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大江健三郎「死者の奢り」のあらすじと解説

「死者の奢り」は、大江健三郎の文壇デビュー作です。大江は『文学界』に「死者の奢り」を発表し、作家としての活動を本格的にスタートしました。

 

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「死者の奢り」(『死者の奢り・飼育』所収)
1959年初版発行
 
(この記事はかなり長くなりました。興味の無い箇所は適当に読み飛ばしてOKです)

 

あらすじ

「僕」は大学医学部の事務室に行き、アルコール水槽に保存されている解剖用死体を新しい水槽に移しかえるアルバイトに応募する。アルバイトには、「僕」だけでなく「女子学生」も参加していた。「女子学生」は妊娠しており、子どもを堕ろすための手術料を稼いでいた。しかし「女子学生」は、水槽の中の死体を見ているうちに出産しようと思い始める。また、医学部教授会での正式な決定により、古い死体は全部火葬し、両方の水槽は清掃することになった。こうして、「僕」たちの仕事は徒労に終わるのだった。
 

解説

・完璧な物体たち
「僕」は水槽に浮かんでいる死者たちを見て、これらの死者たちは完璧な《物》だと考えます。
 

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写真の液体が濃褐色じゃないことには触れない方向でオナシャス。

 これらの死者たちは、死後ただちに火葬された死者とはちがっている、と僕は考えた。水槽に浮かんでいる死者たちは、完全な《物》の緊密さ、独立した感じを持っていた。死んですぐに火葬される死体は、これほど完璧に《物》ではないだろう、と僕は思った。あれらは物と意識との曖昧な中間状態をゆっくり推移しているのだ。それを急いで火葬してしまう。あれらには、すっかり物になってしまう時間がない。(pp.17-18)
 
アルコール水槽に保存されている死者たちには、意識がありません。そして、水槽の死者たちは生者としての生を終えてから時間が経っているので、死体に「量感、ずっしりした確かな感覚」が備わっています。意識が無く・固定した感じがあるので、水槽に浮かんでいる死者たちは完全な物体であると「僕」は思いました。一方、生者である「僕」や「女子学生」には、死者たちとは違って意識や揺らぎがあります。これから、「僕」と「女子学生」の意識や揺らぎについて解説します。
 
・裏切られた好意
「僕」は死体処理のバイトをした後、全身に充実感を覚えます。僕」は生者であるから心に快感を覚え、体に生命力を宿します。意識を持ち、健康な肉体を持つ「僕」は、水槽の中の死者とは程遠い存在である…ように一見すると思えますね。
 

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仕事をした後の快活な生命の感覚が僕の躰に充満した。指や掌に風があたり、それが官能的な快感を惹きおこした。指の皮膚が空気を順調に呼吸している、と僕は思った。(中略)健康さが、僕の躰の中で幾たびも快楽的な身震いを起した。僕は靴紐を結びなおすために躰をまげ、自分があれらの死者たちから、はるかに遠くにいる、と満足して思った。自分の躰の柔軟さが喉にこみあげてくるほど感動的で新しいのだ。(p.27)
 
生を充実させた「僕」は附属病院前の坂を下っている途中で、ギプスを体中にはめた少年と看護婦に出会います。「僕」は少年に笑顔を見せ、ギプスをいれた少年の肩に軽く指を触れます。「僕」は自分の好意を少年が受け入れてくれるだろうと期待しましたが、その期待は裏切られました。
 
 僕はそのまま数歩あるき、少年の顔を覗きこんだ。それは、少年ではなかった。固定された頭をまっすぐ立てたまま、血管の膨れた額をした中年の男が、苛立ちと怒りにみちた眼で僕を睨んでいた。(p.28)
 
「僕」は生者であり、他人との交流にささやかな期待を抱きました。しかし「僕」の好意は、中年男性の憎悪によって裏切られます。他人に対して好意的に接したのに、その好意が裏目に出る。生きているとそういうことってありますよね。生きている人間の「好意という意識」が空回りする不条理が、よく描かれている場面だと思います。
 
サルトル的な不条理
自分の好意を裏切られた「僕」は、精神的なダメージを受けます。生きている人間には、水槽の死者たちと違って、意識があります。そして「僕」によれば、意識を備えている人間には他人を拒む「粘液質の膜」があるという。「死者の奢り」では、意識を持つ生者同士の交流ならざる断絶が描かれています。
 
僕は茫然として立ってい、僕の躰一面に、急激にものうい疲れが芽生え、育った。あれは生きている人間だ。そして生きている人間、意識をそなえている人間は躰の周りに厚い粘液質の膜を持ってい、僕を拒む、と僕は考えた。僕は死者たちの世界に足を踏みいれていたのだ。そして生きている者たちの中へ帰って来るとあらゆる事が困難になる、これが最初の躓きだ。(p.28)
 

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初期の大江はサルトルの影響を受けているとよく言われます。確かに「死者の奢り」では人間の実存が粘液質なものとして描かれていて、そこがサルトルっぽい感じがしますね。例えばサルトルの「水いらず」は、性の問題をはなはだ不気味な粘液的なものとして描いたと言われる短編小説です。*1大江はサルトルの影響で、粘液質な人間存在を描いたのかもしれません。
 
・今後の大江文学の予言!?
「僕」は他人との交流に期待を持ち、裏切られました。「女子学生」は妊娠することによって期待を持ち、男の子を身籠ることによって不条理な責任を課されつつあります。「僕」だけでなく「女子学生」もまた、生者だからこその期待を持ち、生者だからこその不条理に陥っていく。
 
妊娠するとね、厭らしい期待に日常が充満するのよ。おかげで、私の生活はぎっしり満ちていて重たいくらいね」
(中略)
十箇月私が何もしないでいたら、それだけで私は、ひどい責任を負うのよ。私は自分が生きて行くことに、こんなに曖昧な気持なのに、新しくその上に別の曖昧さを生み出すことになる。人殺しと同じくらいに重大なことだわ。唯じっとして何もしないでいることで、そうなのよ」(p30)
 

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「女子学生」は妊娠していて、子供を堕そうと思っていましたが、水槽の死者たちを見ているうちに子供を産もうと思い始めます。「女子学生」は、まるで今後の大江文学を予言しているかのような人物ですね。大江の代表作『個人的な体験』では、誕生した障害児と共生するかどうか迷う男の苦悩が描かれています障害児の息子・光との共生がテーマになる中期の大江文学の展開を、「女子学生」は先取りしているかのようです。
 
・死者の条理、生者の不条理

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「死者の奢り」では水槽の死者が条理に沿った存在として描かれている一方、生者が不条理な存在として描かれています。水槽の死者たちは意識がなく、完全な《物》となっており、条理に沿っています。一方、生者である「僕」や「女子学生」は意識があり、完全な《物》ではないので、不条理に飲み込まれていくのです。

「意識がない者は条理に沿っていて、意識がある者は不条理である」という説は少し抽象的なので、具体例を追加します。例えば、意識がないロボットと意識がある人間の違いを考えてみて下さい。意識がないロボットはプログラム=条理に従って動作しますが、意識がある人間は計算外の行動をすることができます。このような例から考えても、生者の意識は条理から逸脱しているのです。

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茂木健一郎は『意識とはなにか』で、物質である脳の活動に伴って私たちの意識が生まれるのはなぜなのかが皆目わからないと嘆いています。*2確かに、脳という物体から意識が生まれるのは、不思議な現象ですね。この不思議を解明するのは、茂木氏が言う通り絶望的に困難でしょう。
 
しかし、意識を持った生者たちは、完璧な《物》である死者たちとは違って、不条理な存在だということは「死者の奢り」を読んだらよくわかりますね。「なぜ、物体である脳から意識が生まれるのか?」みたいに答えが出ない問題について屁理屈をコネるような真似を、「死者の奢り」はしません。とりあえず、「僕」や「女子学生」のような生者には水槽の死者と違って意識があるということは、ほぼ間違いなく確かです。その確実な事実から不条理劇を描き出す大江の態度には、ある種の明晰さがあると私は思いますね。
 
〈関連記事〉
↑この方の考察は参考になりました。モロに影響を受けました。

*1:新潮文庫の伊吹訳「水いらず」に書いてある定説です。ちなみに私=甘井カルアは、この通説をあまり信用していませんw

*2:茂木健一郎意識とはなにか』ちくま新書、二〇〇三