かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『フロレアール』考察~全体構造編~

今回から、知る人ぞ知る美少女ゲームフロレアールすきすきだいすき~』(以下『フロレアール』)を考察します。『フロレアール』は1999年に発売された古代の美少女ゲームで、パッケージ版を現在入手するのは困難です。しかし、この作品はDMM GAMESを利用すれば今でもダウンロード版を安価で入手できます。この記事で興味を持たれた方は、ぜひダウンロードしてみて欲しい(ダイマ)。

 

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フロレアール~すきすきだいすき~』
シナリオ:元長柾木
(C)13cm
1999年7月発売
 
このゲームのシナリオは三幕に分かれています。第一幕で穏やかな日常が描かれ、第二幕で陰惨な非日常が描かれ、第三幕でフィクションの克服(メタフィクション)が描かれます。それに加えて、シナリオに多くの二項対立が仕掛けられています。
 

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フロレアール』は、メイドのメルンと共に平凡な生活を営むジャンの精神が徐々に崩壊していくお話です。ジャンは「燈台守」と言いまして、燈台の火を守り、船を安全に航行させる仕事をしています。メルンは、ジャンと同居するメイドです。ジャンは男性であり・ご主人様である一方、メルンは女性であり・従者です。これらの二項対立は、誰もがすぐに気付くことでしょう。

 

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このゲームの第一幕には、「初夏END」と「祝福END」と呼ばれる二つの結末が用意されています。メルンは実は暴力組織の首領アベール・ボーリャンの隠し子で、父親の元に帰ることになります。「初夏END」ではジャンとメルンが再会しませんが、「祝福END」ではジャンとメルンが再会します。どちらの結末でも穏やかな日常が描かれますが、二つの結末は対立します。
 

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「初夏END」と「祝福END」を読み終わると、シナリオの第二幕が解放されます。第二幕には、「不幸END」と「銃声END」と呼ばれる二つの結末が用意されています。第二幕になるとジャンの記憶が混乱し始めたり、過激なSMプレイが行われたり、ジャンが「フォルキシア」という精神病を発症したりして、陰惨な非日常が描かれます。ジャンの記憶が混乱した関係で、第二幕ではジャンとメルンの設定がかなり改変されます。「不幸END」ではメルンが窓枠から地面に墜落し(従者の悲劇)、「銃声END」ではジャンが射殺されます(主人の悲劇)。
 
フロレアール』には、まだまだたくさんの二項対立があります。例えばジャンの家の二階は「平穏な日常生活が営まれる空間」ですが、ジャンの家の地下は「アブノーマルな性生活が営まれる空間」です。また、〈嵐〉は「心を閉ざし、内界に落ち込む」心の病気ですが、〈フォルキシア〉は「心を開くことにより、他者を傷つける」心の病気です。他にも二項対立はありますが、大まかなところは以上です。
 

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「不幸END」と「銃声END」を読み終わると、フィクションや二項対立を克服する第三幕が解放されます。第三幕は、「奇跡END」→「閉幕END」と一直線に進みます。この第三幕では『終ノ空』『素晴らしき日々に先んじてウィトゲンシュタインについて言及され、昨年発売された『青い空のカミュに先んじて脱構築の思想が展開されます。先見の明のある終幕です。
 

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第三幕では、貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズムが「フィクション」であるとジャンが言います。こう書いてみると、「要するに、経済・政治・科学・宗教のような人間の営みは〈虚構〉だとこの作品は言いたいのか?」と思われるかもしれません。確かにそうなんですが(笑)、この作品はその向こうを張っています。

この作品では貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズムが単なる〈虚構〉ではなく、〈人々に必要とされている虚構〉の例として挙げられているのだと思います。貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズムは「虚構だから無意味」だと言っているのではなく、逆に「特定の人々にとって意味があり、必要とされている虚構」だと言っているのだと思います。詳しいことは次回以降に説明します。では、また次回!
 
〈参考文献〉
今回は先達の方々の引き写しのような考察になってしまったことをお許しください。次回から持論をご披露致します。

【疫病の文学】大江健三郎『芽むしり仔撃ち』解説

最近、新型コロナウイルスの影響で、カミュの『ペスト』がよく読まれているらしい。『ペスト』アルジェリアのオランの町にペストが流行し、閉鎖された町の中でもがく人々を描いた小説である。疫病が現実の社会で流行しているため、疫病を描いた文学の需要が高まっているわけだ。

今回はそうした需要に応えて、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』を解説する。この小説では、疫病が流行する村に少年たちが閉じ込められる。初期の大江はカミュをよく読んでいたと言われるが、『芽むしり仔撃ち』の内容は確かにカミュの『ペスト』に似ている。『芽むしり仔撃ち』は日本を代表する作家による、日本が舞台の「疫病の文学」だと言って良いと思う。
 

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『芽むしり仔撃ち』
1965年初版発行
 
(今回の説明はけっこう長いです。興味の無い箇所は適当に読み飛ばしてOKです)

『論理哲学論考』の論考~個はその集団を語り得ない~

元号が令和になってから、私たちの常識では考えられないような理不尽な出来事がずいぶん起こるようになったなあと思う。京都アニメーションのスタジオが放火されたり。超大型の台風が日本に上陸したり。新型コロナウイルスで世界中に死者が出たり。

 
こうした理不尽な出来事に何の罪も無い(ように見える)人たちが苦しめられているのを見ていると、「この世の理不尽な出来事には、何か意味があるのだろうか?」と考えたくなる。神様は、人類に対する何らかの計画があって、世界に災いをもたらしているのだろうか。それともこうした理不尽な出来事は神様みたいな絶対者とは関係が無くて、たまたま起こっただけなのか。
 
この世の災難に計画性や必然性があるのかどうかを考えてみたくなるのは私だけではないと思うし、人の性(さが)だと思う。そして理不尽な出来事にとどまらず、この世の出来事の必然性を考えるのは、哲学的な営みであるように思える。しかしウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、世界の意味や必然性は世界の「内側」からではよくわからないものだと言う。そうではなくて、世界の意味や必然性は世界の「外側」から見出だされるものだと言う。
 

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六・四一
 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。ーかりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
 価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
 それを偶然ではないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるであろうから。
 それは世界の外になければならない。*1
 
宮沢賢治の童話「よだかの星」を読んでみると、ウィトゲンシュタインの言っていることがよくわかる。「よだかの星」の作中では、醜い外見をしたよだかが悪口を言われたり、邪険に扱われたりする。よだかの星」という作品の「内側」に存在するよだかの立場に立って物語を読んでいる限り、「なぜ、よだかはこんなに理不尽な目に遭わなければならないのか?」という謎や怒りが心に残る。理不尽な出来事の計画性や必然性がよくわからないのである。
 

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しかし、「よだかの星」の物語の「外側」に出て、物語全体を眺めやるとどうなるか。よだかは醜く・弱肉強食の世界に組み込まれていて・有限の生命を持つ鳥である。だが、物語の結末でよだかは、美しく・宇宙空間にそれ自体として独立して存在しており・永遠に燃える星になる。よだかの星」の物語では、星になる前と星になった後を比較すると、よだかの性質が鮮やかに逆転しているのである。
 
このことに気付くと、「なるほど、宮沢賢治は星になったよだかの美しさを際立たせるために、星になる前のよだかを無様に表現したのかもしれないな」と解釈できる。要するに、物語の「外側」に出ると、「よだかの星」という作品を創造した神=宮沢賢治に近寄った立場で考察ができるようになるわけだ。そのため、理不尽な物語に神=宮沢賢治が仕組んだ計画性や必然性を(推測ではあるが)把握できるようにもなるわけだ。
 
私たちは、よだかのように世界の「内側」の出来事に翻弄される「当事者」である。私たちは、世界の「外側」から出来事の全体を眺めやる神ではない。だから私たちは、この世界に仕組まれた計画性や必然性を超越者の立場に立って十分に解読することができないのである。この世界の意味を考えたくなるのは人の性だが、私たちはこの世界の意味を満足に考えることができる立場ではないつまり、こういう事だ。
 

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ゲーム『夢幻廻廊2』より

個は、その集団を語ることができず、語ることのできないものに関しては、沈黙せねばならない

*1:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一四四頁。ちなみに『論考』では「世界」とは「成立していることがらの総体」だと定義されているが、今回は細かいことは気にすんなって。