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『青い空のカミュ』批評~「綺麗なもの」と「傷だらけなもの」は両立する~

今回は、『青い空のカミュ』製品版の結末を考察します。『青い空のカミュ』の考察は、おそらく次回で最後になると思います。皆さん、よければもう少しだけおつきあいくださいw
 
結論から先に言うと、人の心は傷だらけになっても純粋を保つことができる」というお話をさせていただきます。また、『青い空のカミュという作品は、ただ単に「存在するものはすべて美しい」という文字通りの綺麗事を言っているわけではないというお話でもあります。
 

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『青い空のカミュ

シナリオ・原画:〆鯖コハダ
(C)KAI
2019年3月29日発売
 
『青い空のカミュ』製品版の結末の考察で多いのは、製品版の結末を宮沢賢治銀河鉄道の夜から読み解く考察です。製品版の結末は明らかに「銀河鉄道の夜を意識したものですから、「銀河鉄道の夜が参照されるのは当然のことでしょう。しかし、いろいろ考えた結果、製品版の結末の考察で「銀河鉄道の夜を参照すると、解釈に曖昧な点が出てくると(私は)思いました。そのため私は今回、製品版の結末と「銀河鉄道の夜の関係については沈黙することにしました。
 

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燐は純粋で美しい心を持つ蛍のことを「傷一つなく綺麗な存在」だとみなしており、複雑な過去を持つ燐自身の心には「ひっかき傷」がたくさん付いていると思っていました。
燐「きっとね、蛍ちゃんは本当はこの世界の人じゃないんじゃないかって……そんなことを考えていたの。だって、蛍ちゃんって傷一つなくて、キラキラしているから」
(中略)
燐「わたしはもう引っ掻き傷だらけだもん……でも、蛍ちゃんが、そのままできれいなままなら、そんなことは、全然かまわないよ」
 
皆さんは、「ひっかき傷」という言葉の意味を考えたことがありますか?「ひっかき傷」という言葉には、「刺し傷」「咬み傷」などと比べて「奥底に達していない、表面に付いた傷」というイメージがあると私は思います。『青い空のカミュの作中では、「ひっかき傷」という言葉がよく使われていることが印象的でしたね。ただ単に「傷」「古傷」などと言わず、「ひっかき傷」という言葉が選ばれていることにはそれなりのわけがあるように思います。
 
 
 
(↓↓↓以下の文章には重大なネタバレが含まれています↓↓↓)

 

 
 

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製品版の結末では、青いドアの家の世界にある駅のホームに、現実世界に帰るための電車がやって来ます。蛍はすぐに電車に乗るのですが、燐は駅のホームに立ったままで、青いドアの家があるほうを見ています。燐には、青いドアの家の世界に何か未練があるみたいですね。そして、燐は電車に乗り損ね、青と白で彩られた「完璧な世界」に残ります。
 

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燐が「完璧な世界」に残った理由は、ラストの線路の場面で少し明かされています。
燐「蛍ちゃんの名前を呼ぶだけで、わたしは幸せだよ。綺麗な蛍ちゃん、何より大切な友達。ずっとそのままでいて欲しい」
燐「それが、わたしの望み」
燐「でも、わたしは傷だらけになっちゃった……誰が悪いわけでもないと思うの。でも、わたしはそれに耐えられなかったんだ……」
燐「わたしといたら、蛍ちゃんまで傷ついてしまうかも。それは、絶対にダメなこと」
 
この燐のセリフから、燐は自分の心にひっかき傷がたくさん付いていることに耐えられなかった。そして、自分の存在が蛍をも傷つけることも許せなかった。だから燐は、傷つくことのない完璧な世界に残ることになったのだ」と解釈できそうですね。
 
ところが、他の方の考察を読んだら、このタイプの解釈に対する反論が載っていました。青い空のカミュ』の作中では、燐や聡の心が純粋で美しいものとして表現されている。燐の心は不純だとか傷ついているとかみなすのは、『青い空のカミュ』の理念に反する解釈だ。みたいな内容の反論でした。
 

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私は、「ひっかき傷」という言葉の解釈次第では、この反論に対してさらに反論ができると思っています。私は先ほど述べた通り、「ひっかき傷」という言葉を「奥底には達していない、表面に付いた傷」という意味で解釈しました。燐の心の「奥底(というか、“心自体”ともいうべきもの)」は純粋で美しいものだったのだが、燐の心の「表面」にはたくさんのひっかき傷が付いていた。持ち物をしっかりと手入れする燐は、たとえ自分の心の核心が純粋で美しいものだったとしても、心の「表面」についたひっかき傷を許せなかった。だから、燐は「完璧な世界」に残ることになったのである。このような再反論が可能だと思います。
 
例えば、自分の車の表面にひっかき傷がたくさん付いていたら、車自体は問題なく動作したとしても、とても気になることですよね。それと同じように、燐の心の「表面」にひっかき傷がたくさん付いていたら、燐の心自体が純粋で綺麗だったとしても、それは気になることでしょう。このようにして「ひっかき傷」という言葉は、「存在するものはみな綺麗なものだ。醜い外見をしたものも、その殻を脱ぎ捨てれば綺麗なものだ」という『青い空のカミュ』の理念と両立すると私は考えています。
 
私が『青い空のカミュ』のシナリオを読んだ限り、そうした理念との整合性まで考えて「ひっかき傷」という言葉が選ばれているように思いました。「完璧な世界」は、「表面のひっかき傷すら許せない、潔癖な“完璧主義者のための世界”」でもあると解釈することも許されそうですね。こうしたこととは若干別に、オオモト様が燐と蛍を「傷一つなくて傷だらけ」だと評していることからしても、この作品では「綺麗なもの」と「傷だらけなもの」は両立するといってよいかと思います。
 

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ずれてしまった思いは、ときには相手に無数のひっかき傷をつけ……自分もまた傷ついて。
その奥にあるのは、こんなにも透明で美しい何かであるのに。