かるあ学習帳

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入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』読書記録

今回は、入不二基義先生のウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』の読書記録を書きます。論点が多い本だったので、私にとって特に有用だった前半の箇所を独断で選んで要旨を晒しますw
 

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ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』

NHK出版
2006年初版発行
 

「対立/反転関係」の消失

 
この本では「いわゆる独我論」と「素朴な実在論」の二項対立が「ルビンのつぼ」を使って説明されているところが面白かった。
 
いわゆる独我論というのは、「世界」の内に「私」が存在するのではなく、「私」の内に「世界」が存在するのだという考え方です。「世界」という座標内のある一点として「私」が存在するのではなく、「私」という座標の内に万物は位置付けられているという理論です。
 
素朴な実在論というのは、「私」の内に「世界」が存在するのではなく、「世界」の内に「私」が存在するのだという考え方です。「私」は他人たちや他の物体と同じように、世界の内部に存在しているという理論です。
 

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いわゆる独我論と素朴な実在論は、「ルビンのつぼ」のように「反転」していることがおわかりいただけるでしょうか。絵の黒いところが「図」で白いところが「地」として見ると、黒いつぼの絵が見える。絵の白いところが「図」で黒いところが「地」として見ると、向かい合う二人の絵が見える。それと同じように、世界が「内部」で私が「外部」として見ると、いわゆる独我論になる。私が「内部」で世界が「外部」として見ると、素朴な実在論になるわけです。
 
入不二先生の解釈によると、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でいわゆる独我論と素朴な実在論を「純化することにより、独我論実在論を一致させようとした。対立する独我論実在論を両方とも純化し、「対立/反転関係」を消失させたのが『論理哲学論考』という書物だったわけですな。
 

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五・六四、ここにおいて、独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致するということを見て取ることができる。独我論の私というものは、広がりを持たない点へと縮退し、その私と対応する実在がそのまま残る。(p.30)
 
論理哲学論考』は、いわゆる独我論の「世界を外側から包み込む私」を「世界とぴったり重なっている私」に修正します。「私」は「世界全体」でありながら、世界の内部に原理的に現れない「不在」の存在でもある。こうして論理哲学論考』では「すべて」と「無」が一致し、「すべて」と「無」の二項対立も調停されます。
 

不二をめぐる言語ゲーム

 
入不二先生は、ウィトゲンシュタインを考察するための補助線として、仏典『維摩経』の「入不二法門品」を紹介しておられます。仏教では悟りの境地に入ることを「不二の法門に入る」と言うそうです。『維摩経では三十一人の修行僧たちと文殊師利が、主人公・維摩の前で自説を語ります。
 
文殊師利によると、言葉の本質的な働きとは「分ける」ことである。例えば「犬」という名前を付けることは、犬と犬でないものを「分ける」ことである。だから、言葉は「二」(根源的な分割)である。したがって、言葉を捨て去ることによって、私たちは「不二」(分割しない状態)=悟りの境地に至ることができるのである。文殊師利にとっては、無言であることが悟りの境地に至ることだったのです。
 
文殊師利は維摩にも不二の法門について語ることを要求しますが、維摩は口をつぐんで沈黙しているだけでした。『維摩経』には維摩の一黙、雷のごとし」と書いてあり、維摩の沈黙がその場に衝撃を与えたことがうかがえます。文殊師利は、沈黙して不二の法門に入った維摩を大層褒め称えました。
 
入不二先生は、『維摩経』に「『不二』をめぐる言語ゲームを見出だします。三十一人の修行僧や文殊師利たちは「不二」をめぐる言語ゲームに参加し、二項対立を消失させる議論を一段一段重ね、沈黙に至ります。維摩経』が行った言語ゲームは、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と説いた『論理哲学論考』に似ていますね。
 
 ことばは、ことばでは到達不可能な「外」を、ことばの「内」へと巻き込んで働いている。言い換えれば、維摩の沈黙は、ことばの「外」にあるとともに、ことばの「内」にもある。(p.16)
 

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こう書くと、維摩は悟ってるし頭いいなーと思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし入不二先生は、もしかしたら維摩はただボケーッとしていて、修行僧たちの話を聞いていなかっただけかもしれないという可能性を提示します。だから維摩の沈黙は言語ゲームに巻き込まれた「さとり」であると解釈できるだけでなく、言語ゲームに巻き込まれていない「おおぼけ」であるとも解釈できる。沈黙は、「さとり」と「おおぼけ」の区別も消失させます。
 
著者の入不二先生の名字は、この「入不二法門品」から来ているそうです。言葉を捨てることにより、私たちは不二に入る。不二に入った者は、AであるものとAでないものを分けない。不二の境地では、言葉による区別は消失する。「入不二」という言葉は究極的には言葉の放棄、よって言葉による区別の消失を意味していたのです。