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【疫病の文学】大江健三郎『芽むしり仔撃ち』解説

最近、新型コロナウイルスの影響で、カミュの『ペスト』がよく読まれているらしい。『ペスト』アルジェリアのオランの町にペストが流行し、閉鎖された町の中でもがく人々を描いた小説である。疫病が現実の社会で流行しているため、疫病を描いた文学の需要が高まっているわけだ。

今回はそうした需要に応えて、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』を解説する。この小説では、疫病が流行する村に少年たちが閉じ込められる。初期の大江はカミュをよく読んでいたと言われるが、『芽むしり仔撃ち』の内容は確かにカミュの『ペスト』に似ている。『芽むしり仔撃ち』は日本を代表する作家による、日本が舞台の「疫病の文学」だと言って良いと思う。
 

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『芽むしり仔撃ち』
1965年初版発行
 
(今回の説明はけっこう長いです。興味の無い箇所は適当に読み飛ばしてOKです)

 

あらすじ

 
大戦末期、山中に集団疎開した感化院の少年たちは、疫病の流行とともに、谷間にかかる唯一の交通路を遮断され、山村に閉じこめられる。この強制された監禁状況下で、社会的疎外者たちは、けなげにも愛と連帯の“自由の王国”を建設しようと、緊張と友情に満ちたヒューマンなドラマを展開するが、村人の帰村によってもろくも潰え去る。新潮文庫版の裏表紙より抜粋)
 

解説

 
・「自由の王国」の建設
 
物語の序盤で主人公の「僕」たちは村に疎開するのだが、村には疫病が侵攻していた。村人たちは疫病が恐くて村から逃げ、「僕」たちを置き去りにして村を閉鎖した。見捨てられた「僕」たちは当初、村の中でどうすれば良いのかわからなかった。「僕」たちは、自由を謳歌できなかったのだ。
 
そして、監督者のいないいま、僕らには何をすることもなかった。なにをしていいかわからなかった。僕らはそこで、ゆっくり辛抱強く村道を行ったり来たりしていた。(pp.69-70)
 
しかし、「僕」は部落の朝鮮人少年・李と殴り合いをした後で仲良くなったり(この場面は感動的だ)、村に取り残された少女と愛を育んだりする。「僕」たちは雪の中で祭りを催し、閉ざされた村の中で「自由の王国」を建設するのに成功したかのように思えた。哲学をかじったことのある人は「自由」とは「自分で自分を制御できる状態」のことだと思うかもしれないが、この小説の場合、そうではない。「何をやっても許される状態」が「自由」として表現されている。
 

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あんたは今だって自由じゃないか。この村の中でなら何をしてもいいどこに寝ころんでいても誰一人あんたを掴まえない」と僕はいった。「すごく自由だろ?」(p.156)
 
・むしられる芽
 
『芽むしり仔撃ち』のラストは、初期の大江作品らしく後味の悪い徒労に終わる。村人たちが帰村し、村人たちが居ない間に村の食糧を荒らすなどした「僕」たちを虐待するのだ。「僕」たちは閉鎖された村を生きるために荒らしたのだが、村人たちは「僕」たちの行いを否定する。「僕」たちが積み上げたものを急激に破砕する結末は、もはや「不条理」と言うよりは「理不尽」だ。
 

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お前ら、勝手なことをしやがってとたたえた怒りをほとばしらせて村長が叫んだ。「他人の家に入りこむ、食物は盗む、土蔵を焼く、何という奴らだ、お前ら
 僕らを驚愕が揺り動かした。たちまち狂躁的な昂奮は暗い不安に落ちこみ変質した。
お前らのやったことは、全部中央へ報告するぞ、この不良ども、穀つぶし」(p.180)
 
村人たちはなぜ一旦村から避難したのに、また村に戻ってきたのか。その理由は酷い。どうやら、悪意を込めて「僕」たちを閉鎖した村人たちは、「僕」たちが疫病で死んだことを確認するために帰村したようだ。
 
あいつらと南は自分の失策をまぎらすためにことさら陽気さをよそおい、彼のまわりの者たちに説得していた。「俺たちみんなが死んだかどうかを見るために、偵察に帰ったのさ。女や子供はまだ帰ってきていないだろ?俺たちが生きてるんで面くらっているんだ。しかも朝の化粧をしてたりするからなあ」(p.182)
 
いったい、大江はこのように陰惨な結末を通じて、何が言いたかったのか。私は『芽むしり仔撃ち』のラストでは、現実の「現場」と「上層部」で発生しうる暴力が描かれていると解釈した。例えば、職場の上層部が新しいサービスを計画し、試しにそのサービスを支配下の現場で実施する。現場の従業員は現場で大変な思いをし、上層部に利用され、ときにむしられる。このような現場と上層部の力関係が、『芽むしり仔撃ち』では「僕」たちと村人たちの力関係を介して表現されていると思った。
 
また、大江は、戦時中の日本人の野蛮さを告発したかったのだろうと思う。この小説では、朝鮮人少年の李が、殺し合いをする日本人に対して辛辣な発言をする。外国人の目線から、日本人の蛮行が批判されている。色んな意味で、かなり際どい場面である。
 

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あいつらは殺しあう」李がにくしみにみちていった。「俺たちはかくまっておいたのにおなじ日本人同士で殺しあう。山へ逃げこむ奴を、憲兵や巡査や、竹槍をもった百姓や、大勢の人間が追いつめて突き殺す。あいつらのやる事はわけがわからない」(p.192)
 
・補説:『芽むしり仔撃ち』と『青い空のカミュ
 
昨年の『群像』10月号で、大江健三郎はゲームやアニメの世界観と親和性が高いことを尾崎真理子氏が指摘していた。*1確かに、その節はある。
 
例えば、『芽むしり仔撃ち』と美少女ゲーム『青い空のカミュのシナリオは似ている。どちらも閉鎖された田舎が舞台の話だし、子供たちが友情を育むし、不条理劇である。あと、犬が出てくる(笑)。『芽むしり仔撃ち』がゲーム化したら、『青い空のカミュ』みたいになりそうだ。
 

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特に、『青い空のカミュで燐と蛍が壁に封鎖されていることに気付く場面は、『芽むしり仔撃ち』第四章のひとコマによく似ていると思う。シナリオライターの〆鯖コハダさんは、『芽むしり仔撃ち』を参考にしているのだろうか?まあ、『青い空のカミュも初期の大江もカミュの影響を受けているから、イマジネーションが似て当然だろうw
 
〈関連記事〉
昨年、『青い空のカミュ』と『ペスト』を併読した感想を書いたので、ここに掲げる。

amaikahlua.hatenablog.com

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追伸:今回は小説の内容に見合った良い写真素材を用意できなかった。許してクレメンス。

*1:『群像』第74巻第10号所収、尾崎真理子「予言者としての大江」、講談社、2019年。