『沙耶の唄』開花ENDの考察
今回は、ニトロプラスのノベルゲーム『沙耶の唄』の「
『沙耶の唄』
シナリオ:虚淵玄
原画:中央東口
(C)ニトロプラス
2003年12月26日発売
(ここから先には、「開花END」のネタバレが含まれています)
それは、世界を侵す恋
「開花END」のラストでは、 沙耶の背中から無数の花弁が生えます。 花弁からは光る鱗粉が放たれます。沙耶の鱗粉は世界を侵食し、 世界は沙耶と郁紀のものになります。人類社会は滅亡し、 沙耶と郁紀のセカイが勝利します。
「わたしとー郁紀のー世界の、始まりー」風に乗って、光の粒が運び去られていく。輝きの流れになって、冬の夜空へと舞い上がり、凍てついた夜を染めていく。 美しかった。圧倒的に、絶望的なほどに美しかった。新しい世界の幕開けの、古い世界の滅びの唄。かくも広遠なる癒しーかくも悠久なる至福ー僕らは、僕らの歓喜でこの世界を染め上げる。
沙耶と郁紀の恋は、 一般大多数の正常な人間から見たら、異形の怪物と異常者の恋愛にほ かなりません。そして沙耶と郁紀は人類を侵略する、 人類の敵とも言える存在です。でも、 沙耶と郁紀にとって二人の愛は純愛だったと思うし、 郁紀が最後に見た世界は「絶望的なほどに美しかった」。
沙耶と郁紀ほど極端な例じゃないにしても、「 傍目から見たら狂っている恋愛」や「周りに迷惑な恋愛」 はそこらじゅうに転がっているでしょうね(笑)。「開花END」 は、そんな「道を外れた恋」を美しく描いた、 いびつな愛の賛歌なのだと思います。
幸せを感じる枠組みを作り変える
「開花END」には、ライター・ 虚淵玄さんの人生観がとてもよく表れているというのが私= 甘井カルアの解釈です。虚淵さんはかつて、『不登校新聞』 というひきこもり専門紙のインタビューで、 こうおっしゃっていました。
世の中の価値観や常識に自分を合わせていくと、結果的には他人を蹴落としたり、面倒が起きたりすることになる。 (中略)そういうことではなくて、あくまで自分に即した理想、 快楽、達成感を軸に据えれば、そこには誰も干渉できません。 たとえそれが傍から見て愚かだと思われても恥じることではなかろ う、と。 幸せを感じる枠組みを変えてしまうことが大事なんじゃないかと思 うんです。
上記の思想は、「開花END」 に明らかに反映されていると思います。「開花END」では、 世の中の価値観や常識に自分を合わせられない郁紀という人間の救 済が試みられています。郁紀は知覚に異常があるので、 郁紀のセカイに常人は干渉できません。「開花END」 では郁紀の歪んだ認識を矯正することなく、 むしろ歪んだ認識に合わせて幸せを感じる枠組みが作り変えられて います。
「開花END」の内容や虚淵さんの思想は、 社会からこぼれ落ちたセカイに存在するひきこもりのような人間に とってそれなりに参考になる…かもしれませんね。まあ、 自分の了見に忠実に行動した郁紀が余計に他人を蹴落としたり面倒 を起こしたりしたことを考慮すると、 あまり秀逸な思想だとは私には思えませんが(苦笑)
純粋なものは有害である
さて、私はここまでのところで「開花END」 や虚淵さんの思想をわりと好意的に解釈してきましたが、 ここまでの内容に対して反発を覚えた方が少なからずいらっしゃる かと思います。 私的な事情で人類全体を巻き込んで絶滅させるなんて、 沙耶と郁紀は傍迷惑すぎるだろう。虚淵玄が『不登校新聞』 で開陳した思想は、自己満足的かつ独善的すぎるだろう。… といった批判が予想されます。
こうした批判は理にかなっていると思いますwしかし、 こうした批判こそ『沙耶の唄』の圏内にあり、『沙耶の唄』 のシナリオとある意味上手く噛み合っているのではないかと思いま す。「耕司END」のラストをもう一度読んでみましょう。
この自分が、毒に冒されたというのならー真実こそが毒なのだろう。 純粋な酸素が生体にとって有害であるように、剥き出しの真実は、ヒトの精神を破壊する。 酸素は5倍の窒素で包まれてはじめて、大気として許容される。同じことだ。 戯れ言で希釈された片鱗だけの真実を呼吸することで、 人は健やかなる心を維持できるのだ。
上記の文では、 純粋な酸素や純粋な真実が有害なものとして表現されています。 純粋な酸素や純粋な真実が有害であるのに加えて、沙耶と郁紀の純粋な恋愛も有害なものだと私は思いました。『 沙耶の唄』は純愛の有害さを描いた物語だろうから、沙耶と郁紀の恋愛は傍迷惑なものとして表現されて当然だ。… みたいな開き直りが私にはあります。『沙耶の唄』は純愛の傍迷惑な側面を描いた作品だと思うので、その傍迷惑さを批判しても大して批判にならないんじゃないかな(笑)。
また、
〈ひきこもり考察シリーズ〉