かるあ学習帳

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『逆転検事』レビュー~スピンオフはかえってマトモ!?~

ブックオフに行ったら、『逆転検事とかいうゲームソフトが290円で売られていたので買った。逆転検事』は逆転裁判シリーズのスピンオフタイトル、ようは外伝のような作品です。「妙に安値で売られていたし、逆転裁判シリーズの副産物みたいなゲームだから、どうせ凡作だろう」と軽はずみな気持ちでプレイしてみたら……逆転検事』は名作でした。
 

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2009年5月28日発売
評価:★★★★★逆転裁判シリーズへの深い理解が感じられる名作)
 

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逆転検事』は「推理アドベンチャーゲーム」です。逆転裁判に登場する御剣検事が主人公で、殺人事件を推理するゲームです。ドット絵で描かれた御剣検事を操作し、これまたドット絵で描かれた現場を調べるのですが、このドット絵が実にイイ味を出している。ドット絵は今となっては懐かしい感じがするし、BGMも何となく80年代っぽい感じがしました。なんか全体的に「セガサターンっぽい感じ」がした。何の事を言っているのかよくわからんと思われるでしょうけど、逆転検事』の作風には「懐かしさ」があるという事が伝われば私は満足ですw
 

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逆転検事』は、現場捜査と事件関係者との対決を繰り返すゲームです。逆転裁判名物の裁判パートは、『逆転検事』には存在しません。裁判パートが無いゲームなんて、逆転裁判の姉妹品として認められねーよ」と思われるかもしれません。ところがこの『逆転検事』、めっちゃ「逆裁感」があるんですよ。事件関係者の証言を逆転裁判本編と同様に〈ゆさぶる〉〈つきつける〉ことができて、逆転シリーズらしい「真相を暴く爽快感」は健在でした。
 
私が『逆転検事』をプレイして特にいいなと思ったのは、逆転裁判シリーズに対する制作スタッフの深い理解が感じられる」ところですね。『逆転検事のシナリオとディレクターを担当したのは山﨑剛さんで、『逆転裁判1~3』のライター・巧舟さんは『検事』には関与していません。しかし、『逆転検事のテキストの雰囲気は『逆転裁判1~3』にクッソ似てるんですよ。登場人物のセリフ回しや小気味良いギャグのノリが、巧舟の文体を忠実に再現していると思った。巧舟さんの巧妙な文体を真似るのは非常に難しいと思うのですが、山﨑Dは「逆裁っぽい文体」を高度に体得しているなと思った。
 

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逆転裁判本編では現場を調べた時に登場人物が面白い無駄話や茶番を演じるのですが、現場での無駄話や茶番の面白さは『逆転検事』でも絶好調。山﨑D、逆転裁判シリーズの面白味をちゃんとわかってるな~。また、逆転検事』には、逆転裁判シリーズを一通りプレイした人なら思わずニヤリとしてしまうネタがたくさん仕掛けられています。御剣検事が過去にエレベータ事故に遭遇した事やぶっ飛んだ裁判を担当した事などにも適宜触れられていて、山﨑Dが逆転裁判本編のシナリオを入念に読み込んでいる事が窺えます。山﨑Dは、逆転裁判シリーズの作品に対する理解が半端無いんですよ。
 

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逆転検事逆転裁判シリーズの作品に対する理解が半端無いだけでなく、逆転裁判ファンに対する理解も半端無い作品でした。逆転検事の主人公は御剣検事なのですが、ファンなら「御剣検事を出すなら、ついでにこいつらも出して欲しい!」と思うキャラも一通り登場します。イトノコ刑事や須々木マコ狩魔冥や在りし日の豪先生、オバチャンなど、ファンが再登場を期待する登場人物」が『逆転検事一本で大体押さえられているんだよな~。
 
話がやけに長くなってしまいましたが、『逆転検事』は逆転裁判シリーズの作品やファンに対する理解が半端無く感じられる超良作」なんです。「『逆転』の名を借りて適当な物を作って儲けてやろう」というのではなく、「『逆転』の名に恥じぬ良品を作ってファンを楽しませよう」という心意気が感じられる素晴らしい作品でした。みんなも中古で売られていたら買おうぜ!w
 

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最後に、『逆転検事』の最終話(第5話)についても触れておかなければなりませんね。逆転裁判シリーズ恒例のラストの伏線回収劇は、『逆転検事でも健在。第1話から出てくる「ヤタガラス」の正体には意外性がありましたし、密輸組織を影で操っているラスボスもかなりの巨悪で良かった。何と言うか『逆転検事』のラスボス、めっちゃしぶとい奴なんですよ。いくら問い詰めても一向に自分の犯行を認めない奴で、「こいつ、まだ自供しないのかよ」と思ったわwwワイヤーを使ったトリックには無理があると思いましたが、最後まで面白かったから私は許します。
 
 

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逆転検事2』より
……逆転検事』をプレイしているうちに、「このゲーム、逆転裁判本編よりもミステリとして“マトモな”作品なんじゃないか?」と思えてきました。逆転裁判本編では弁護士が事件を捜査し、時に霊媒師の力を借りて事件を解決する。こういう作劇って、ミステリの中でけっこう異端の部類に入るんじゃないかと(私は)思う。一方、『逆転検事』では検事や刑事が事件を捜査し、霊媒みたいなオカルト要素は存在しない。続編の『逆転検事2御剣信は「現場を捜査するのはもともと警察の仕事だ」と言っているけど、その通りだと思う。検事側の捜査を克明に描き、オカルトに頼らない『逆転検事』は、かなりマトモな(?)ミステリ作品だったなと思いました。
 
逆転検事逆転裁判本編から外れたスピンオフ作品なんだけど、ミステリの王道から「スピンオフ」しているのはむしろ逆転裁判本編の方ではないだろうか。ミステリの王道から「スピンオフ」した逆転裁判本編から派生した、かえってマトモなミステリ作品。それが『逆転検事』ではないだろうか。ふふふ、これが「発想の逆転」ってやつでござるよ。

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』書評feat.『終ノ空』~「終わりなき日常」編~

社会学者・宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』で、オウムと現代社会を考察しました。今回は宮台氏の超重要キーワード「終わりなき日常」について考えていこうと思います。

 

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『終わりなき日常を生きろ』
1998年3月24日初版発行
 

「終わらない日常」VS「核戦争後の共同性」の対立

 

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宮台氏の分析によると、80年代には「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」という2つの終末観があったらしい。
 

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80年代前半には、女の子を中心とした「終わらない日常」という終末観が流行ったという。「終わらない日常」というのは、「これからは輝かしい進歩も恐ろしい破滅もなく、学校的な日常で永遠に戯れるしかない」という終末観です。宇宙戦艦ヤマト』ブームへの反発から生まれた『うる星やつらが、当時の「終わらない日常」を象徴しているらしい。80年代の「終わらない日常」は、『らき☆すた』みたいな「日常系」の先祖なのかなと思います。
 

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80年代後半には、男の子を中心とした「核戦争後の共同性」という終末観が流行ったという。「核戦争後の共同性」というのは、日常が崩壊した世界での団結や共同性にロマンを抱く終末観です。80年代のヘビーメタル音楽や『AKIRA』、『風の谷のナウシカ』が、当時の「核戦争後の共同性」を象徴しているらしい。少年中心の「核戦争後の共同性」は少女中心の「終わらない日常」に対する反動から生まれた終末観で、「この日常が永遠に続くのは我慢ならん!」と思った連中が考えたみたいですね。

 
 だが、「終わらない日常」はキツイ。ユートピアであると同時にディストピアでもある。モテない奴は永久にモテず、さえない奴は永久にさえない。イジメられっ子も永久にイジメられたままだ。それに苛立つかのように八〇年代後半に主流になるのが、男の子を中心とした「核戦争後の共同性」というファンタジーだ。(中略)「終わらない日常」のなかでありえなくなった「非日常的な外部」を未来に投影することで、やっと現在を生きうる。女の子の場合、その外部は「前世の転生戦士」のファンタジーとして、過去に投影されたのだった。(pp.88-89)
 

ブルセラ」VS「サリン」の対立

 

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宮台氏の分析によると、90年代には「ブルセラ」と「サリンの対立があったらしい。80年代は主にフィクションの作風の対立であった「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」が、90年代になると「ブルセラ」と「サリン」の対立として現実化したらしい。90年代になると、対立の舞台がファンタジーからリアルの社会現象に移ったわけ。もっとも宮台氏によると、虚構と現実の区別は現代では明確じゃなくなっているそうですが。
 
90年代の「ブルセラ」世代の制服少女たちは、終わらない日常を生きるのが上手かったらしい。ブルセラ世代の少女たちはたまり場やデートクラブで脱力した日常を生きるので、終わらない日常をテロリズムによって破壊しようとか攻撃的なことを考えない。しかもブルセラ世代は「結婚願望」は高くても「結婚幻想」は抱かなかったらしい。まったりとした青春を送り、普通に結婚していくのがブルセラ世代。
 

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一方90年代の「サリン側はブルセラ東京の終わらない日常をサリンを撒いて破壊し、人類を救済に導こうとした。オウムの教団幹部は終わらない日常をキツイと感じる張本人が多く、彼らは80年代の「核戦争後の共同性」を現実化しようとした。AKIRA』や『コインロッカー・ベイビーズ的終末観が現実の社会現象として如実に実体化したのが、地下鉄サリン事件
 

若槻琴美VS間宮卓司一派の対立

 

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80年代には「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」の対立、90年代には「ブルセラ」と「サリン」の対立があった。これらはいずれも「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立だといえます。この対立は、1999年に発売されたエロゲー終ノ空にも見られる対立です。終ノ空では若槻琴美が日常に従属する側の人間で、間宮卓司一派が日常に反対する側の人間だった。
 
終ノ空の若槻琴美はクラスメイトたちが噂する友達の自殺や世界の終わりの話に、上手く馴染むことができなかった。琴美には現世でするべき行為がたくさんあり、幼なじみの行人とずっと一緒にいたいと思った。だから琴美は、世界の終末を拒絶しました。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。
 
一方、『終ノ空』の作中で琴美と対立した間宮卓司は「救世主」を自称し、世界の終わりを予言しました。卓司は、この世界の向こう側に存在する事象の「兆し」「予還」を指し示します。卓司が指し示したのは、宮台氏の言葉を借りて言えば「『終わらない日常』の中でありえなくなった『非日常的な外部』」です。卓司は、宮台氏が言う「核戦争後の共同性」「サリンの正統な後継者だと思います。
 

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卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め
卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!
卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければならない!
(中略)
卓司「しかし、それを認めてなお」
卓司「無意味な人生そのものを受け入れてなお」
卓司「我々が、その存在を否定しきれないなら」
卓司「君の心に」
卓司「まるで」
卓司「沈んでしまった船が」
卓司「その船の」
卓司「その躯のあった場所に…」
卓司「残していった」
卓司「水面の」
卓司「水面の…波紋…」
卓司「揺らぎのように」
卓司「心の中に、予感があるなら」
卓司「波紋のような揺らぎがあるなら」
卓司「それは…
卓司「それこそ
卓司「兆しへの予還である
 
また、『終ノ空』で琴美と対照的なポジションに位置する高島ざくろは、「前世の仲間」と対話した電波少女です。不良に弱味を握られていたざくろは前世に「世界を救う戦士」だったことを知るわけなんだけど、これは宮台氏が言う「過去に投影された『前世の転生戦士』のファンタジーそのものですね。ですから、ざくろも「核戦争後の共同性」の正統後継者だと言ってよいでしょう。もっともざくろが日常に「反対した」かと言われると、いささか語弊があるかもしれませんが。
 

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 私が何で生まれて来たか…、
 私が何で存在しているか…、
 それが今日解ったわ…!
 そうよ…、
 私は世界を救う戦士だったのよ!
 

普遍的な対立

 
80年代の「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」の対立、90年代の「ブルセラ」と「サリン」の対立、『終ノ空の若槻琴美と間宮卓司一派の対立は、いずれも「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立です。両極は明確に対立していますが、どちらも「日常に対する向き合い方」である点では共通している。そういう意味では対立する二項は表裏一体、同じものだと言えるでしょう。
 
また、本稿では話が拡散するのを防ぐためにあえて触れませんでしたが、『終わりなき日常を生きろ』には「60年代SF」と「50年代SF」の対立についても書いてありました。『終わりなき日常を生きろ』は主にオウムについて書かれた本であり、『終ノ空は90年代終盤の終末観がよく表れたゲームではあります。しかし、「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立は、世代を超越した普遍的な対立でありえます。そこに日常がある限り、その日常に対する向き合い方の違いで対立はいつでも生じうるのではないでしょうか。

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』書評~「さまよえる良心」編~

社会学者・宮台真司『終わりなき日常を生きろ』では、オウムと現代社会が考察されています。この本のキーワードは、さまよえる良心」「終わりなき日常」です。今回はこれら2つのキーワードのうち、「さまよえる良心」に的を絞って考えていこうと思います。

 

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『終わりなき日常を生きろ』
1998年3月24日初版発行
 

「さまよえる良心」とは何か

 
まず、「さまよえる良心」とは何なのかについて説明します。現代社会では道徳が悪い意味で不透明であり、「何が良いことなのか」がわかりにくい世の中になっています。何が良いことなのかがハッキリしないため、「良いことをしたい」と考える善意ある人々の良心の行き場がよくわからないのです。良いことをしたい」という良心があるのに、「何が良いことなのかがわからない」ため、良心がさまよう。この現象が宮台氏の言う「さまよえる良心」です。
 

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 しかし、問題の「マインド・コントロールにはもう一つの見逃せない要素がある。それが「さまよえる良心」という問題だ。私たちの時代には「良きことをしたい」という良心への志向が強ければ強いほど、「何が良いことなのかが分からない」という不透明感が切迫し、透明な「真理」への希求が高まる。その結果、たとえば彼らが救済という「良きこと」に向けて強く動機づけられていればいるほど、児戯のようなフックに引っかかって世界観を受容する。そういう構造にこそ目が向けられなければならないということだ。(p.62)
 
オウム真理教は地下鉄にサリンをばらまいた凶悪な宗教団体ですがオウムにはもともと善意ある人々や優秀な人々が大勢入信しました。何か良いことがしたい、世界や人類を救済したい。さまよえる良心や崇高な理想を持った人々は、「これは善業、これは悪業」とまるで父親のように断言する麻原教祖に引き寄せられていったのです。オウムは現代社会で失われた共同性を埋め合わせ、共同体消失がもたらした良心の空白も麻原の説法が穴埋めしたというのが宮台氏の説です。*1
 
 正確にいえば「良心的存在でありたいのに、何が良きことなのか分からない」という問題は、私たちが良心的存在であろうとする限りにおいて露わになる。もちろん今でも私たちの社会には、「良き人間でありたい」「良きことをしたい」と望む人間が多数存在する。しかしそのような「良心あふれる人間」こそが、「良心-(倫理+道徳)=?」という問題に真正直に直面し、「これは善業、これは悪業」とあたかも父親のように断言する麻原教祖に、ゴーマニズムの小林よしのりに吸引されるように引き寄せられる。そこにこそ問題があるのである。(p.68)
 

世界は苦しみに満ちている

 
自分のブログなので、自分の話をさせて下さい。私は中学生のころ、「この世界を救済したい」と本気で思っていました。「エリートになって、絶望に満ちたこの世界を救済しよう」と思い、毎日勉強に明け暮れていました。私は中学生のころまでは成績が優秀でしたが、高校に入ってから勉強に付いていけなくなり、エリートになる夢を諦めました。自分にはエリートになれる程の能力が無いし、世界を救済するのは誰にとっても容易なことではないと次第に知った私は、この世界を救済することに挫折しました。
 
もしも私が高校に入ってからもずっと優秀で、一流の大学に進学していたらどうなっていたのだろうか。もしかしたら、オウムに入信したエリートみたいに怪しい団体に入っていたかもしれません。オウムに入信したエリートたちの中には、かつての私のように「世界を救済したい」と思い、そのまま挫折せずに一流の大学に通った人がいたかもしれませんその可能性は十分にあると思います。「俺は今までずっと優秀だったし、俺にはきっと世界を救う力がある。世界を救うために、何か良いことをしよう」。そう思ったエリートが、麻原教祖に吸引されていく。ありうる話でしょう。
 
ここまで考えた私は2つの苦しみを持ちます。1つめの苦しみは、「いくら世界を救いたくても、どうすれば世界を救えるのかがよくわからない」という苦しみです。宮台氏が指摘している通り、現代では何が良いことなのかがよくわからないので、どうすれば世界を良くできるのかもよくわからない。そして、この世界では環境破壊や経済格差などが確実に進行しているのですが、どうすれば世界の崩壊を止められるのかもよくわからない。漫画やゲームのようなフィクションの主人公なら世界を救えるかもしれないけど、リアルの世界の救い方をたぶん誰もよくわかっていないので苦しい。
 
2つめの苦しみは、「なぜ、邪悪な人々ではなく良心的な人々が犯罪を犯してしまうのだろうか?」という苦しみです。オウムに入信した人々がみんな根っから邪悪な人々で、邪悪な人々が犯罪を犯して逮捕されるならスッキリする話です。しかしこの現実には、悪意ある人々よりも「さまよえる良心」を持った良心的な人々の方がかえってカルトに引っかかりやすいという胸糞悪い事実があります。犯罪に抵触しない中途半端に腹黒い人間ではなく、透明な「真理」を希求する良心的な人々が逮捕される。現代社会では、こうした理不尽が起こりうるのです。
 
ごらん、世界は苦しみに満ちているよ。

*1:余談ですが、団地化によって共同性とモラルが崩壊したことの象徴として「団地売春」や「人妻もののピンク映画」が挙げられているところが面白かった。宮台氏らしいユーモア(?)があると言うか