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イェーツ「Vacillation」I節を読む~『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして~

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「Vacillation」(『対訳 イェイツ詩集』所収)

イェーツ(高松雄一編)
2009年初版発行
 
今回は、アイルランドの詩人・イェーツの詩Vacillation(ヴァシレーション)」を解読します。「vacillation」という単語は、日本語では「動揺」「揺れ動く」と訳される単語です。岩波文庫の高松訳では「動揺」と訳され、大江健三郎は「揺れ動く」と訳しています。題名について語るのはこれぐらいにして、さっそくこの詩のI節目を読んでみましょう。
 
I
人は二つの極のあいだにいて
おのれの道を走る。
炬火(たいまつ)が、火を吐く息が
現れて、昼と夜の
あの背反を
ことごとく抹殺する。
肉体はこれを死と呼び、
心はこれを悔恨と言う。
だがそれが正しければ
歓びとは何だ?
(高松訳)
 
…この詩を読んで、難しいと感じた方は多いのではないかと思います。でも、大江健三郎の『燃えあがる緑の木』第二部を読めば、このI節目と続きのII節目の意味はある程度わかるようになると思います。『燃えあがる緑の木』第二部は小説であるだけでなく、イェーツの詩の解説としても読める本です。では、『燃えあがる緑の木』第二部を手がかりにして、I節目を解読してみましょう。
 

I節目の解読・ザッカリーの場合

 
I節目の冒頭には、人は「二つの極のあいだ」にいると書いてあります。これは、人は「〈愛〉と〈憎しみ〉」や「〈善〉と〈悪〉」のような正反対の概念にはさまれて生きているということだと解釈できます。そんな人や人生を、「たいまつ」や「火を吐く息」が破壊するのです。問題はその後です。『燃えあがる緑の木』第二部のザッカリーのセリフを読んでみましょう。
 

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 ーたいまつか、または燃える息の一触で、この世の生が終ったとしよう。肉体は破壊されて転っている。確かにここにあるのは死だね。一方、来世から魂が、……heartだから、心と訳した方がいいかも知れないけれど、ともかく肉体に対立するものが、現世の来し方をふりかえる。そうやって、矛盾のままに生きた生を後悔する……(『燃えあがる緑の木』第二部pp.260-261)
 
どうやらI節目の後半部分では、人生の終わりについて書いてあるみたいですね。人間の人生は矛盾に満ちたもので、そんな人生が終わるとき、肉体はもちろん死ぬ。一方、そのとき心は自分の人生を悔やむ。なんだか嫌な話ですが、I節目のラストでは喜びについて書いてあります。
 
 それに対してね。破壊されたにしても、肉体が現世で味わった喜び、矛盾のなかであれ、魂が感受していた喜びが無意味なものか?決してそんなことはない。
 Between extremities/Man runs his course;そのこと自体に意味がある、永遠のサイドから見たらばさ。味わった喜びがそのしるしだ、というんじゃないだろうか?(『燃えあがる緑の木』第二部p.261)
 
人間の人生は矛盾に満ちたものですが、生きているうちに味わった喜びにはちゃんと意味がある。喜びは、その人が意味のある人生を送った証拠だ…という話ですね。『燃えあがる緑の木』第二部のザッカリーは、イェーツの詩をこのように解釈しました。
 

I節目の解読・K伯父さんの場合

 
『燃えあがる緑の木』第二部では、K伯父さんもI節目を解説しています。
 

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 イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ……それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう?ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜びなんだね。(『燃えあがる緑の木』第二部p.263)
 
〈永遠〉と〈瞬間〉というのは「対立する」概念でありながら、「両立する」概念でもあります。『燃えあがる緑の木』第一部でギー兄さんが言う通り、〈瞬間〉は〈永遠〉に対抗する概念です。しかし、〈永遠〉は〈瞬間〉の連続でもあります。〈瞬間〉といえるほど短い間でも喜びを感じたら、その喜びは〈永遠〉といえるほど長い時間に繋がっているのです。少し、K伯父さんだけでなく私の解釈も混じっていますが(苦笑)。*1
 
とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても……それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(『燃えあがる緑の木』第二部pp.264-265)
 
〈瞬間〉は〈永遠〉に含まれるといえるし、私たち〈個人〉も人間〈全体〉に含まれるといえます。喜びを感じた〈瞬間〉は〈永遠〉に意味を与えるし、喜びを感じた〈個人〉は人間〈全体〉を祝福できるかもしれない。喜びは、束の間の喜びでも、深いところで大きなものに繋がっているのです。だから『燃えあがる緑の木』では、喜びという感情が重要な役割を担っているのでしょう。最後に、堂島孝平「6AM」という曲の歌詞を引用します。キザなことは、百も承知なのさ。
 
ああ 永遠とは瞬間の連続 常に目の前にあるなら
一瞬を 一瞬を 君と重ねたいなんて思ったこの一瞬とかいろんな一瞬を

*1:ちなみに、〈永遠〉と〈瞬間〉は対立するが共存しているというK伯父さんの説には、私とは別の解釈があると思います。今回の解釈は、私にとって一番しっくりくる解釈にすぎません。