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大江健三郎『燃えあがる緑の木』第二部のあらすじと解説

今回は大江健三郎の後期の大作『燃えあがる緑の木』第二部のあらすじと解説を掲載します。この小説は第二部から一気に論点が増えます。今回でその全てを語り尽くすことは不可能ですが、とりあえず語れるところまで語ってみましょう。

 

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『燃えあがる緑の木 第二部 揺れ動く〈ヴァシレーション〉』
1998年初版発行
 
(注:今回の考察は相変わらず長いです。興味が無いところは適当に読み飛ばして頂いてOKです。)

あらすじ

 
第二部では、実在するアイルランドの詩人・イェーツの詩句や、ギー兄さんの父・総領事が重要な役割を担います。第二部ではギー兄さんの教会に新しい仲間が加わり、教会が繁栄します。教会に対する反対勢力の動向も描かれますが、第二部はかなり明るい印象を受けました。
 
第一章からはギー兄さんの教会に伊能三兄弟と三人の娘たちが加わり、イェーツの詩句や総領事が物語に大きく介入するようになります。第二章ではザッカリーが教会を訪れて総領事と親睦を深めたり、オセッチャンの連れ子・真木雄が「屋敷」に住むことになったりします。第三章ではギー兄さんを糾弾した亀井さんが改悛し、教会を新しい段階に導きます。
第四章では、K伯父さんが構想したSF小説『治療塔の子ら』の展開について語られます。第五章では教会の建築が進みますが、総領事が心不全で死を遂げます。第六章では総領事の葬儀で「薔薇の奇蹟」が演出され、完成した礼拝堂でギー兄さんが説教を行います。第七章のラストではギー兄さんが礼拝堂でしゃがみ込み、失望を覚えたサッチャンが礼拝堂を出て終わります。
 

解説

 
・「繭」と「集中」
 
ギー兄さんの教会には、信仰すべき神はいません。あらかじめ用意された神が存在しない「空屋」のような教会で、人々は「集中」という行為に没頭します。

 

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Eテレ「100分de名著」より
なにもなかにはないかも知れない、むしろなくていい、そうした繭のようなものが思い浮かぶから。それに向けて、集中する。(中略)自分の集中している考え方そのものが変化してゆく、その過程に立っている、という気持もあるけれど、少なくともいまの私には、繭のなかになにがあるかは重要なことじゃない。もっとも中心的な関心事ではないわけなんだ。(pp.83-84)
 
この段階のギー兄さんは、神が存在するという「信仰」を持ちません。かといってツァラトゥストラのように、「神は死んだ」と言い張ることもしません。ギー兄さんは、神が存在しないからもうどうでもいいやという「ニヒリズムにも陥りません。神が内在しているかどうかわからない何かに集中し、その集中するという「行為」に価値を見出だします。神が存在するかどうかはともかく、その何かに集中して人生を充実させればそれだけで大したもうけだという話ですな。
 
 それ以前に、私にできることがあれば、繭に向けて集中することだけで、しかもそれはそれなりに充実した生き方だと思う。(中略)その感じ方にそくしていえば、光り輝く繭といったけれども、それがもう蛾の飛び立ったからの繭だったとしてもいいんだよ。空屋の教会でどうしてよくないだろうか?(pp.84-85)
 
…とはいえ弱気なギー兄さんは、神の存在の有無がちょっとは気になるご様子(笑)。
 
・補説:「中心の空洞」
 
ギー兄さんの「繭」の例え話を聞いたザッカリーが気になる発言をしていたので、引用します。
 
 ーKさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね?たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。(p.85)
 

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ザッカリーがいう「中心の空洞」というのは、実在する心理学者・河合隼雄のいう「中空構造」とほとんど同じものだと私は思いました。河合隼雄は『中空構造日本の深層』で、日本神話や日本文化の中心が「空」であることを指摘しています。大江健三郎河合隼雄と関係が深い文化人類学者の山口昌男も、河合隼雄の「中空構造」に近いことを言っていたのかな。「中心の空洞」ということを言った文化人類学者というのが、実在の人物なのかどうか調べてもよくわからなかった(笑)。
 
・正直いって神はあるんですか?
 
第三章では、松山の大学院生が、ギー兄さんに正直いって神はあるんですか?」というキワドイ質問をします。この質問にギー兄さんは、自信なさげにこう答えます。
 

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Eテレ「100分de名著」より
(中略)まだ信仰に到っていない人間としていえば、つまり私からいえば、神があるかどうか、というようなことを考えてみる余裕はないように感じているよ。仮に神と呼ぶものに向けて悲鳴をあげるようにして、救いをもとめているんだとしかいえない。現にわれわれは、いろんなかたちであれ、そのように追いつめられて、神を呼びもとめることを経験して生きてきたのじゃないだろうか……(p.153)
 
要するにギー兄さんには神が存在するかどうかを考える暇すらなく、とにかく「神様、助けて下さい!」と叫んでしまうくらい必死だということですな。神が存在するかどうかという問いは、必死な人間にとっては悠長だということでしょう。ギー兄さんは、自分の現状を「尻尾に糸を結わえられたトンボ」にたとえています。そして、自分が救いを求める神が存在しなかったら、それはそれで構わないと思っているようです。
 
自分がそこから逃れようとグルグル廻っている中心に、ほかならぬ神がいるように思えることもあるし、廻れば廻るほど神の不在を確かめているように感じることもあるものね。(中略)糸に結わえられたトンボから逆転して、こちら側から、そのグルグル廻りの中心を囲い込んで行く。それがわれわれの祈りの、いまのところ唯一可能な実体かも知れない。しかもそれが、われわれに充足感をあたえてくれることさえあるのじゃないか?(pp.154-155)

 

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Eテレ「100分de名著」より

存在するかどうかよくわからない神の方に向かって祈りを捧げるという行為は、骨折り損だとは限りません。祈りを捧げることそれ自体によって、虚無感ではなく充実感が得られることがあるのです。ここでも神の存在の有無はさておき、祈りという「行為」から得られる充実感に価値が見出だされているわけですな。
 
 
…さて、第二部を読んでいると、ギー兄さんが神の存在についてずいぶん優柔不断な態度を取っているので、読んでイライラする方がいらっしゃるかもしれません。しかし、ギー兄さんは神の存在について断言できないからこそ、「神は存在する」と独断で決める教祖にならなくて済んでいるし、「神は存在しない」と考える無神論者にもならなくて済んでいると思います。存在するかどうかよくわからない神を探求するこの小説には、弱気なギー兄さんという人物こそ主人公にふさわしいと私は思っています。
 
今回も長い考察になりましたが、第二部にはまだ論点がたくさん残っています。これからも息抜きを挟みながら、『燃えあがる緑の木』を考察していきたいと思います。では、また次回っ!
 
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