きます。
 

f:id:amaikahlua:20200126154100p:plain

『劇場版仮面ライダージオウ Over Quartzer』

監督:田﨑竜太
脚本:下山健人
(C)2019劇場版「ジオウ・リュウソウジャー」製作委員会
2019年7月26日公開
おすすめ度:★★★★★(67分の短い映像だが、恐ろしく濃密な体験が味わえる)
 

映画館で観た時の感想

 
去年、私はこの映画を映画館で直接観に行きました。この映画を観終わった後、私は自分の両足が痛くなっていることに気付きました。どうやら私は、ずっと両足に物凄い力を込めて踏ん張りながらこの映画を観ていたようです。そのことに、この映画を観ている間は全然気付きませんでした。ずっと両足に気合を入れて踏ん張りながら観ていたのに、映画を観るのに夢中でそのことに気付かなかった。『OQ』は、それくらい面白い映画だったのです。現場からは以上です。
 
仮面ライダージオウ』という作品を私なりに評価すると、TV版のシナリオは良くも悪くもごった返していたけど、冬と夏の劇場版の出来は最高に良質だった」となります。TV版『ジオウ』を観ていると、ゲスト出演する俳優さんや続々発売される玩具と上手く折り合いを付けた脚本を考えるのがしんどそうな感じがした。私はTV版ジオウのごった返したシナリオをあまり高く評価していませんが、冬映画の『平成ジェネレーションズFOREVER』と夏映画の『OQ』には満点に近い評価を付けています。
 

美意識がもたらす暴力について

 
『OQ』では、仮面ライダージオウに変身する常磐ソウゴたちと、「歴史の管理者」を名乗る集団クォーツァーとの戦いが描かれます。DA PUMPが演じるクォーツァーは、平成仮面ライダーの歴史を破壊し・平成の歴史をもう一度やり直そうとします。クォーツァーのリーダー(名前はネタバレになるので伏せます)が平成の歴史をリセットしようとする理由が、とても面白かったです。
 

f:id:amaikahlua:20200126154151p:plain

f:id:amaikahlua:20200126154224p:plain

「お前たちの平成って、醜くないか?
 まるで凸凹で、石ころだらけの道だ」
 
「お前たちの平成って、醜くないか?」という名ゼリフは、裏を返せば「俺たちは平成を美しくしたい」ということです。クォーツァーのリーダーは、「醜い」平成仮面ライダーの歴史を、「美しい」ものに改変しようとします。平成仮面ライダーの歴史が「醜い」と言える根拠は、平成仮面ライダーという作品群に対するメタ的な思考です。
 

f:id:amaikahlua:20200126154319p:plain

ウォズ「そもそも平成ライダーが悪いんだ。設定も世界観もバラバラすぎだ…。という声が多くてね」
 
平成仮面ライダーは電車に乗って時間旅行する電王、医療とゲームがテーマのエグゼイドなど、シナリオの作風や仮面ライダーの外見に統一感がありません。平成仮面ライダーは多くの要素がバラバラで、もはや「仮面ライダーと呼べるものの定義がよくわからなくなってしまった!という苦情をたまにネットで見かけます。だからクォーツァーは、そんなバラバラで「醜い」平成仮面ライダーの歴史を「管理」しようとしたわけですな。
 

f:id:amaikahlua:20200126154414p:plain

私個人の意見としては、「平成の歴史を美しくしたい」という美意識が、仮面ライダージオウたちを苦しめる暴力として描かれているところが面白いなと思いました。平成仮面ライダーの歴史はバラバラで見苦しいから、その歴史を美しくしたい。クォーツァーのリーダーの思想はある意味では聞こえが良く思えますが、この思想が『OQ』では大きな暴力を産み出しているのです。
 
私たちの現実の日常生活でも、美意識が暴力を産み出すことがよくあるように思います。例えば、外見が不細工な人が「不細工だから」という理由でいじめの被害に遭うことがある。他にも、字が汚かったり歌を上手く歌えなかったりする人が、みんなの笑い者になったりする。嫌な話ですが、私たちには「美しいものを良しとする美意識」が備わっているぶんだけ「醜いものを虐待する暴力」も備わっているように思います。この映画では、そういう潜在的な暴力が鋭く掘り起こされているなと思った。
 

f:id:amaikahlua:20200126154456p:plain

この発言は、平成仮面ライダーに統一感が無いことに対する開き直りだと解釈されそうではあるが…(笑)
『OQ』は、今まで見落とされてきた「美意識がもたらす暴力」に焦点を当てた傑作だと思います。醜くても、バラバラでも、一生懸命で個性的な対象を評価し、私たちは「美意識がもたらす暴力」に抵抗する心を持たなければならないーー。

『ミュウツーの逆襲』再考~ニャースの本質について~

ポケモン映画第1作ミュウツーの逆襲』では、遺伝子操作によって誕生したポケモンミュウツーの「逆襲」が描かれます。ミュウツーはこの映画を代表するポケモンですが、この映画はニャースの本質をさりげなく描いた作品でもあると思います。今回はニャースに注目し、『ミュウツーの逆襲』から読み取れるニャースの本質について考察します。

 

f:id:amaikahlua:20200119151848p:plain

ミュウツーの逆襲』
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト98
1998年7月18日公開
 

戦わないニャース

 
ミュウツーの逆襲』の終盤では、ミュウツーをはじめとするコピーポケモンとミュウをはじめとするオリジナルポケモンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げます。しかし、オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、戦わずにのんびりと月を眺めます。なぜ他のポケモンが争っているのに、ニャースだけは争わないのでしょうか?とりあえず、脚本家の首藤さんのコラムを引用します。
 

f:id:amaikahlua:20200119152110j:plain

 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
 なんとなくロケット団ニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
 「今夜の月は満月だろな…」
 自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団ニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観ることができる。
 達観諦観わびさびの世界のようなものである。
 

ニャースが得たものと失ったもの

 
TVアニメ版ポケモンの第72話「ニャースのあいうえお」では、オリジナルのニャースが人間になりたかった理由が明かされています。
 

f:id:amaikahlua:20200119152720j:plain

第72話「ニャースのあいうえお」より
ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」のことが好きになり、マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓練をします。しかし、ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、進化や新しい技の習得ができなくなります。ニャースはマドンニャに告白しますが、「人間の言葉をしゃべるポケモンは気持ち悪い」という理由で振られます。その後、グレたニャースロケット団に入団します。*1
 
ここまでの説明で、オリジナルのニャースが人語や二足歩行を努力によって「後天的に」身に付けたことがおわかりいただけたかと思います。このことは、誕生したばかりのコピーのニャースが人語をしゃべることができず・二足歩行もできないことからも推測できます。
 

生まれつきの諦観

 
首藤さんのコラムの言葉を借りれば、オリジナルのニャースには「諦観」があるという。「諦観」や「達観」というのは、「悟りの境地」といった意味の言葉です。オリジナルのニャースが諦観を人語や二足歩行と同じく後天的に身に付けたかというと、そうとは言いきれないと考えられます。
 

f:id:amaikahlua:20200119154100p:plain

ミュウツーの逆襲』に登場するコピーのニャースは、コピーとして誕生したばかりなのにオリジナルのニャースに戦いを挑みません。ですので、コピーのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていることになります。オリジナルのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていて、その諦観がコピーのニャースにも遺伝した可能性が高いです。*2
 

f:id:amaikahlua:20200119154640j:plain

映画「ピチューピカチュウ」より
(C)ピカチュウプロジェクト2000
オリジナルのニャースは生まれつき「先天的に」諦観を持っている可能性が高いと思いますが、それに加えて経験によって「後天的にも」諦観を身に付けた存在だと思います。オリジナルのニャースロケット団の業務をしたり、アルバイトをこなしたりします。オリジナルのニャースは人語や二足歩行を習得したことにより、人間社会に参加できる社会性を身に付けました。ですからオリジナルのニャースは、「後天的にも」他者と上手くやっていくための諦観を身に付けたと考えられます。
 
オリジナルのニャースは諦観の素質を持ち、経験からも諦観を学んだ苦労人、といったイメージですねw
 
(ここから先は補説であり少しややこしい話になるので、無理して読まなくてもOKです)

*1:参考:「ニャースがしゃべる理由!!意外と知らない悲しい話!?」

*2:オリジナルのニャースには先天的な「戦いに対する諦観」が備わっていなかったが、コピーのニャースに突然変異で「戦いに対する諦観」が発現したという可能性も考えられると思います。しかし、この可能性はあまり高くないかもしれません。

続きを読む

『論理哲学論考』の論考~世界はなにでできている?~

さっそく、『論理哲学論考』の冒頭を読んでみましょう。ウィトゲンシュタインは、「世界」とは「事実」の総体だと定義しています。
 

 f:id:amaikahlua:20200109134542j:plain

一、世界は成立していることがらの総体である。
一・一、世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。*1
 
例えば「ウィトゲンシュタインは1889年生まれである」とか「今、この記事を書いている時点の甘井カルアの机の上にはペンが置いてある」とかいった具合に、この現実*2で成立していることがらを、「事実」と呼びます。「第71-73代内閣総理大臣を務めた中曽根康弘氏は105歳で亡くなった」とか「明治時代の文豪・樋口一葉の性別は男である」とかいったことがらはこの現実で成立していないので、世界では除外されます。今のところとりあえず、世界は「〈もしも〉の可能性を除外した事実が全て集まってできている」といったイメージで捉えて下さい。
 
ウィトゲンシュタインは、世界は「もの」の総体だと考えていません。「リンゴ」や「田中さんの肉体」のような物体を全て集めても、世界はできあがらないと思っています。この考え方に反発を覚える方はそれなりにいらっしゃるかもしれませんね。世界は物体の寄せ集めだろう、世界はものの総体だと言って何が悪い!みたいな反論が来そう。
 
しかし、物体が全て集まっただけの世界は、「物の状態」や「物と物との関係」や「出来事の真偽」などを閉め出してしまうのです。
 

 f:id:amaikahlua:20200109134837j:plain

世界が物の総体であり、事実の総体ではないとしたら、「ここにリンゴがある」という事実すらも世界には含まれなくなってしまうのだ。*3
 
もしも世界がものの総体だったら、「このリンゴは腐っている」といった物の状態や、「リンゴがカゴの中にある」といった物と物との関係は、世界に含まれない。そんな世界では、「このリンゴが腐っているかどうか」を確かめることもできない。世界は単なる物体の寄せ集めよりも広大だし、現に私たちは世界に単なる物体の寄せ集め以上の事象を見出だしています。だから「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」のです。
 
世界はものの総体ではないというウィトゲンシュタインの哲学は、世界を物質主義的に捉える人たちへの応答に使えるかもしれないですね。『「私」は脳ではない』で物質に偏った物の見方をする科学主義イデオロギーを批判したマルクス・ガブリエルは、2009年にボン大学の記念講演で『論理哲学論考』について言及しています。存在するのは物体だけであると考えるのには、無理があるでしょう。
 

 f:id:amaikahlua:20200109135108j:plainガブリエル(1980~)

 画像出典:https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=5

 それゆえ、世界は、互いに力を及ぼしあいながら変形・変化していく物を保管している巨大な容器ではありません。もしそんなものが世界であるとすれば、事実は存在しないことになってしまうでしょう。なぜならば、事実とは物ではなく、私たちが物や、物の連関について主張できる真理こそが事実だからです。*4
 
ちなみに、「世界は成立していることがらの総体である」という書き出しには、既にウィトゲンシュタイン流の「実在論がよく表れていると(今のところ私は)思っています。このことについては、いずれまた書くつもりです。
 
今回はけっこう堅苦しい話になってしまいましたね。皆様、お疲れ様でしたm(_ _)m

*1:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一三頁。

*2:論理哲学論考』で「現実」がどう定義されているのかは、今後説明する予定です。

*3:古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』、角川選書、二〇一九、三九頁。

*4:ガブリエル&ジジェク(大河内・斎藤監訳)『神話・狂気・哄笑』、堀之内出版、二〇一五、三一七頁。