かるあ学習帳

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『終ノ空』考察~続・呪われた生と祝福された生~

amaikahlua.hatenablog.com

(今回は前回の続きです)

 

雑踏の思索

 

行人は街の雑踏の中で、こう考えます。

 

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 我々は生まれた瞬間に、
 死を約束されているのだ。
 これを、呪いといわずして、何を呪いといえるのか。
 この呪いをまともに受け入れてしまった人間に対して、
 軽傷なだけで、生き残る事が出来る人間が何を言えるのだろうか?
 言えはしない…。
 
この世に生まれた人間には、(ほぼ確実に)死が約束されています。この世に生まれた人間全員には、死という呪いがかかっていると言い替えても良い。自分には死という呪いがかかっているという事実は、真剣に考えれば考える程、気が滅入る話ですね。
 
行人が見た夢に出てきた赤ん坊は、「この世に生まれた事」を呪っていました。行人の思想では、「死」が生を蝕む呪いとして表現されています。生きる事も呪い、死ぬ事も呪いと言った所でしょうか。人間の全ては呪いなのか?そうではありません。
 

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 しかしである。
 それでいてである。
 人間は、
 その生を祝福もされている。
 だから、無意味な存在なのにも関わらず、
 人間は生きる事が出来るのだ。
 …。
 人間?
 否、
 すべての存在だ。
 すべての存在は祝福されている。
 意味など、関係なく、我々は存在する事を許されている。
 だから、ここにすべての存在が存在しているのだ。
 我々は、存在を獲得しようとする。
 だから、我々は生きようとする。
 これは、祝福としかいいようがない。
 喜ばしくも、悲しむべきでもない、
 ただの祝福。
 
行人は、人間の生は呪われているだけでなく祝福されてもいると考えています。人間を含む全ての存在は祝福されており、全ての存在はこの世に生きる事を許されています。生きる事を許されているならそれだけで丸儲けじゃん……と思われるかもしれませんが、私たちはそれに加えて生を獲得しようとします。ただ単に生存が許可されている事だけでなく、私たちが生きようとする事も行人は祝福と呼んでいます。
 
終ノ空』琴美ENDでは、生の祝福について、さらに踏み込んだ議論が行われます。
 

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行人「だけど、祝福されているよ
行人「生は…
行人「だから、生への意志が…
行人「我々にはあるんだと思うよ
彩名「意志?」
行人「ああ、それは意志だ」
彩名「生きようとする意志?」
行人「いや、生きようとする意志ではなく」
行人「まさに、生への意志だ」
行人「生は、そこにあるが
行人「それを捕まえる事は出来ない
行人「我々は、生の匂いも、生の感触も、感じる事ができない
行人「生はそこにあるにもかかわらず…
行人「だから、人間は、それに至ろうとする
行人「生に至ろうと…」
行人「しかし、それには決して至れない」
行人「至る事がゆるされないんだ」
行人「だから、それは永久運動にならざるをえない
彩名「それは、どんな運動なの?
行人「俺には
行人「それは、回転のようにも見える
行人「生へ至る回転運動
 
行人は、人間の生を「永久運動」「回転運動」として捉えています。私たちは生を許され、私たちの生はここにある。なのに加えて私たちは生きようとし、生を掴もうとする。私たちは生への意志によって駆動し、グルグルと回転運動を繰り返している。
 

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 生は呪われているが。
 祝福もされている。
 そう、言わざるをえない。
 だから、また、
 生きているものは、
 死んだ者を弔う権利があるのだ。
 生きているものは、
 死のうとするものを引き止める権利があるのだ。
 …。
 人は、目の前の死のうとしている人を止めようとする。
 それは、自殺を悪とは認めてない俺ですらそうだ…。
 なぜだ…。
 なぜ生は呪われているのに、
 それに我々は固執するのだ?
 それこそが生の祝福なのだ。
 
どんなに呪われた生だとしても、自分の生を肯定し、あるいは他人の生を肯定するならば、それは祝福である。呪いとは生の否定であり、祝福とは生の肯定です。こうして人間の生には、呪いと祝福が、生の否定と肯定が、共存します。
 

明晰な呪いと曖昧な祝福

 
呪われた生と祝福された生の問題を掘り下げるために、『終ノ空シナリオライターのSCA-自氏の見解を引用します。
 

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「生への呪い」に対する言説は案外簡単に論理的にすら説明が出来る。
「生への祝福」に対する安易な言説は煙の様な言葉になり、その身体すら濁らす。
 
その様なアンバランスな対比がありながら、多くの人は「生を肯定している」。

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「生への祝福」はいくらでも言葉に出来ますが、言葉にするほどチープなものになります。
「生への呪い」は言葉にすればするほど、抜け出しがたいものとして覆い被さります。
 
SCA-自氏が仰る通り、私たちは生を呪う言葉を簡単に吐き出す事ができます。しかも、生を呪う言葉は、言えば言う程重みが増してくる。「私は/お前は生まれて来ない方が良かった」「生きるのは辛い」「死にたい」「死ね」。こうした言葉は簡単に出てくるし、言えば言う程人々を深く傷つけ、苦しめる。
 
逆に、残念ながら、生を祝福する言葉は、言えば言う程安っぽいものに感じられる恐れがある。「私は/あなたは生まれて来て良かった」「人生は楽しい」「生きるのって最高だ」と言えば言う程、能天気なパリピのように思われてしまう場合がある。だから、生を祝福する理論を構築するのは、生を呪う理論を構築するよりも難しいだろう。
 
多くの人々は普段何となく生を肯定し、何となく生きようとします。生の肯定は曖昧で「何となく」なものになりやすい。その理由の一つとして、生を明晰な理論で肯定するのは難しいからという理由があるでしょう。生を肯定する明晰な理論を構築するのは難しいから、生の祝福は多くの場合明晰に語られず、何となく人々の生を包み込む。こうして生の祝福は「語られず示されるもの」になりやすいと思います。
 
生きるのが辛くなり、死にたくなったときには、語られず示されるものに目を凝らし、耳を澄ましてはいかがでしょうか。おそらくそこには生の祝福が、生の肯定があるはずだから。
 

弱々しく空虚である事の良し悪し

 
とあるブログに、『終ノ空』が肯定した生は「あまりにも弱々しく、空虚」だというご意見がありました。このご意見は至極もっともであり、反論の余地は無いと思います。しかし、『終ノ空』が肯定した生は弱々しく空虚だから「悪い」とは一概に言えないと私は思うのです。終ノ空で見出された生は弱々しく空虚であるからこそ、かえってリアリティがあるのではないか。
 
多くの人々は深い理屈を考えず、何となく生を祝福し、肯定していると思います。現実の日常生活で多くの人々を支えているのは、曖昧で「何となく」の生の肯定です。そして何となく肯定される現代人の生は、弱々しく空虚なものになりがちです。終ノ空』で肯定された生は弱々しく空虚なものだったけど、生が弱々しく空虚なのは現実の日常でもそう変わらない。だから『終ノ空』の空虚な生には、弱々しいからこその生々しさがあると思うのです。
 
終ノ空』は、日常に根差した弱々しい生を、くっきりと描いて提示して見せた作品だと思う。そういう点で『終ノ空』で肯定された生には、弱々しく空虚だからこその「良さ」があると私は思っています。弱々しく空虚だからこそ、現実で見落とされがちな生の様態を発掘できるところが、『終ノ空』の良いところだ。