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宮台真司『終わりなき日常を生きろ』書評~「さまよえる良心」編~

社会学者・宮台真司『終わりなき日常を生きろ』では、オウムと現代社会が考察されています。この本のキーワードは、さまよえる良心」「終わりなき日常」です。今回はこれら2つのキーワードのうち、「さまよえる良心」に的を絞って考えていこうと思います。

 

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『終わりなき日常を生きろ』
1998年3月24日初版発行
 

「さまよえる良心」とは何か

 
まず、「さまよえる良心」とは何なのかについて説明します。現代社会では道徳が悪い意味で不透明であり、「何が良いことなのか」がわかりにくい世の中になっています。何が良いことなのかがハッキリしないため、「良いことをしたい」と考える善意ある人々の良心の行き場がよくわからないのです。良いことをしたい」という良心があるのに、「何が良いことなのかがわからない」ため、良心がさまよう。この現象が宮台氏の言う「さまよえる良心」です。
 

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 しかし、問題の「マインド・コントロールにはもう一つの見逃せない要素がある。それが「さまよえる良心」という問題だ。私たちの時代には「良きことをしたい」という良心への志向が強ければ強いほど、「何が良いことなのかが分からない」という不透明感が切迫し、透明な「真理」への希求が高まる。その結果、たとえば彼らが救済という「良きこと」に向けて強く動機づけられていればいるほど、児戯のようなフックに引っかかって世界観を受容する。そういう構造にこそ目が向けられなければならないということだ。(p.62)
 
オウム真理教は地下鉄にサリンをばらまいた凶悪な宗教団体ですがオウムにはもともと善意ある人々や優秀な人々が大勢入信しました。何か良いことがしたい、世界や人類を救済したい。さまよえる良心や崇高な理想を持った人々は、「これは善業、これは悪業」とまるで父親のように断言する麻原教祖に引き寄せられていったのです。オウムは現代社会で失われた共同性を埋め合わせ、共同体消失がもたらした良心の空白も麻原の説法が穴埋めしたというのが宮台氏の説です。*1
 
 正確にいえば「良心的存在でありたいのに、何が良きことなのか分からない」という問題は、私たちが良心的存在であろうとする限りにおいて露わになる。もちろん今でも私たちの社会には、「良き人間でありたい」「良きことをしたい」と望む人間が多数存在する。しかしそのような「良心あふれる人間」こそが、「良心-(倫理+道徳)=?」という問題に真正直に直面し、「これは善業、これは悪業」とあたかも父親のように断言する麻原教祖に、ゴーマニズムの小林よしのりに吸引されるように引き寄せられる。そこにこそ問題があるのである。(p.68)
 

世界は苦しみに満ちている

 
自分のブログなので、自分の話をさせて下さい。私は中学生のころ、「この世界を救済したい」と本気で思っていました。「エリートになって、絶望に満ちたこの世界を救済しよう」と思い、毎日勉強に明け暮れていました。私は中学生のころまでは成績が優秀でしたが、高校に入ってから勉強に付いていけなくなり、エリートになる夢を諦めました。自分にはエリートになれる程の能力が無いし、世界を救済するのは誰にとっても容易なことではないと次第に知った私は、この世界を救済することに挫折しました。
 
もしも私が高校に入ってからもずっと優秀で、一流の大学に進学していたらどうなっていたのだろうか。もしかしたら、オウムに入信したエリートみたいに怪しい団体に入っていたかもしれません。オウムに入信したエリートたちの中には、かつての私のように「世界を救済したい」と思い、そのまま挫折せずに一流の大学に通った人がいたかもしれませんその可能性は十分にあると思います。「俺は今までずっと優秀だったし、俺にはきっと世界を救う力がある。世界を救うために、何か良いことをしよう」。そう思ったエリートが、麻原教祖に吸引されていく。ありうる話でしょう。
 
ここまで考えた私は2つの苦しみを持ちます。1つめの苦しみは、「いくら世界を救いたくても、どうすれば世界を救えるのかがよくわからない」という苦しみです。宮台氏が指摘している通り、現代では何が良いことなのかがよくわからないので、どうすれば世界を良くできるのかもよくわからない。そして、この世界では環境破壊や経済格差などが確実に進行しているのですが、どうすれば世界の崩壊を止められるのかもよくわからない。漫画やゲームのようなフィクションの主人公なら世界を救えるかもしれないけど、リアルの世界の救い方をたぶん誰もよくわかっていないので苦しい。
 
2つめの苦しみは、「なぜ、邪悪な人々ではなく良心的な人々が犯罪を犯してしまうのだろうか?」という苦しみです。オウムに入信した人々がみんな根っから邪悪な人々で、邪悪な人々が犯罪を犯して逮捕されるならスッキリする話です。しかしこの現実には、悪意ある人々よりも「さまよえる良心」を持った良心的な人々の方がかえってカルトに引っかかりやすいという胸糞悪い事実があります。犯罪に抵触しない中途半端に腹黒い人間ではなく、透明な「真理」を希求する良心的な人々が逮捕される。現代社会では、こうした理不尽が起こりうるのです。
 
ごらん、世界は苦しみに満ちているよ。

*1:余談ですが、団地化によって共同性とモラルが崩壊したことの象徴として「団地売春」や「人妻もののピンク映画」が挙げられているところが面白かった。宮台氏らしいユーモア(?)があると言うか