カミュ「不貞」批評~星空と不倫した女~
「不貞」(『転落・追放と王国』所収)
アルベール・カミュ(窪田啓作訳)
2003年初版発行
夫に愛されない女
「不貞」の主人公は、ジャニーヌという人妻です。 ジャニーヌは25年前にマルセルという男にしつこくつきまとわれ 、結婚します。しかし夫のマルセルは、商売に興味を持ってから、 金銭に情熱を見いだすようになります。ジャニーヌは、 夫のマルセルが自分を愛していないことに気付きます。
彼女はマルセルについてきた。それだけだ。誰かが自分を求めていると感ずることに満足して。 夫が彼女に与えた喜びは、 ただ自分が必要とされていると感ずる喜びだけだった。おそらく、 夫は彼女を愛していなかったろう。(p.186)
ただ彼女は知っていたーマルセルは彼女を必要としていた、自分は夫から求められることを必要としていた、と。 自分は日夜そして特に夜、この夫の要求を生きてきた、と。 夫が孤独と、老いと死を怖れる夜のたびごとに…… そのときの夫のあのしつっこい様子…… それは他の男の顔にもよく見かけた。(p.186)
要するに、夫のマルセルはジャニーヌを愛しておらず、 孤独や老いや死を怖れているだけだった。 夫は実存することの寂しさに耐えられなくて妻を求めていただけで 、妻を愛しているわけではなかったんですね。
うーむ、 これは人妻が他の男と不倫しそうなフラグが立っていますね…。 しかし、ジャニーヌが不倫した相手は人間の男ではなく、「星空」 だったのです。
人妻を寝取る星空
ジャニーヌは寝台で「声なき呼びかけ」を感じとり、 夫と一緒に宿泊しているホテルの外の夜の世界に飛び出します。 ジャニーヌは堡塁(注:要塞のような建物のことです)を登り、 星空に向かって心を開きます。
目の前で、一つまた一つ星々は落ち、やがて砂漠の石のあいだに消え去った。そのたびごとに、 ジャニーヌは少しずつ夜に向って心を開いた。 (中略)そのとき、耐えがたいやさしさをもって、夜の流れがジャニーヌを涵しはじめ、寒気を沈め、 その存在の幽暗な中心から昇り、絶えざる波となって、 呻きに満ちるその口にまで溢れ出た。一瞬の後、空全体が、 冷たい地上に倒れていた彼女の上に押しかぶさってきた。(p. 191)
夜の流れがジャニーヌの体を満たし、 最後には星空全体がジャニーヌの上に押しかぶさります。 まるで倒れている人妻を星空が寝取っているかのような描写がなさ れていますね(笑)。 そしてジャニーヌは夫のいるホテルに戻ります。
夫は敷布の間にもぐりこもうとした。そのとき、片膝を寝台にかけて、妻のほうを見つめたが、 訳がわからなかった。彼女は泣いていた。 もうこらえることもできなくて、さめざめと涙を流していた。「 何でもないの」と彼女は言った、「あなた、何でもないの」(p. 192)
ジャニーヌが泣いた理由は、いろいろ考えられると思います。 夫に愛されていない自分の身の上に耐えられなくて泣いたのかもし れない。また、 星空に優しく包み込まれた感動的な経験を思い出して泣いたのかも しれない。妻が星空に寝取られたんだけど、 夫のほうは状況がよくわかっていない。 そんな感じでこの小説は終わっています。
エロティシズムとロマンチズム
で、唐突に朗報なんですが、『青い空のカミュ』の原画・ シナリオ担当の〆鯖コハダさんにTwitterでこのブログを褒めて頂きました。 まさか作者様から直接コメントを頂けるとは思っていなかったので 、大変嬉しく思っております。
私は先日、↑の記事で『ペスト』 の男同士が海水浴をするシーンは性行為を連想させると申し上げま した。コハダさんも私の考えと同意見なようです。『ペスト』 の海水浴のシーンは性行為そのものを描いたシーンではありません が、 愛し合う者同士が愛を確かめるために行う性行為の美しさを感じさ せるような書き方がしてある。
「不貞」 でジャニーヌが星空に向かって心を開く場面も性行為そのものを描 いたシーンではありませんが、 やはり愛のある性行為の美しさを連想させるような書き方がしてあると思いま す。カミュという作家は性行為をそのまんま書くんじゃなくて、 性行為を美しく象徴的に書くのが上手い作家だと思う。 人妻が星空と不倫するというシチュエーションは、どこかエロチックでとてもロマンチックですね。
〈追記〉
また、この記事に貼られている砂漠の写真と星空の写真は厳密に言うと小説で描写されている状況とは微妙に違うものなのですが(汗)、検索しても他にいい写真素材が見つからなかったので許してクレメンス。