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大江健三郎『燃えあがる緑の木』第三部のあらすじと解説

今回は、大江健三郎の代表作『燃えあがる緑の木』第三部のあらすじと解説を掲載します。壮大な『燃えあがる緑の木』の物語は、この第三部で完結します。第三部は物語の起伏が激しく、なおかつメッセージ性にも富んでおり、ラストに相応しい内容でした。

 

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『燃えあがる緑の木 第三部 大いなる日に』
1998年初版発行
 
(注:今回の考察はちょっと長いです。興味が無いところは適当に読み飛ばして頂いてOKです。)

あらすじ

 
第三部の序盤では、ギー兄さんに失望を覚えて教会を出たサッチャンの性の遍歴が綴られます。中盤の原子力発電所の場面は、原発事故を予言するかのような内容です。終盤ではギー兄さんの教会でゴタゴタが起こりますが、ラストは希望に満ちた終わり方になっています。
 
第一章ではサッチャンが伊豆にあるK伯父さんの山荘で暮らしはじめ、肉欲を感じます。第二章では、K伯父さんの友人であるマユミさんとサッチャンが建設会社の重役を相手に売春を始めます第三章ではサッチャンとマユミさんが遊佐君という官僚とトラブルを起こし、サッチャンは教会に帰る決心をします。
第四章ではサッチャンが負傷したギー兄さんを救い出すために四国に戻りますが、ギー兄さんは大きな存在に成長していました。第五章では教会の人々が阿川原子力発電所に向かって行進し、行進参加者の〈集中〉と同時刻に原発の作動が停止します。
第六章では行進の本隊とは別に日本全土への伝道の旅に出た松男さんたちのグループの動向と、教団の分裂の危機が描かれます。第七章では伊能三兄弟の農場が焼き打ちされ、教会の安寧が脅かされます。第八章ではギー兄さんが教会から自分を切り離す決心をし、礼拝堂で最後の説教をします。終章ではギー兄さんが反対派勢力に殺害され、その後に残った者たちが行進をして終わります。
 

解説

 
・魂の危機と再生
 
第三部の序盤でK伯父さんは、『アウグスチヌス「告白」講義』という本をサッチャンに勧めます。アウグスチヌスキリスト教の教父ですがもともとマニ教の信者でマニ教からキリスト教に改宗した人物です。性の遍歴からキリスト教へ回心したアウグスチヌスに、サッチャンは心惹かれます。
 

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Eテレ「100分de名著」より
 私はアウグスチヌスの回心までのためらいの根本的な理由として、著者が情欲あるいは肉欲をあげているのに、正直驚きを感じた。しかも私はそこにもっとも惹きつけられたのだった。アウグスチヌスがそれからどのように脱け出して回心に到ったかの過程においてというのではなく、その情欲あるいは肉欲の強さそのものを想像することで……(p.38)
 

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アウグスチヌスの性の遍歴と思想については、「ハキダメ記」さんがわかりやすく解説していらっしゃる

アウグスチヌスは母モニカが信じるキリスト教から逃れ、マニ教にハマります。そしてアウグスチヌスは色んな女と関わり、性の黒歴史を積み重ねていきます。第三部のサッチャンもギー兄さんの教会から離脱し、性的に堕落した日々を送りました。でも、アウグスチヌスは結局回心してキリスト教徒になりましたし、サッチャンも回心してギー兄さんの教会に戻りました。第三部では、サッチャンの生涯がアウグスチヌスの生涯のオマージュになっているわけですな。
 

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第三部では、魂の危機を経て天国に到った人物として、イタリアの詩人ダンテも挙げられています。道元が死の危険を冒して中国に渡ったことや、ヨハネが「霊魂の暗夜」について語ったことについても触れられていました。また、第三部の物語全体は「魂の暗夜」を経てから「大いなる日」を迎える流れになっており、物語自体が「魂の危機からの再生」を体現しているように思いました。もっとも、ギー兄さんが落ち込んだ暗夜は、過去の聖人たちが陥ったものとはまた違ったものでしょうけど(p.188)。
 
私が読んだ限り、第三部では以上のような形で「試練としての魂の危機」と「魂の危機からの再生」をイメージさせる現象が異なる形で繰り返し語られていると思いました。*1
 
・見出だされた「怪物的な悪」と「神」
 
第七章で、ギー兄さんはアメリカの外交官ジョージ・ケナンについて語ります。ケナンは、晩年に核兵器を全否定した人物です。
 

         f:id:amaikahlua:20191114132712p:plainケナンさん

 続いてケナンは、核兵器があらためて実際に使用されることがあれば、それは怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑だといっています。さて、その大きい事故が、核兵器の使用にひとしい惨禍をもたらす施設として、いま原子力発電所が作動していることは誰もが認めるでしょう。しかも、いやこの国の原発で大事故は決して起らぬ、といいたてる勢力が、それを作動させ続けているわけです。(p.294)
 
上述の引用箇所では、核兵器原発が極めて邪悪なものとして語られていますね。核兵器を使用することは「怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑」であり、原発核兵器の使用にひとしい惨禍をもたらす施設」だという。また、もう少し前のページでは、原発「災厄と滅亡の機械」と呼ばれている(p.234)。核兵器原発がもたらす恐怖については、ヒロシマナガサキの原爆投下や原発事故が発生した日本に住む私たちなら実感が持てることですね。
 

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Eテレ「100分de名著」より
 私たちは、そのような侮蔑を神に向けて働くことを恐れる。私たちそれぞれが、自分で神と呼ぶ対象はバラバラであるかも知れない。しかしそのような侮蔑を働きたくない相手をひとしく神と呼ぶなら、私たちはひとつの神の前にある。私たちの教会は、神について明確な定義をずっと持たなかった。しかしいま初めて、お互いに確認しあえる神の定義を持っているということではないでしょうか?(p.294)
 
神の存在について上手く答えることができなかったギー兄さんは、物語の終盤でついに神の定義をにわかながら見出します。ギー兄さんは、「侮蔑を働きたくない相手の総称」を神と呼んでいます。例えば核兵器を使用した場合、私たちが尊重すべき人間や建造物、自然環境が破壊されるので、核兵器の使用は神々への冒涜だといえます。ギー兄さんが見付けた神の定義は立派なものですが、彼が彼なりに考えて明文化しただけあってけっこう独特なものだと思いますね。
 

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諸隈元シュタイン氏のツイートより抜粋。大江にとって、核は「絶対的な悪」だ
『燃えあがる緑の木』善悪二元論で単純に割りきれない要素がてんこ盛りな小説なのですが、それでも「核は怪物的な悪!」なのが大江流です。そして、神の問題を長らく保留にしてきたギー兄さんでも、「侮蔑を働きたくない相手は神!」だと思うのです。長大な思考実験の末、終盤で浮上した「怪物的な悪」と「神」の描写には心が籠もっていますね。
 
 
『燃えあがる緑の木』は、日本で生まれ育って日本と真剣に向き合っている作家だからこそ書ける「日本文学」だよなあと思います。『燃えあがる緑の木』の舞台になっているのは、大江健三郎が生まれ育った愛媛県の村です。そして、第三部で主張されている核の恐怖は、原爆と原発の問題を内包している日本という国に向き合うことによって書かれたものでしょう。大江健三郎川端康成三島由紀夫たちと比べて日本的な要素が少ない作家だと私は勝手に思っていましたが、大江には大江なりの「日本らしさ」がちゃんとありますね。
 
次回は『燃えあがる緑の木』第三部終章を解説する予定です。『燃えあがる緑の木』の解説は、次回が最終回になると思います。では、また次回っ!
 
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〈参考文献〉
小野正嗣『100分de名著 燃えあがる緑の木』、NHK出版、2019年

*1:この場を借りて見苦しい反省をさせて頂くのだが、作中で語られる四国の谷の森の地形について、私はうまく読み取ることができなかった。「森からの流出=生、森への帰還=死」のモチーフと、「右廻りと左廻り」のくだりがイマイチよくわからなかったのだ。誰かこの点について詳しく考察してくれないものだろうか…orz