かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『論理哲学論考』の論考~個はその集団を語り得ない~

元号が令和になってから、私たちの常識では考えられないような理不尽な出来事がずいぶん起こるようになったなあと思う。京都アニメーションのスタジオが放火されたり。超大型の台風が日本に上陸したり。新型コロナウイルスで世界中に死者が出たり。

 
こうした理不尽な出来事に何の罪も無い(ように見える)人たちが苦しめられているのを見ていると、「この世の理不尽な出来事には、何か意味があるのだろうか?」と考えたくなる。神様は、人類に対する何らかの計画があって、世界に災いをもたらしているのだろうか。それともこうした理不尽な出来事は神様みたいな絶対者とは関係が無くて、たまたま起こっただけなのか。
 
この世の災難に計画性や必然性があるのかどうかを考えてみたくなるのは私だけではないと思うし、人の性(さが)だと思う。そして理不尽な出来事にとどまらず、この世の出来事の必然性を考えるのは、哲学的な営みであるように思える。しかしウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、世界の意味や必然性は世界の「内側」からではよくわからないものだと言う。そうではなくて、世界の意味や必然性は世界の「外側」から見出だされるものだと言う。
 

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六・四一
 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。ーかりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
 価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
 それを偶然ではないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるであろうから。
 それは世界の外になければならない。*1
 
宮沢賢治の童話「よだかの星」を読んでみると、ウィトゲンシュタインの言っていることがよくわかる。「よだかの星」の作中では、醜い外見をしたよだかが悪口を言われたり、邪険に扱われたりする。よだかの星」という作品の「内側」に存在するよだかの立場に立って物語を読んでいる限り、「なぜ、よだかはこんなに理不尽な目に遭わなければならないのか?」という謎や怒りが心に残る。理不尽な出来事の計画性や必然性がよくわからないのである。
 

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しかし、「よだかの星」の物語の「外側」に出て、物語全体を眺めやるとどうなるか。よだかは醜く・弱肉強食の世界に組み込まれていて・有限の生命を持つ鳥である。だが、物語の結末でよだかは、美しく・宇宙空間にそれ自体として独立して存在しており・永遠に燃える星になる。よだかの星」の物語では、星になる前と星になった後を比較すると、よだかの性質が鮮やかに逆転しているのである。
 
このことに気付くと、「なるほど、宮沢賢治は星になったよだかの美しさを際立たせるために、星になる前のよだかを無様に表現したのかもしれないな」と解釈できる。要するに、物語の「外側」に出ると、「よだかの星」という作品を創造した神=宮沢賢治に近寄った立場で考察ができるようになるわけだ。そのため、理不尽な物語に神=宮沢賢治が仕組んだ計画性や必然性を(推測ではあるが)把握できるようにもなるわけだ。
 
私たちは、よだかのように世界の「内側」の出来事に翻弄される「当事者」である。私たちは、世界の「外側」から出来事の全体を眺めやる神ではない。だから私たちは、この世界に仕組まれた計画性や必然性を超越者の立場に立って十分に解読することができないのである。この世界の意味を考えたくなるのは人の性だが、私たちはこの世界の意味を満足に考えることができる立場ではないつまり、こういう事だ。
 

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ゲーム『夢幻廻廊2』より

個は、その集団を語ることができず、語ることのできないものに関しては、沈黙せねばならない

*1:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一四四頁。ちなみに『論考』では「世界」とは「成立していることがらの総体」だと定義されているが、今回は細かいことは気にすんなって。