かるあ学習帳

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大江健三郎「飼育」のあらすじと解説

私はラカンの専門家ではない。私はラカンについては入門書で読んだ程度の知識しかないので、私のような人間はラカンについてしたり顔で語るべきではないと思う。私はインターネットに信憑性が低い情報を公表したくないと思っている。もしもこの記事を読んで「これだからインターネットは信用できないな」と言う意見が現れたら、私はとても残念に思う。
 
にも関わらず、私はこの記事を公表することを決断する。なぜならこの記事を公表することによって、何か建設的な効果が発生するのではないかという微かな希望が感じられるからだ。この記事に書かれているラカンに関する情報には、誤りが含まれている可能性がある。しかし私は、不正確な情報を送信するリスクを敢えて犯し、自分が知っている事を素直に公表したい。その結果、何か建設的な効果が発生したとしたら、私の目標は達成される。
 
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「飼育」(『死者の奢り・飼育』所収)
1959年初版発行
 

あらすじ

物語の舞台は戦時中。「僕」たちが暮らす谷間の村に、敵軍の飛行機が落下した。飛行機には敵の黒人兵が乗っており、村の大人たちは黒人兵を捕まえて地下倉に閉じ込めた。「僕」たちは、閉じ込められた黒人兵を獣のように「飼育」することになる。
 
「僕」たちは黒人兵の世話をしているうちに、黒人兵と仲良くなったかのように思えた。しかし県に引き渡されることを恐れた黒人兵は、「僕」を人質にする。「僕」の父は鉈を振り下ろして黒人兵を殺害し、巻き添えになった「僕」の左手も打ち砕かれる。終戦近くに惨事を経験した「僕」の心はもう子供ではなくなり、子供たちの世界に別れを告げることとなった。
 

解説

・陰惨な成長物語
「飼育」の主人公・「僕」は黒人兵と仲良くなったかのように思えたのだが、結局仲良くなることができなかった。黒人兵の人質になり、父親の鉈によって左手を損傷した「僕」は、激しい痛みを伴う形で「子供からの成長」を遂げる。「飼育」は明らかに「僕」の成長物語なのだが、「僕」の成長を明るく希望に満ちたものとして描写していない。子供の世界からの別れを伴う、陰鬱な「成長」が描かれている。
 

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僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。(p.138)
 僕は子供たちに囲まれることを避けて、書記の死体を見すて、草原に立ちあがった。僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、村の大人たちがそれらに慣れているように。(p.141)
 
確かに「飼育」に書いてあるように、大人になると子供の頃のような世界との関わり方をしなくなると思う。他の子供としょうもないことで喧嘩をしなくなるし、子供の頃に楽しかった遊びをしても面白いと感じなくなったりする「全ての大人がそうなるとは限らないのでは?」「大江は成長をネガティブに表現しすぎ」といった反論が来そうだが、「子供からの成長」には「飼育」で表現されているような喪失が伴うことが予想できる。
 
・「想像界」への閉鎖
文芸評論の重鎮・スガ秀実は、去年の『群像』3月号で「飼育」を次のように評している。
 

f:id:amaikahlua:20210116151624j:plainスガ秀実(1949~)

 「飼育」や「芽むしり仔撃ち」における、戦時下の地方山村を舞台にした想像的(イマジネール)ユートピアにおいては、父親は存在していても、それは「現実生活」へ誘おうとする父親ではない。つまり、兵士になれと扇動するような父ではない。彼は逆に子供たちを、子供たちだけの想像的な世界に押し込めるのである。
 
スガの解釈によると、「飼育」に登場する子供たちは「想像的(イマジネール)な世界」に閉じ込められているという。この解釈はおそらく、フランスの精神分析ジャック・ラカンの「想像界(l'imaginaire)」を意識した発言であろう。想像界」とは、一言で言えばイメージの領域である。人間の精神には想像的な側面がある。特に生後間もない子供は神経系が十分に発達していないので、神経による身体の統一よりも先に、イメージを用いた統一が行われると言われている。
 

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 鏡像段階に達した子ども(生後六~八ヵ月)は、他の子どもに対してはなはだ攻撃的な態度を取るようになる。この頃においてはまだ自他の境界ははっきりせず、他の子どもを叩いたあとで「あの子がぶった」といった発言がみられる。(中略)人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒体にすぎない。もっと具体的に言えば、この像は他者のイメージ、つまり生まれてすぐなら母親、そして兄弟、家族のイメージである。*1
 
生まれてすぐの子供は他の子供に対して攻撃的である。そして自分と他者の区別がはっきりしない。この傾向は、「飼育」に登場する子供たちにもよく表れている。「飼育」の子供たちは好戦的で、それでいて他の子供や黒人兵と馴れ合っている。「飼育」の子供たちはイメージの領域に閉じ込められていいて、作中の山村は「想像的(イマジネール)なユートピアだとスガは思ったのだろう。
 
・〈法〉の介入
「飼育」の山村は「想像的なユートピア」な訳だが、ユートピアでいつまでも馴れ合っているだけでは子供は成熟しないだろう。子供は大人になるために、想像的なユートピアに安住するのを禁じられる必要がある。そこで介入してくるのが「父の名(ノン)」による「否(ノン)」だ。スガ秀実は、「飼育」のラストを鋭く批評している。
 

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飛行機が墜落して村の捕虜となった米国黒人兵と子供たちとの閉ざされたユートピアー「黒人兵は猟犬や子供たちや樹々と同じように、村の生活の一つの成分になろうとしていた」ーは、父が、「僕」の指と一緒に、黒人兵の頭を鉈で叩き割って殺害することで終わる。少年「僕」の叩き潰された指が、父の「否」による去勢を含意していることは見やすい。
 
「飼育」の主人公「僕」は、父親によって指を損傷して成長する。「僕」を成長させたのが「父親」であることは、とても重要である。なぜなら、ラカン精神分析における父親は「〈法〉を司り、主体を去勢する存在」だからである。
 

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ラカンの言う〈法〉は「法律」だけでなく、「法則」「規則」「慣習」「決まり事」など、幅広いルールを指すという。人間を野獣にしないためには、人間に〈法〉を課さなければならない。ラカンは必ずしも肉親に限らず〈法〉を課す存在を、「象徴的父」と呼んだ。「飼育」の場合、主人公の父親(肉親かどうかは私にはわからない……)が主人公を去勢するので、ラカン理論と符合している。
 
ただ馴れ合っているだけでは、子供は一人前の大人にならない。ときに否定され、〈法〉を課され、去勢されることによって子供は社会性を身に付ける。「飼育」は、つらい内容ながら重大なメッセージ性のある小説だと思う。「僕」が黒人兵を「飼育」しただけでなく、「僕」も父親によって「飼育」されているかのようだ……。
「飼育」は時系列で言うと「死者の奢り」よりも後に発表された小説なのだが、興味深い事に、この作品は「死者の奢り」よりも前の時代とテーマを扱っている。「死者の奢り」の舞台は戦後の日本である一方、「飼育」の舞台は戦時中の日本である。「死者の奢り」の主人公は意識や粘膜によって他人と隔絶された青年である一方、「飼育」では外界と未分化な少年が他人と断絶するまでの過程が描かれている。こう考えると、先に「飼育」を読んでから「死者の奢り」を読んでみると良いかもしれないなと思う。
 
〈参考文献〉
スガ秀実「小説家・大江健三郎 その天皇制と戦後民主主義」(『群像』2020年3月号)
・片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』、誠信書房、2017年

*1:向井雅明『ラカン入門』、ちくま学芸文庫、2016、p.25