かるあ学習帳

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ビートたけし『たけしの死ぬための生き方』書評

芸人や司会者、映画監督として超有名なビートたけしたけしは1994年にバイクで自損事故を起こし、重傷を負いました。たけしは生きるか死ぬかの境目をさまよった末に、奇跡の生還を果たします。『たけしの死ぬための生き方』には、バイク事故から生還した当時のたけしの死生観が書いてあります。

 

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『たけしの死ぬための生き方』

1995年初版発行
 

現世を自分の肉体で生きる

 
バイク事故で病院の集中治療室にいる間、たけしは幻想を見ます。傷だらけの自分自身のヌイグルミを自分が持っているという、痛々しい幻想をたけしは見ます。
 

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 気がついたら、おいらがヌイグルミを持って佇んでいるんだ。そう、背中にジッパーのついている全身タイプの奴。ジッパーはだらしなく下がったまんまで、いつでもずぼっとはけるようになっている。
 それが、傷だらけで、ボロボロになったおいら自身のヌイグルミなんだよ。
 ようするに、肉体と精神が分裂して、肉体っていうのは精神が借りてる着物だっていうのが、バーンと見えちゃったんだね。いい着物を着たいけれども、とりあえず目の前に傷ついた自分の肉体がある。(p.12)
 
傷だらけの自分自身のヌイグルミはたけしの「肉体」の象徴で、傷だらけのヌイグルミを持つ自分はたけしの「精神」の象徴です。バイク事故の影響で肉体と精神が分裂した(!?)たけしは、自分の精神が自分の肉体という「ヌイグルミ」から離脱した幻想を見てしまったのです。
 
 それを見たときに、このヌイグルミしか着るもんないじゃないかと思ったわけ。それを着るかどうかを悩んでる。そうすると諦めて、他に何も着る物ないのに、今まで着てたこれが傷ついたからって、脱ぎ捨てて新しい物を着るって意識はないんだよ。やっぱりこれ着ようと思ってる。
 それで、「あーあ、こんな傷だらけで顔も曲がっちゃっててどうしようかな、このヌイグルミ」って言ってるわけ。でもこれ着て一生生きていかなきゃしょうがない。これは自分に課せられた試練だ、大変だなと思ってる。(pp.12-13)
 
バイク事故の影響で、たけしの精神は肉体から離脱する幻想を見ました。しかし、自分の精神を他者の肉体に憑依させるわけにはいきません。あくまでもたけしの精神は、ボロボロになった今までの肉体というヌイグルミに宿るしかなかったのです。何だかオカルトのような話ですが、どんな事があってもあくまでも生まれ持った自分の肉体を以て現世を生きなければならない…という辛さが伝わってきますよね。
 
たけしはバイク事故で顔に重傷を負いましたが、脳は無事でした。自己存在や人生についてたけしに考えさせるために、神様は脳を残したのだとたけしは思いました。たけしは生まれ持った自分の肉体で生き、自分の脳で考えなければなりませんでした。
 

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 顔はぐしゃぐしゃにしたけど、脳だけは損なわないようにしてくれた。どうも神様が、「たけしよ、自分で答えを出せ。そのために脳は残したんだぞ」と言ってるような気がした。「一所懸命考えろ」って。だから、とんでもない難しい宿題を出されたようで困ったんだ。(p.29)
 

死に対応せよ

 
たけしは病床で、生と死の問題について考えました。たけしが「死の準備」について語る箇所は、『たけしの死ぬための生き方』のクライマックスだと思います。長い引用になりますが、非常に重要な文言なので引用します。
 

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 死ぬってことは人間みんなの目的であるっていうか、終着点であることには間違いない。死というのは突如来る暴力なんだね。その暴力にいかに準備しているか。それが必要だってことは、うすうすはわかるんだけれど、あまりにも儚いっていうか、空しい努力のような気がしてしまう。なにしろ死ぬことに対する対応だからね。
(中略)
 それに準備してる奴としない奴と、死ぬことは結果的には同じだけれども、そのショックというのは半端じゃないんだよ。死を考える、死ぬための心の準備をするというのは、生きているということに対する反対の意義なんだけども、異常に重いテーマなんだ。
 下手するとこれが哲学の究極の目的なんじゃないかって思うね。頭のいいのからバカから、金持ちから貧乏人から、人間全部に対しての問題提起なんだ。そうすると、バカでもなんでも対応せざるを得ない。そうしたとき、それの能力とか財産にもかかわらず、人間は対応する努力をしていかなきゃならない、と思ったんだ。(pp.36-37)
 
死は、突如訪れる暴力である。頭の良し悪しや経済力の有無に関係無く、死は人に訪れるものだ。だから、能力や財産に関係無く、人は死に対応する努力をしなければならない。これがたけしの死生観の要旨です。
 
「死の準備」は、下手をすると哲学の究極の目的ではないかとたけしは考えます。たけしがどれだけ哲学に詳しい人なのかは、私にはわかりません正直、たぶんあまり詳しくないんじゃないかと思うw)でもまあ、ソクラテスは『パイドン』で「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」と言っていますね。また、たけしの死生観は、ハイデガーの『存在と時間』にわりと似ていると思います。死は、「あらゆる瞬間に可能な」暴力なのです。
 

f:id:amaikahlua:20200806184907j:plainハイデガー(1889~1976)

 ひとは言う、死は確実にやってきはするが、しかし当分はまだやってきはしない、と。この「しかし…」でもって世人は死の確実性を否認している。(中略)こうして世人は、死の確実性に特有なこと、すなわち、死はあらゆる瞬間に可能であるということを、隠蔽してしまう。*1
 
たけし監督の映画『アウトレイジ』は、裏社会が舞台の映画です。アウトレイジ』に登場する極道たちは、かなり唐突に死にます。表社会に生きる私たちは裏社会の極道よりは死の危険に晒されてはいませんが(笑)、それでもあらゆる瞬間に突如として死ぬ可能性があります。たけしの死ぬための生き方』を読むと、与えられた肉体と頭脳で死から目を背けずに生きようという気になりますね。このハードな死生観…嫌いじゃないわっ!
(C)2010「アウトレイジ」製作委員会

*1:ハイデガー(原・渡邊訳)『存在と時間II』、中公クラシックス、二〇〇三、三〇六頁。