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『論理哲学論考』の論考~世界はなにでできている?~

さっそく、『論理哲学論考』の冒頭を読んでみましょう。ウィトゲンシュタインは、「世界」とは「事実」の総体だと定義しています。
 

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一、世界は成立していることがらの総体である。
一・一、世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。*1
 
例えば「ウィトゲンシュタインは1889年生まれである」とか「今、この記事を書いている時点の甘井カルアの机の上にはペンが置いてある」とかいった具合に、この現実*2で成立していることがらを、「事実」と呼びます。「第71-73代内閣総理大臣を務めた中曽根康弘氏は105歳で亡くなった」とか「明治時代の文豪・樋口一葉の性別は男である」とかいったことがらはこの現実で成立していないので、世界では除外されます。今のところとりあえず、世界は「〈もしも〉の可能性を除外した事実が全て集まってできている」といったイメージで捉えて下さい。
 
ウィトゲンシュタインは、世界は「もの」の総体だと考えていません。「リンゴ」や「田中さんの肉体」のような物体を全て集めても、世界はできあがらないと思っています。この考え方に反発を覚える方はそれなりにいらっしゃるかもしれませんね。世界は物体の寄せ集めだろう、世界はものの総体だと言って何が悪い!みたいな反論が来そう。
 
しかし、物体が全て集まっただけの世界は、「物の状態」や「物と物との関係」や「出来事の真偽」などを閉め出してしまうのです。
 

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世界が物の総体であり、事実の総体ではないとしたら、「ここにリンゴがある」という事実すらも世界には含まれなくなってしまうのだ。*3
 
もしも世界がものの総体だったら、「このリンゴは腐っている」といった物の状態や、「リンゴがカゴの中にある」といった物と物との関係は、世界に含まれない。そんな世界では、「このリンゴが腐っているかどうか」を確かめることもできない。世界は単なる物体の寄せ集めよりも広大だし、現に私たちは世界に単なる物体の寄せ集め以上の事象を見出だしています。だから「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」のです。
 
世界はものの総体ではないというウィトゲンシュタインの哲学は、世界を物質主義的に捉える人たちへの応答に使えるかもしれないですね。『「私」は脳ではない』で物質に偏った物の見方をする科学主義イデオロギーを批判したマルクス・ガブリエルは、2009年にボン大学の記念講演で『論理哲学論考』について言及しています。存在するのは物体だけであると考えるのには、無理があるでしょう。
 

 f:id:amaikahlua:20200109135108j:plainガブリエル(1980~)

 画像出典:https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=5

 それゆえ、世界は、互いに力を及ぼしあいながら変形・変化していく物を保管している巨大な容器ではありません。もしそんなものが世界であるとすれば、事実は存在しないことになってしまうでしょう。なぜならば、事実とは物ではなく、私たちが物や、物の連関について主張できる真理こそが事実だからです。*4
 
ちなみに、「世界は成立していることがらの総体である」という書き出しには、既にウィトゲンシュタイン流の「実在論がよく表れていると(今のところ私は)思っています。このことについては、いずれまた書くつもりです。
 
今回はけっこう堅苦しい話になってしまいましたね。皆様、お疲れ様でしたm(_ _)m

*1:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一三頁。

*2:論理哲学論考』で「現実」がどう定義されているのかは、今後説明する予定です。

*3:古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』、角川選書、二〇一九、三九頁。

*4:ガブリエル&ジジェク(大河内・斎藤監訳)『神話・狂気・哄笑』、堀之内出版、二〇一五、三一七頁。