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大江健三郎『燃えあがる緑の木』第一部のあらすじと解説

今回は、日本人で2人目のノーベル文学賞作家・大江健三郎の代表作『燃えあがる緑の木』第一部のあらすじと解説を掲載します。先月、Eテレの「100分de名著」という番組で『燃えあがる緑の木』が取り上げられたので、この機会に番組の内容も考慮しつつ考察してみましょう。

 

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『燃えあがる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで』
1997年初版発行
 
(注:今回の考察はちょっと長いです。興味が無いところは適当に読み飛ばして頂いてOKです。)
 

あらすじ

 
この小説では、「ギー兄さん」という指導者が四国の村で行った言行が語られます。ギー兄さんはもともと隆という名前だったのですが、村で尊敬されている「オーバー」というお祖母ちゃんによって、ギー兄さんと呼ばれるようになりました。やがてギー兄さんは「救い主」として、村に教会を持つようになります。この小説の語り手は、サッチャンという両性具有者です。サッチャンは小説家のK伯父さんに勧められて、ギー兄さんをめぐる物語を書くことになります。
 
第一章では、オーバーが亡くなるまでの過程や、隆が四国の村を訪れた経緯が語られます。第二章では、「童子の螢」という伝統行事の復活や、「童子の螢」にまぎれて行われたオーバーの埋葬の様子が描かれます。第三章では、オーバーのお葬式や、隆=ギー兄さんがカジ少年に対して行った最初の説教の様子が描かれます。
第四章では、両性具有のサッチャンがザッカリーという男に出会い、女性に「転換」した経緯が語られます。
第五章では、ギー兄さんが世間から得た人望と、その割には弱気なギー兄さんの様子が描かれます。第六章では、カジ少年が小児癌で亡くなるまでの過程や、ギー兄さんに反感を覚えた人々による糾弾が描かれます。第七章ではギー兄さんが村の人々から受けた受難が語られ、サッチャンが教会を建設することを提案したところで第一部は終わります。
 

解説

 
・両性具有の語り手
 
この小説を読んでまず驚かされるのは、語り手であるサッチャンの設定でしょう。サッチャンは女性的な乳房と女性器を持ち、なおかつ男性器も持つ両性具有者です。そしてサッチャンはもともと少年として生きていたのですが、女性に「転換」したという過去も持っています。どうしてサッチャンは、こんなに奇抜な設定になっているのでしょうか。
 

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Eテレ「100分de名著」より
先月「100分de名著」に出演した小野正嗣さんによれば、誰のなかにも女性的なものと男性的なものが入り混じっているはずである」とのこと。*1確かに、誰の心の中にも〈女らしい〉ところと〈男らしい〉ところが同居していそうですね(ちょっと嫌な言い方ではありますが)。そしてサッチャンは、〈女〉と〈男〉のうち、〈女〉として生きることを自分から選び取った。両性具有の語り手という設定には、大江健三郎ジェンダー観が表れているという説ですね。
 
ここからは、私=甘井カルアの説になります。サッチャンは〈女〉として生きることを決断した人間でありながら、〈男〉である作者=大江健三郎の代わりに物語を語る語り手でもあります。ですから、サッチャンの語りにはどうしても〈男〉という要素が混入していると思うんです。サッチャンが両性具有者なのは、「俺という男には純粋な女心は描けない」という大江健三郎の一種の敗北宣言のような気がするんだよなw中で、サッチャンもこう言ってるし。
 
つまり私はすっかり女性に変ってしまったというより、「転換」以後も、心理的には男性としてのあり方を根底にひそめているようなのだ。(中略)そして自分がこれから望ましい女性として成熟していくことは、時どき自分が自然にそちら側に移っているのを感じる、男性の文体を自己表現のかたちにかためることではないか、と考えることがあった。(p.36)
 
また、第四章には、ザッカリーという男がてんかんの発作を起こす場面と、サッチャンが女性に「転換」する場面があります。これはおそらく「てんかん」と「転換」をかけた一種のダジャレだと思います。皆さん、ここは大江さんのギャグを笑ってあげましょうw
 
・〈永遠〉に対抗しうる〈瞬間〉
 
『燃えあがる緑の木』第一部で特に感動的なのは、第三章で行われるギー兄さんの説教でしょう。自分が死んだ後でも、この世界で時間が続いていくのが恐い」というカジ少年に対して、ギー兄さんは優しい言葉をかけます。
 

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シュガー・メイプルの木。
もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか?そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮かぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?(p.172)
 
もしも、永遠に近いくらい長く生きた人間が存在するとしたら。その老人が長い長い自分の人生を振り返るとき、おそらくその老人は一瞬よりはいくらか長く続いた過去の思い出を思い出すだろう。早死にする子供も、長生きした老人も、生きた証しとするのは短い間の思い出だ。だから、短い間続く眺めに集中することが大事なのだ。…ギー兄さんは、小児癌を患うカジ少年にこう告げるのでした。
 
永遠と対抗しうるのは、じつは瞬間じゃないか?ほとんど永遠にちかいほど永い時に対してさ、限られた生命の私らが対抗しようとすれば、自分が深く経験した、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景を頼りにするほかないのじゃないか?(p.174)
 

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〈永遠〉に対抗しうるのは、〈瞬間〉ではないかとギー兄さんは言います。ニーチェの『(権)力への意志』はギー兄さんの説教とはだいぶ違った内容ですが、〈瞬間〉を肯定することによって〈永遠〉をも肯定する思想でしたね。〈永遠〉に対抗できるのは、〈瞬間〉だ。だから、心に残る〈瞬間〉を記憶に刻むことが大事なのだ。ギー兄さんの説教やニーチェの哲学からは、このような教訓を得ることができます。
 
・「NHK批判」の予言!?
 
『燃えあがる緑の木』は平成の初めに発売された小説ですが、発売後の未来の事件を予言した小説だと言われています。続きの第二部・第三部を読めばおわかり頂けると思いますが、この小説はオウム真理教事件原発事故を予言した小説だと解釈できます。
 

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或る芸術家、かく語りき
第一部では、ギー兄さんの超能力を報道したNHK特集がインチキだと批判される場面があります。私はこの場面を読んで、これは数年前から活発化した「NHK批判」の予言みたいだなと思いました。過去にNHKスペシャルで特集された某作曲家や、最近話題になっている某政党のことを私は思い浮かべました。
 
先月Eテレで放送された「100分de名著」では、この「NHK批判」の場面については全く触れられませんでした。NHKでは放送しにくい話題だったから、スルーされたんでしょうなw
 
 
…他には第六章の「感覚の共通性」の話が面白かったけど、大まかなポイントは以上かな。第二部・第三部の解説は気が向いたら書きます。
 
〈参考文献〉
小野正嗣『100分de名著 燃えあがる緑の木』、NHK出版、2019年