かるあ学習帳

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『仮面ライダーセイバー』最終章考察~物語の結末は、視聴者も決める!~

仮面ライダーセイバー』は特撮ヲタクの間で評判が悪い作品だけど、最終章がとても面白かった。この最終章は、私が観てきた仮面ライダーシリーズの最終回の中で5本の指に入る名作だと思っている。ちなみに私は『シン・エヴァンゲリオン』と『SSSS.DYNAZENON』をまだ観ていないので、この記事には情弱ゆえの不備があるかもしれませんです。
 

メッセージはフィクションを越える

主人公・飛羽真たちは見事ラスボス・ストリウスに勝利したのだが、予め定められた世界の崩壊を食い止めることはできなかった。闇が世界を侵食し、万物は闇に飲み込まれた。世界の崩壊は集合知である「全知全能の書」に記されていたので、主人公である飛羽真すらもその摂理に抗えなかったのだ。
 

世界が闇に飲み込まれる直前、雑誌編集者の芽依は「あなたには、忘れられない物語がありますか?(中略)あなたの物語が世界を救うの。」というメッセージをインターネット上に送信した。芽依のメッセージは人々の元に届き、人々は忘れられない物語について語り始める。
 

ここから先の展開には、メタ的で高度なトリックが仕組まれている。実は『セイバー』最終章の放送数ヶ月前、番組公式サイトに「"本"や"物語"についてのエピソード動画を大募集!」というコーナーが設けられていた。『セイバー』をテレビ等で観ている視聴者に「忘れられない物語」に関するエピソードを動画で語ってもらい、視聴者から応募された動画が制作サイドに送信されたのである。
 
つまりこの『セイバー』とかいう番組は、「あなたには、忘れられない物語がありますか?」というメッセージを作中の一般人だけでなく、作品を視聴している現実世界の視聴者にも送信していたわけだ。「あなたには、忘れられない物語がありますか?」という質問はテレビ番組をメタ的に飛び越え、フィクションの向こうの現実に到達していたのだ。
 

現実は夢や虚構を支えている

闇に包まれた世界に、なんと視聴者から応募されたエピソード動画が次々に映し出される普段は『セイバー』を物語の外部から鑑賞している視聴者が、フィクション内部に取り込まれて放映された。暗闇の中に視聴者の思い出と登場人物の記憶が反響し、一旦崩壊した作中の日常世界は無事に再生した。虚構の世界が終幕しても、人々の思いがある限り物語は語り継がれ復活するということが表現されているのだろう。
 

そして主人公の小説家・飛羽真は、「長谷川一圭賞」という文学賞を受賞した。『セイバー』最終章の脚本は長谷川圭一さんが執筆していて、「長谷川一圭賞」というのは現実に実在する脚本家の名前をもじった賞なのだ。しかも長谷川一圭賞授賞式の場面には、なんと脚本家の長谷川さん本人がこっそり出演していたりもする。つまりこの『セイバー』最終章は、番組のメタ領域に存在する現実の視聴者だけでなく、作者すらも内側に招き入れているのだ!
 
ハッキリ言おう。この『セイバー』とかいう子供番組(笑)の最終章は、良い意味で頭がおかしいと思う。この最終章は虚構の内部に現実の視聴者と作者を取り込み、作品と作者・作品と視聴者の関係を表現しているのだ。ここまで来るともはや「子供無視の子供番組」どころの話ではなく、「実験的な現代アートの域に達していると言っても過言ではない。とんでもねえ最終章だな……誰がここまでやれと言った(誉め言葉)。
 
『セイバー』最終章では、作品の外部にある現実世界の様子を実写映像で取り込む」という技法が用いられている。この技法は、ヲタクコンテンツの歴史上ではそれほど目新しいものではない。例えばエヴァンゲリオン旧劇場版『Air/まごころを、君にでもアニメに実写映像を取り入れる技法が使われているし、SSSS.GRIDMAN』最終話でも新条アカネというアニメキャラが目を覚まして実写の現実世界の住人に戻った。
 

『セイバー』最終章と『SSSS.GRIDMAN』最終話の脚本家が両方とも同一人物・長谷川圭一さんであることは、看過できない重大な事実である。『セイバー』最終章は「虚構(テレビ番組)の外側にいる視聴者が内側にいる仮面ライダーを救済する」話である一方、『SSSS.GRIDMAN』最終話は「虚構(アカネの夢)の外側にいるグリッドマンが内側にいるアカネを救済する」話になっていた。
 

つまり『セイバー』では「民間人が外側で救済する側/ヒーローが内側で救済される側」、『SSSS.GRIDMAN』では「ヒーローが外側で救済する側/民間人が内側で救済される側」という構図になっていて、長谷川さんはグリッドマンの構図を仮面ライダーで逆転させているというのが私の解釈である。*1この転倒は長谷川さんが意図的にやったことなのかは私には知らへんけど、私の観察ではおそらく転倒が起こっていると思う。
 
エヴァ旧劇場版や新条アカネの場合は「現実に帰れ」というメッセージが含まれているのだが、『セイバー』最終章にはそういう意味合いは薄い。『セイバー』最終章では現実世界の視聴者の思いによって作中の虚構世界が修復されているので、現実の人間の思いがそこにある限り虚構の物語は続いていく」という結論になっていると解釈できる。つまり『セイバー』は「現実逃避をするな、夢を見るのをやめろ」と言っているのではなく、現実の人間の思いが夢や虚構を支えている」という話だったのだ。
 

「小説」としての『仮面ライダーセイバー』

第137回芥川賞を受賞した諏訪哲史さんは、物語のメタ的な構造に敏感な小説家である。諏訪さんは、すべての小説は不可避的に作者の内側に「入れ子のように包摂されていることを指摘している。物語の外側には作者が存在する。さらに私は、物語の外側には読者や視聴者のような受け手も存在することも指摘しておこう。物語のメタ領域には、作り手や受け手が存在するのである。
 

諏訪哲史(1969~)

そもそも、すべての小説が不可避的に、作品と作者という二重の箱、つまり入れ子の構造を有する以上、世にメタフィクションでない小説など存在しえず、逆に、「函(メタ)」への意識を欠く作品は小説ではない。作品と作者の対峙、その批評的自意識に欠けるものは、いずれ神話か伝承、お伽噺の類いにすぎないのだ。」*2
 

エヴァ旧劇場版はアスカがシンジに「気持ち悪い」と言った後すぐ終幕し、映画館のカーテンが上がって観客は現実に帰った。『SSSS.GRIDMAN』ではアカネが夢から覚醒し、実写映像の日常が始まった。このように「現実に帰れ」と提言した作品は、アニメのような虚構世界をかなり唐突に放棄し、視聴者を虚構の外の現実に引き戻す。エヴァ旧劇場版でも『SSSS.GRIDMAN』でも、あの結末の後も恐らく虚構世界の続きがあるのだろうと推測できるけれど、視聴者は虚構から追放される。
 

『セイバー』最終章の場合、虚構世界を存続させるためのエネルギーとして現実世界の視聴者の思いが要請され、視聴者の側も虚構の物語を必要とする。虚構世界はそう簡単にはシャットダウンされず、民間の人々の思いというエネルギーが供給されていれば恒常的にONであり続ける。虚構世界は作り手や受け手が生息する現実世界の内側に包摂され、作り手や受け手は時に虚構に介入しながら虚構を支える。セイバー』最終章では二重の箱=入れ子の対峙関係は壊滅せず、作品と作者・作品と視聴者の相互依存が維持されたのだ。
 
ここまで考えると、脚本家の長谷川さんが『セイバー』最終章で非常に画期的な成果を出したことがおわかりいただけたのではないかと思う。ガイナックスがヲタク文化を牽引していた90年代、庵野監督はエヴァ旧劇場版で「現実に帰れ」と提言し、当時のヲタク達に大きな衝撃を与えた。ガイナックスの遺伝子を多分に継承したトリガーのスタッフと長谷川さんは、『SSSS.GRIDMAN』で「現実に帰れ」という提言をより現代的に再説した。そして長谷川さんはグリッドマンのメタ構造を『セイバー』で反転させ、「現実に帰れ」の先を行く物語論を定立したのである(と俺は思っている)!
 

↑「ゆっくり仮面ライダー」より抜粋
もしも『セイバー』の中盤以前の出来が良かったら、『セイバー』はヲタク文化の歴史を塗り替える伝説的名作になり得ただろう。しかし『セイバー』は終盤に至るまでの過程がうんこ過ぎる番組だったので、多くのファンを逃がしてしまった。この『セイバー』、最終章ギリギリの終盤からの出来が神ががってるのに……。畜生、なんで世の中はこんなに上手く行かないことばかりなんだ?
 
ともかく諏訪さんによると、メタへの意識を欠く作品は小説ではない」という。必ずしもそうとは言い切れまいと私は思うけれど、『セイバー』最終章はメタ世界の存在をしっかりと意識している。作品と作者の対峙、さらには作品と視聴者の対峙が、物語を結論に導いた。『セイバー』の主人公・神山飛羽真の職業は、小説家だ。そして仮面ライダーセイバー』という作品自体が、諏訪さんの定義を借りれば「小説」だったのだ。

*1:新条アカネは夢の中では「神」と呼ばれているものの、現実世界ではたぶん民間の女子だと思うので、「民間人」って書くことにしたよ

*2:諏訪哲史『アサッテの人』、講談社文庫、二〇一〇、一八五頁。

『仮面ライダーセイバー』第46章が語る芸術作品の根源

仮面ライダーセイバー』(以下『セイバー』)は、特撮ヲタクの間で非常に評判が悪い作品である。この作品には10人以上の仮面ライダーが登場するのだが、明らかに無駄なライダーが多い。しかも現代・15年前・2000年前の出来事が複雑に絡み合う脚本が不親切で、手元にメモを用意しないと置いてきぼりにされるレベルだ。しかも主演俳優の内藤秀一郎さんがパチンコ通いや路上喫煙などをする素行不良の人物で、文春砲を食らって炎上したという話もある。『セイバー』は他にも悪名高い逸話に満ちているので、心の狭い人には絶対に勧められない作品である。
 
「嫌な作品は観なければいいじゃん」という言い回しがあるけれど、仮面ライダーは将来性のある新人俳優の登竜門のような番組であり、50年以上続く伝統もある。そのため芸能界の未来と特撮の歴史を知りたい私としては、仮面ライダーシリーズは「嫌でも観続けなければならない」のだ。それにしても『セイバー』は最終章とその一歩手前の第46章についてはとても良く、我慢して観た甲斐があったな」と思った。第46章は現役小説家の主人公と元詩人のラスボスが創作談義のような応酬をするという内容で、これはクリエイターなら(たぶん)観て損はしない回であろう。
 

「言葉が与えられている」という絶望

仮面ライダーセイバーに変身する主人公・神山飛羽真は、現役の小説家である。飛羽真は「滅びの塔」を駆け上がり、ラスボスであるストリウスに対面する。ストリウスは飛羽真に、自分はもともと詩人だった」ことを打ち明ける。
 
ストリウスは2000年前の世界でポエムを執筆していて、無我夢中で美しい文章を書く日々を送っていた。しかし彼の心に生まれる言葉は全て、「全知全能の書」と呼ばれる集合知から贈与された情報であった。自分の著作物が自分の創意から生まれたものではなく、自分が全知全能の書に文学作品を執筆させられている無力な駒に過ぎないことを知ったストリウスは、絶望した。ニヒリズムに陥った彼は闇堕ちし、物語のラスボスを演じることを決意したのである。
 

ストリウス
「2000年前、私もあなたと同じように言葉を紡ぎ・物語を綴る、詩人でした。言葉は次々と私の中に生まれ、私は無我夢中で美しい物語を書き続けた。そして、歴史に残る大傑作を書き上げたのです!でも、見てしまったのです……。」
 

ストリウス
「私が生み出した全ての詩は、全知全能の書に既に書かれていたのです。今まで創造したと信じたものは何もかも与えられたものだった。それを私はただ、書き上げただけだった……。人間に創造力など、無かったのです!
 

ストリウス
宇宙の真理に比べれば……人間など、ゴミ粒同然のちっぽけな存在!何も、変えることはできないのです!」
 

芸術家は捨て駒に過ぎない

さて、ストリウスの呪詛に満ちた告白を、我々はどう受け止めれば良いのだろうか?とりあえずストリウスが提示した論点は、詩人や小説家のような文学者は宇宙の真理に使役される駒なので嫌だなあ」ということであろう。
 
ストリウスの論点は私が目するところ、後期ハイデガーの芸術作品論と密接な関係を持っており、美学芸術学の根幹に関わる議題であると考えられる。後期ハイデガーも画家や詩人は自らの主体性によって創作するのではなく、自分ならざる霊感に促されるかのようにして真理を作品化すると考えた。つまりストリウスの思想は、後期ハイデガーにかなりよく似ていると言えるわけだ。
 
「芸術作品は、そのものなりの仕方で、存在するものの存在を開示する。作品においてはこの開示が、すなわち存在するものの露開が、すなわち存在するものの真理が生起する。芸術作品においては存在するものの真理がそれ自体を作品の内へと据える。芸術とは真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えることである。*1

「芸術家によって作品は、純粋に〈そのもの自体の内に立つこと〉へと解放されるべきなのである。ここで話題にしているのは偉大な芸術だけなのだが、まさにそのような偉大な芸術においては、芸術家のほうは作品に比して何かどうでもよいものにとどまる。芸術家は、創作にさいして作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなものとほとんど同じである。*2
 
ハイデガーは、「芸術とは真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えることである」と語っている。この奇妙な文言は、芸術はこの世の真理によって作られるものであって、芸術家の主体によって作られるものではない」ということを意味している。さらにハイデガーは、芸術家は大体作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなもの」だとまで豪語している。芸術を生み出すのはあくまでもこの世の真理なのであって、芸術家は真理によって芸術を作らされているだけの捨て駒に過ぎないというわけだ。芸術家は捨て駒なので、作品に比して何かどうでもよいもの」だという話にもなってくる。
 
ハイデガーは善悪や良し悪しが生まれる以前の真理を探求する傾向がある人だし、後期になってくると思想が人間中心じゃなくなってくる。一方セイバー』第46話はあくまでも創作論を芸術家視点で語っているし、芸術家が真理に使役される捨て駒だ」という説を元詩人の悪役に非常に不愉快な事実として解釈させている。
 
この第46話の脚本家・長谷川圭一さんがハイデガーに詳しい人なのかは私には不明だし、ストリウスが言う「真理」とハイデガーが言う「真理」には、厳密に言うとと違いがある。目ざとい人にはこの差異がかなり気になると思いますが、今回はアバウトな話で大目に見て下さい……)しかし、セイバー』第46話の内容には適当に看過できない根本問題が含まれているということが、ここまでの説明である程度伝わって欲しいなと思う。
 

人間は物語る葦である

飛羽真は人間はちっぽけな存在だ」というストリウスの説に一応同意した上で、物語には宇宙よりも広い無限の可能性が広がっている」と切り返す。飛羽真の話をよりわかりやすく言うと、ようは物理的な宇宙空間よりも人間の精神世界のほうが無限大の広さがある」ということであろう。まあ、作中の全知全能の書は、登場人物の心の中もコントロールしてるんだけどね……。
 

飛羽真
「確かに、俺達はちっぽけな存在かもしれない。……でも本の中には、この宇宙よりも広い無限の可能性が広がっている。人は本を読み、その物語の中で自由になり、幸せになれる。小さい頃、俺は独りで本ばかり読んでいた。その本の中で、色んな冒険をし、色んなものに出会った。そして、本は俺に友達をくれた。」
 
もしかしたら世の中には、「科学者や物理学者は高性能な望遠鏡で遠い惑星やブラックホール観察する派手な研究ができるけど、小説家や詩人のような文学者は原稿やパソコンに向かって文章を書いてるだけの地味な職業だ」と思っている人が存在するかもしれない。しかし、よく考えてみて欲しい。科学者や物理学者は望遠鏡や顕微鏡でマクロな世界やミクロな世界を研究できるものの、人の心の中の具体的な思考や空想を読み書きする能力は文学者よりも秀でているとは言い切れないだろう。
 

小説家や詩人は人の心の中を繊細に表現することができるし、非科学的な魔法や妖怪に関する文学作品を執筆することもできる。物理的な宇宙空間を研究するのは科学者や物理学者には到底敵わないけど、精神的な心象風景や非科学的な世界を探求するのは文学者の得意技であろう。人の心の中の世界の広さは数理的に測定できないものの、表現の自由の幅が広いので、無限の広がりを持っているのだ。
 

飛羽真
たとえ俺の物語が、何かに与えられたものだとしても、そんなのはどうだっていい!誰かが書いた物語が、思いが、それを読んだ人の中で、新しい物語として生き続ける。だから俺は物語を書く。だから俺は、本が大好きなんだ!」
 
かつてハイデガーは、芸術家を真理に使役されるだけの「何かどうでもよいもの」だと評した。そしてストリウスは、自分が真理に比べれば「ゴミ粒同然」であるという事実を呪った。後期ハイデガーやストリウスは、人間が真理に従属するという脱・人間中心主義」を認めていたわけだ。しかし飛羽真は「人間が真理に比べればどうでもよい」という事実を「どうでもよい」と反転させる。そして「脱・人間中心主義」人間中心主義」に反転させ、物語を読んだ人間の心の中の問題に話の軸を移動させたのだ!
 
人間は真理に隷属するだけの、どうでもよい存在かもしれない。しかし芸術家が真理に促されるかのようにして創作した物語でも、その作品が他人の心の中で生き続けるのならば、それでいいのではないだろうか?と飛羽真は考えた。人の心の中で物語が継承されるという事実こそが尊いと思えれば、人間が「どうでもよい」脆弱な存在であるという事実はどうでもよい」ものに転回する。ちなみに俺としては、飛羽真のように人間を擁護する思想よりも、人間を矮小化する思想のほうが反ってスカッとするんだけどなww(台無し)
 
ともかく人間は、自然界における脆弱な葦に過ぎない。しかし人間は、物語る葦なのである。

*1:ハイデガー(関口浩訳)『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー、二〇〇八、五三~五四頁。

*2:同上、五六頁。

ブログマスコットキャラクター・はわわちゃん誕生っっっ!!

今回は前回の続きで、アニメ系ドールの世界を取材した結果を報告します。
生々しい話をすると、前回の記事は何となくモヤモヤした結果に終わりました。
アニメ系ドールはヲタクや女児にとって親しみが沸きやすそうな外見をしているので、皆さんの多くにも楽しんで貰えるかと思ったのですが……私が思ったよりアレがナニでしたね。
あと、私自身の性格や芸風がアニメ系ドールという趣味にイマイチ向いてない気がしてきて、この領域の話題は他の適任者さんに任せたほうがいいかもなーと思いました。
でも、今回は話の続きをやらせて下さいお願いします、笑
韓国のSADOL社製球体関節人形「Miyuki 31 Full Package」開封したので、開封した結果をレビュウさせて頂きまするー。
いつもに増してデカい写真を記事にたくさん貼り付けて申し訳ないです、、、