かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

逆転裁判シリーズの歴史を語る~『蘇る逆転』から『大逆転裁判2』まで~

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今回は、逆転裁判シリーズの歴史を私の独断と偏見で語っていきたい。逆転裁判シリーズの魅力を客観的・中立的な語り口で紹介する記事は、既に他の方々が数多く書いている。だから私は逆転裁判シリーズの歴史を、あえて独断と偏見に満ちた語り口で書いてみたいと思う。
 
(!!!ここから先は独断と偏見とネタバレが過剰に含まれています!!!

『レイトン教授VS逆転裁判』の感想とか考察とか

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レイトン教授VS逆転裁判

(C)LEVEL-5, (C)CAPCOM
2012年11月29日発売
おすすめ度:★★★☆☆(ラストの超展開には無理があり過ぎる。ムリムリムリ)
 

推理と発想の祭典

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レイトン教授VS逆転裁判は、レベルファイブカプコンが共同開発したゲームです。文武両道のチート級大学教授・レイトン先生と、恐怖のツッコミ男・成歩堂弁護士一行が、異世界で冒険するという内容です。頭の回転が悪い私にはイライラするくらい難しいパズルを解いたり魔女裁判の偽りを論破したりすることで、ゲームは進行します。レイトン教授シリーズと逆転裁判シリーズの面白さが、良い具合に混ざり合っていました。
 

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カプコンSNKの格ゲーが融合したCAPCOM VS. SNKとかいうゲームがあります。このゲームは、格闘を得意とするカプコンSNKのキャラが対決する肉弾戦のコラボレーション作品」でした。一方、『レイトン教授VS逆転裁判』は、推理と発想が得意なレベルファイブカプコンのキャラが共闘する「頭脳戦のコラボレーション作品」だと言えるでしょう。話が横道に反れるけど、CAPCOM VS. SNK』の新作が発売されればいいのに。オンライン対戦対応で。
 

テン年代の想像力

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レイトン教授VS逆転裁判』の冒頭では、レイトン教授ルーク・成歩堂・真宵が「ラビリンシア」という本の中の異世界に吸い込まれます。レイトン教授成歩堂たちは本に記された物語の登場人物として、世界の謎を解いていきます。このゲームは2010年代序盤に発売されたゲームですが、テン年代を象徴するような想像力に満ちていました。
 

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レイトン教授成歩堂たちは、ラビリンスシティという異世界ファンタジー風の町に閉じ込められます。このゲームのシナリオは、テン年代から大流行した異世界転生ものの先駆けだと言ってよいでしょう。で、さらに特徴的なのは、ラビリンスシティが高い壁で包囲された空間だって所。高い壁で包囲された空間と言えば、2013年からアニメ化された『進撃の巨人』、2019年からアニメ化された『約束のネバーランドの世界観を連想させます。
 

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ラビリンスシティには恐ろしい魔法を使う魔女が存在し、魔女を裁くための魔女裁判が行われていました。そして本の中の物語は、ストーリーテラーとかいう創造主が執筆しています。魔法使いが存在し、物語の内部に存在する人物を描いたゲーム」と言えば、他に2014年に発売された『魔女こいにっき』を私は思い出します。ひじきちさんのブログを読んで知ったのですが、同年に発売された『紙の上の魔法使い』でも「魔法使いと物語」がテーマになってるっぽい。
 

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(C)2020 石森プロ・テレビ朝日ADK EM・東映

ついでに言わせて貰うと、今放送されている『仮面ライダーセイバー』も、『レイ逆』『魔女こい』『紙まほ』の系譜に属する作品だと私は考えます。『セイバー』では魔法使いではなく剣士が主人公ですが、やはり異世界や物語がテーマになっている。そして『セイバー』の図書室は、『レイトン教授VS逆転裁判の図書館によく似ています。私の観察では、テン年代から「魔法使いと物語」に関する想像力をしばしば見かけるようになった気がする。この手の作品の系列には個人的に興味がありますし、この手の作品は探せばもっと見つかりそうな気がします。
 

《存在》を裁いた男たち

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このゲームの特に興味深いところは、異世界が舞台でも論理による説得が通用するところだと思いましたレイトン教授成歩堂は、魔女裁判でもロジックを武器にして戦います。このゲームの舞台は異世界ですが、論理的思考が通用しない「不条理な世界」ではないと思うんですね。異世界魔女裁判でも現実世界と同じように論理的思考が通用する理由」を、哲学を絡めて批評したらけっこう面白いんじゃないかと思いながらプレイしました。しかし、私の楽しい異世界体験は、このゲームの結末で悪い意味でブッ壊されることになります…。
 
(ここから先は重大なネタバレを含んでいます)

『論理哲学論考』と『終ノ空』琴美END~有限のなかの無限とはなにか~

本稿では『終ノ空』琴美ENDの結末における有限のなかの無限」について考察する。恥ずかしながら、私は琴美ENDのラストを十分に理解していない。しかし「有限のなかの無限」については語れる自信があるので、語ることにしよう。
 

終わりなき日常を生きろ

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琴美「行人」
行人「は、はい」
琴美「こんな映画知ってる?」
行人「…」
行人「どんな、映画だよ…」
琴美「飛行機に突然トラブルがあってね」
琴美「それで、その飛行機、無人島に不時着するの…」
行人「それで…」
琴美「とりあえず、何人か助かるんだ」
琴美「でね、無線とかで、助け呼ぶの」
行人「…」
行人「当然だな」
琴美「でも、すぐ向かいますとかいって、救助隊は全然こないの」
琴美「なんか、明日には、あと数時間後には、あと何十分後にはとか言って…」
琴美「ずっと来ないの」
琴美「そのうち、一人が気がつきだすの…」
琴美「自分たちは既に死んでいるのではないかと…
琴美「ここは地獄であり
琴美「永久に、希望と絶望をくり返さなければならないのではと…
琴美「その時、また無線が入って…」
琴美「もう、すぐに助けに向かいます…ってね」
行人「ふふふふ、発狂もんだ…」
 
琴美が語る挿話は、とても不吉である。琴美ENDの行人は、無人島の映画と同じように地獄的な状況に置かれているのではないかと推測できる。行人は、7月21日の教室から9月1日の新学期の教室へと一瞬で転移した。行人が一瞬で転移した新学期の教室は、何か映画の無人島のような永久の地獄を思わせる。琴美ENDの行人は、終わらない日常という永久の地獄で、希望と絶望をくり返す破目になりそうだ。
 
新学期の始まりと共に、行人と琴美は永久に一緒の生活をすることになるだろう。行人と琴美がこれから過ごす日常では、永久に希望と絶望が繰り返されるだろう。行人と琴美はこれから、永久に呪われた生と祝福された生を生きるだろう。いや、もしかしたら行人と琴美は、死後の地獄に転移したのだろうか?しかし行人とずっと一緒の生活は、琴美が望んだ幸福の形だったはずだ。
 

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琴美「新学期が始まったから」
琴美「一緒だね…」
琴美「ずっと
琴美「ずっと、ずーと
琴美「一緒だよ
琴美「有限のなかの無限のうちに…
彩名「無限のなかの有限のうちに…」*1
琴美「ここで…」
彩名「ここ以外で…」
琴美「この世界は、それまでの世界?」
彩名「それまでの世界は、この世界?」
琴美「ずっと
彩名ずっと、ずっと
琴美「永久に…
彩名無限に…
琴美「一緒
琴美「だよ
琴美「今日から、新学期だから、ここで、行人とずっと一緒だよ
 

われわれの生は終わりをもたない

琴美ENDの結末で意識されているのは、おそらく前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考の次の一節であろう。
 
六・四三一一
 死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
 視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。*2
 
ウィトゲンシュタインは「人は死を体験しない」「生には終わりがない」と語っている。これは非常に奇妙な説だと思う読者がおられよう。だって、私たち人間はみないずれ死ぬ定めではないか。そして私たち人間は、生の終わりに死を体験するはずではないか。ウィトゲンシュタインは、一体どうしてこんなに変なことを言っているのだろうか?京都大学教授の大澤真幸は、『論理哲学論考を次のように解読した。
 

f:id:amaikahlua:20210804123614p:plain大澤真幸(1958~)

「われわれの生は終わりをもたない」と。この命題は、人間という動物が死なないという非科学的なことを主張しているわけでもなければ、霊魂は不死だという宗教的なことを述べているわけでもない。生の内側から、終わり(死)に到達することはできない、と述べているのである。終わりに辿り着いたときには、もはや生ではないからだ。そうだとすれば、生には終わりが属していない、生には終わりがない、と結論せざるをえない。死は、生との関係で、いわば「鍵がかかっている部屋」にあたる。人はどうしてもそこに入ることはできない。*3
 
これでウィトゲンシュタインの死生観がおわかり頂けたのではないだろうか。私たち人間は、生きている限り死という「部屋」の内部に入ることができない。生から死の内部にアクセスすることができないので、生者にとって死は生から隔絶された世界である。だからウィトゲンシュタインは「死は人生のできごとではない」と言っているのだ。終わり=死は生の内部に存在しないので、生には終わりがない、とも言える。
 

無限の生、無限の世界

7月20日よりも前の琴美は、世界の時間的な終わりに反対し、世界の空間的な限界も否定していた。琴美にとって世界は永久に滅亡しない(で欲しい)し、永遠に果てしない広がりのある空間なのだった。そして琴美は自らの死も拒絶したし、永遠の広がりの中の有限な点として生きていた。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。
 

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行人「大きな坂?」
琴美「うん、学校に行く途中の…」
行人「あれって、そんなに大きかったか?」
琴美「今はそうでもない…でもあの時は」
琴美「子供の時はものすごく大きく感じた」
琴美「これは世界の果ての壁なんだって思ってた」
琴美「これを上り切ったら世界の果てなんだって」
琴美「でも、違った…」
琴美「その坂を上り切ったら
琴美「その先にもここと同じ街があった
琴美「その先にも坂があって、その先にも…
琴美「永遠に街が続いていた
琴美「世界に果てはないんだって、その時気が付いたの…
 
7月20日よりも前の琴美の思想は、『論理哲学論考と符号する。死を拒絶した琴美の態度は、「ひとは死を体験しない」という『論考』の命題と共鳴するだろう。「永遠に街は続き、世界に果てはない」という琴美の世界観は、「視野のうちに視野の限界は現れない」という『論考』の命題に対応するだろう。琴美の生は死を斥けたし、琴美の世界は無限に存続すると思われたし、琴美は無限に広がる世界に内在していたのである。
 

ヒトの無限、神の有限

琴美の生は死を「鍵のかかる部屋」のように排斥したし、琴美の日常は終わりなく無限に続き、琴美の内在する世界は無限に広がっているように見えた。そして琴美は新学期が始まっても、行人と一緒に無限の日常を送ろうとする。しかし、琴美のような無限の世界を「有限の全体」として把握できる特権的な視座が存在する。それは、いわゆる神の視点(メタ視点)」である。世界をメタ的に俯瞰する神の視点は、人間にとって無限に思える世界を有限な世界として捉えることができる。論理哲学論考』のバートランド・ラッセルの序文で、ラッセルは神の視点について言及している。
 

f:id:amaikahlua:20210804124020p:plainラッセル(1872~1970)

高みから見渡せる至高の存在にとってはわれわれの世界も限界をもったものとなるのでしょうが、われわれにとっては、たとえそれが有限のものであろうとも、世界は外部をもちえないがゆえに、限界ももちえないのです。ウィトゲンシュタインが用いるのは、視野のアナロジーです。われわれの視野は外部をもちえず、まさにそれゆえに、われわれにとっては限界をもちません。*4
 
世界や私たちの生は人間の視点から観測すると無限であり、神の視点から観測すると有限である。琴美は世界や自らの生を基本的に無限として捉えていて、これは非常に素朴で人間的な物の見方である。しかし琴美の世界や生には、神の視点から観測すると限界が存在する。かりに琴美の世界と生が7月20日に終末を迎えていて、9月1日の琴美が死後の地獄に転移していても、琴美のスタンスはさほど変わらないだろう。なぜなら琴美は地獄でも相変わらず行人と一緒に無限の日常を送ろうとしていて、その日常は神の視点からすればおそらく有限であるということは、変わっていないのだから。
 
これで「有限のなかの無限のうちに…」という琴美のセリフは解明される。言葉を補うと、「神の視点から観測するとおそらく〈有限〉な世界の内部で、一緒に〈無限〉の日常を送ろう」、と琴美は行人に告げているのであろう。
 
 
……あー疲れた。
今回までの活動で『終ノ空の物語の根幹については7割近く語れたのではないかという気がしています。
これ以上『終ノ空について語ると憶測や不確定要素が多くなって、考察が堕落する気がするんだよな。
次回からは逆転裁判シリーズの考察を終焉に導こうと思いますw
昨年末の『終ノ空』考察解説まとめをアップデートしたので、リンク貼っておきますね。

*1:終ノ空には声優によるボイスが存在しないので見落としがちだが、琴美のセリフの間に彩名のセリフが混じっている

*2:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一四六頁。

*3:大澤真幸三島由紀夫 ふたつの謎』、集英社新書、二〇一八、一二三頁。

*4:ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』、同掲、一七〇~一七一頁。