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大江健三郎「飼育」のあらすじと解説(改訂版)

amaikahlua.hatenablog.com

私は昨年、大江健三郎芥川賞受賞作「飼育」のあらすじと解説を書きました。この記事は有り難い事に多くのアクセスを頂いていますが、出来があまり良くないと思います。ですので、今回は「飼育」について再度語り直す事にします。

 

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「飼育」(『死者の奢り・飼育』所収)
1959年初版発行
 

あらすじ

 
物語の舞台は戦時中。「僕」たちが暮らす谷間の村に、敵軍の飛行機が落下した。飛行機には敵の黒人兵が乗っており、村の大人たちは黒人兵を捕まえて地下倉に閉じ込めた。「僕」たちは、閉じ込められた黒人兵を獣のように「飼育」することになる。
 
「僕」たちは黒人兵の世話をしているうちに、黒人兵と仲良くなったかのように思えた。しかし県に引き渡されることを恐れた黒人兵は、「僕」を人質にする。「僕」の父は鉈を振り下ろして黒人兵を殺害し、巻き添えになった「僕」の左手も打ち砕かれる。終戦近くに惨事を経験した「僕」の心はもう子供ではなくなり、子供たちの世界に別れを告げることとなった。
 

解説

 
・陰惨な成長物語
 
「飼育」の主人公・「僕」は黒人兵と仲良くなったかのように見えましたが、結局仲良くなることができませんでした。黒人兵の人質になり、父親の鉈によって左手を損傷した「僕」は、激しい痛みを伴う形で「子供からの成長」を遂げます。「飼育」は明らかに「僕」の成長物語なのですが、「僕」の成長を明るく希望に満ちたものとして描写していません。子供の世界からの別れを伴う、陰鬱な「成長」が描かれています。
 

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僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。(p.138)
 僕は子供たちに囲まれることを避けて、書記の死体を見すて、草原に立ちあがった。僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、村の大人たちがそれらに慣れているように。(p.141)
 
確かに「飼育」に書いてあるように、大人になると子供の頃のような世界との関わり方をしなくなりますよね。他の子供としょうもないことで喧嘩をしなくなるし、子供の頃に楽しかった遊びをしても面白いと感じなくなったりする「全ての大人がそうなるとは限らないのでは?」「大江は成長をネガティブに表現しすぎ」といった反論が来そうですが、「子供からの成長」には「飼育」で表現されているような喪失が伴うことが予想できます。
 
・「想像界」への閉鎖
 
文芸評論の重鎮・スガ秀実さんは、去年の『群像』3月号で「飼育」を次のように評しています。
 

f:id:amaikahlua:20210116151624j:plainスガ秀実(1949~)

 「飼育」や「芽むしり仔撃ち」における、戦時下の地方山村を舞台にした想像的(イマジネール)ユートピアにおいては、父親は存在していても、それは「現実生活」へ誘おうとする父親ではない。つまり、兵士になれと扇動するような父ではない。彼は逆に子供たちを、子供たちだけの想像的な世界に押し込めるのである。
 
スガさんの解釈によると、「飼育」に登場する子供たちは「想像的(イマジネール)な世界」に閉じ込められているという。この解釈はおそらく、フランスの精神分析ジャック・ラカンの「想像界(l'imaginaire)」を意識した発言でしょう。想像界」とは、一言で言えばイメージの領域です。人間の精神には想像的な側面があります。特に生後間もない子供は神経系が十分に発達していないので、神経による身体の統一よりも先に、イメージを用いた統一が行われると言われています。
 

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 鏡像段階に達した子ども(生後六~八ヵ月)は、他の子どもに対してはなはだ攻撃的な態度を取るようになる。この頃においてはまだ自他の境界ははっきりせず、他の子どもを叩いたあとで「あの子がぶった」といった発言がみられる。(中略)人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒体にすぎない。もっと具体的に言えば、この像は他者のイメージ、つまり生まれてすぐなら母親、そして兄弟、家族のイメージである。*1
 
生まれてすぐの子供は他の子供に対して攻撃的である。そして自分と他者の区別がはっきりしない。この傾向は、「飼育」に登場する子供たちにもよく表れていますよね。「飼育」の子供たちは好戦的で、それでいて他の子供や黒人兵と馴れ合っている。「飼育」の子供たちはイメージの領域に閉じ込められていいて、作中の山村は「想像的(イマジネール)なユートピアだなあとスガさんは思ったのでしょう。
 
・〈法〉の介入
 
「飼育」の山村は「想像的なユートピア」なわけですが、ユートピアでいつまでも馴れ合っているだけでは子供は成熟しませんよね。子供は大人になるために、想像的なユートピアに安住するのを禁じられる必要があります。そこで介入してくるのが「父の名(ノン)」による「否(ノン)」です。スガ秀実さんは、「飼育」のラストを鋭く批評しています。
 

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飛行機が墜落して村の捕虜となった米国黒人兵と子供たちとの閉ざされたユートピアー「黒人兵は猟犬や子供たちや樹々と同じように、村の生活の一つの成分になろうとしていた」ーは、父が、「僕」の指と一緒に、黒人兵の頭を鉈で叩き割って殺害することで終わる。少年「僕」の叩き潰された指が、父の「否」による去勢を含意していることは見やすい。
 
「飼育」の主人公「僕」は、父親によって指を損傷して成長します。「僕」を成長させたのが「父親」であることは、とても重要です。なぜなら、ラカン精神分析における父親は「〈法〉を司り、主体を去勢する存在」だからです。
 

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ラカンの言う〈法〉は「法律」だけでなく、「法則」「規則」「慣習」「決まり事」など、幅広いルールを指します。人間を野獣にしないためには、人間に〈法〉を課さなければなりません。ラカンは必ずしも肉親に限らず〈法〉を課す存在を、「象徴的父」と呼びました。「飼育」の場合、主人公の父親(肉親かどうかは私にはわからない……)が主人公を去勢するので、ラカン理論と符合しています。
 
ただ馴れ合っているだけでは、子供は一人前の大人にならない。ときに否定され、〈法〉を課され、去勢されることによって子供は社会性を身に付ける。「飼育」は、つらい内容ながら重大なメッセージ性のある小説だと思います。「僕」が黒人兵を「飼育」しただけでなく、「僕」も父親によって「飼育」されているかのようだ……。
 
〈参考文献〉
スガ秀実「小説家・大江健三郎 その天皇制と戦後民主主義」(『群像』2020年3月号)
・片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』、誠信書房、2017年

*1:向井雅明『ラカン入門』、ちくま学芸文庫、2016、p.25