かるあ学習帳

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『仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』考察feat.マルクス・ガブリエル、三島由紀夫

今回は、昨年末に上映された映画仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』(以下『平ジェネFOREVER』)を考察します。それと関連付けて、マルクスガブリエルの哲学や三島由紀夫の文学なども再考してみようと思います。

 

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仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』
監督:山口恭平
脚本:下山健人
(C)「ジオウ&ビルド」制作委員会
2018年12月22日公開
おすすめ度:★★★★★平成ライダーの集大成にふさわしい傑作)
 

虚構の存在の存在感

『平ジェネFOREVER』は、平成仮面ライダー20作記念映画です。この映画には、20人の主役ライダーが全員登場します。この映画はいわば「平成最後のお祭り的作品」だったわけですが、人間の記憶の中の虚構の存在を描いたシナリオは考察に値します。この映画に登場する仮面ライダーはみな、「虚構の存在」として描かれているのです。
 
この映画には、アタル君という仮面ライダーヲタクの高校生が登場します。アタル君は、本来なら平成仮面ライダーが実在しないはずの世界の住人です。しかしアタル君は「フータロス」という怪人の力を利用し、虚構の産物である歴代の平成仮面ライダーを実体化させてしまいます。
 

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アタル「仮面ライダーは現実の存在じゃない。虚構の産物だ。君たちがライダーとしてここにいるのは、俺の妄想なんだ
 
マルクス・ガブリエルのいう唯物論(物質主義)的な世界像に慣れ親しんでいる私たちは、客観的な物体として実在しない虚構の産物を軽視する傾向にあると思います。プリキュア仮面ライダーなんて所詮フィクションだろ?フィクションは現実と比べて脆弱だ。…みたいな感じで。ところが『平ジェネFOREVER』の終盤では、仮面ライダーという虚構の存在の「存在感」が、声高に強調されるのです。
 

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アタル「勝手に作り事だと言って信じなくなったのは俺自身だ。覚えている限り、ライダーはいる!
ソウゴ「そうだ…現実とか虚構とか関係ない!
戦兎「俺たちは実際にここにいる。今、ここにな」
 
プリキュア仮面ライダーのような「作り物」は、現実に実在する「本物」と比べて一見脆弱に思えます。しかし、虚構の存在は人々の記憶に残っている限り、人々の記憶の中に永遠に存在することができます。虚構の存在は人々の記憶という居場所(マルクスガブリエルのいう意味の場)を与えられた、れっきとした存在者なのです。
 
余談ですが、ガブリエルは『平ジェネFOREVER』のように、虚構と現実の区別を解体する哲学を提唱しました。もっともガブリエルは架空の存在や人々の思考すらも〈現実に存在する〉とみなしたせいで、多くの批判を呼んだわけですが。
 

人の記憶の強さと儚さ

文豪・三島由紀夫が書いた天人五衰という小説があります。この小説では、人の記憶について語られています。
 

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記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに*1
 
「幻の眼鏡」とはよく言ったもので、人の記憶は(実際起こったことかはともかく)遠い昔の出来事を最近あった出来事のように見せることがある。私は中学生のころに『仮面ライダークウガを初めて観ましたが、『クウガ』の内容は強烈だった記憶があるので、あの時のことは今でもまるで最近のことのように覚えている。
 
また逆に、人の記憶は最近出会った人や出来事でもすっかり忘れ去ってしまうことがある。虚構の存在は、人の記憶が枯渇したら存在の危機に直面します。『平ジェネFOREVER』に登場する仮面ライダーたちは虚構の存在なので、アタル君の妄想が切れた途端に一旦消滅しました。『仮面ライダー電王』に出てくるオーナーも、人の記憶の儚さについて語っています。
 

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オーナー「人の数だけ記憶がある。重要なのは、内容ではなく覚えていることですから。忘れられたら消えてしまう。とても儚い
 
こうしてみると、人の記憶や虚構の存在は、ある意味ではとても強いしある意味ではとても儚いものですね。人の記憶や虚構の存在は人々が覚えている限りいつまでも残り続けるので、そういう点ではとても強い。その一方、人の記憶や虚構の存在は人々が忘れたらすぐに消滅しうるので、そういう点ではとても儚い。
 
三島由紀夫の『天人五衰は仏教でいう解脱を描いた小説だったので、記憶から解放された本多老人の静かな世界がラストで表現されています。天人五衰』は、どちらかというと人の記憶の強さよりも儚さの方に肩入れした小説だったと思います。そして、余計な記憶が無くなることがある種の「救い」として描かれていると感じます。
 

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 そのほかには何一つとてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……*2
 
余計な記憶が無くなることによって救われることがある一方、心に残る大切な記憶によって救われることもあります。平ジェネFOREVER』のシナリオが言いたいことは三島よりもガブリエルの新実在論近いものだったので、人々の記憶にいつまでも残り続ける仮面ライダーの存在の確かさが表現されていたのでした。そして、人々の記憶から現れた仮面ライダーは、人々を救いました。
 
平成が終わり、令和になったけど、平成仮面ライダーの存在は私たちの記憶の中ではいつまでも身近に感じられる。平成ジェネレーションズFOREVER』という題名は、まさにこの作品にぴったりだ。
 

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モモタロス「バカ野郎。俺たちもお前を忘れるかよ。良太郎」
 
〈参考文献〉

*1:三島由紀夫天人五衰』、新潮文庫、一九七一、三四〇頁。

*2:同上、三四二頁。