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宮台真司『終わりなき日常を生きろ』書評feat.『終ノ空』~「終わりなき日常」編~

社会学者・宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』で、オウムと現代社会を考察しました。今回は宮台氏の超重要キーワード「終わりなき日常」について考えていこうと思います。

 

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『終わりなき日常を生きろ』
1998年3月24日初版発行
 

「終わらない日常」VS「核戦争後の共同性」の対立

 

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宮台氏の分析によると、80年代には「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」という2つの終末観があったらしい。
 

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80年代前半には、女の子を中心とした「終わらない日常」という終末観が流行ったという。「終わらない日常」というのは、「これからは輝かしい進歩も恐ろしい破滅もなく、学校的な日常で永遠に戯れるしかない」という終末観です。宇宙戦艦ヤマト』ブームへの反発から生まれた『うる星やつらが、当時の「終わらない日常」を象徴しているらしい。80年代の「終わらない日常」は、『らき☆すた』みたいな「日常系」の先祖なのかなと思います。
 

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80年代後半には、男の子を中心とした「核戦争後の共同性」という終末観が流行ったという。「核戦争後の共同性」というのは、日常が崩壊した世界での団結や共同性にロマンを抱く終末観です。80年代のヘビーメタル音楽や『AKIRA』、『風の谷のナウシカ』が、当時の「核戦争後の共同性」を象徴しているらしい。少年中心の「核戦争後の共同性」は少女中心の「終わらない日常」に対する反動から生まれた終末観で、「この日常が永遠に続くのは我慢ならん!」と思った連中が考えたみたいですね。

 
 だが、「終わらない日常」はキツイ。ユートピアであると同時にディストピアでもある。モテない奴は永久にモテず、さえない奴は永久にさえない。イジメられっ子も永久にイジメられたままだ。それに苛立つかのように八〇年代後半に主流になるのが、男の子を中心とした「核戦争後の共同性」というファンタジーだ。(中略)「終わらない日常」のなかでありえなくなった「非日常的な外部」を未来に投影することで、やっと現在を生きうる。女の子の場合、その外部は「前世の転生戦士」のファンタジーとして、過去に投影されたのだった。(pp.88-89)
 

ブルセラ」VS「サリン」の対立

 

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宮台氏の分析によると、90年代には「ブルセラ」と「サリンの対立があったらしい。80年代は主にフィクションの作風の対立であった「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」が、90年代になると「ブルセラ」と「サリン」の対立として現実化したらしい。90年代になると、対立の舞台がファンタジーからリアルの社会現象に移ったわけ。もっとも宮台氏によると、虚構と現実の区別は現代では明確じゃなくなっているそうですが。
 
90年代の「ブルセラ」世代の制服少女たちは、終わらない日常を生きるのが上手かったらしい。ブルセラ世代の少女たちはたまり場やデートクラブで脱力した日常を生きるので、終わらない日常をテロリズムによって破壊しようとか攻撃的なことを考えない。しかもブルセラ世代は「結婚願望」は高くても「結婚幻想」は抱かなかったらしい。まったりとした青春を送り、普通に結婚していくのがブルセラ世代。
 

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一方90年代の「サリン側はブルセラ東京の終わらない日常をサリンを撒いて破壊し、人類を救済に導こうとした。オウムの教団幹部は終わらない日常をキツイと感じる張本人が多く、彼らは80年代の「核戦争後の共同性」を現実化しようとした。AKIRA』や『コインロッカー・ベイビーズ的終末観が現実の社会現象として如実に実体化したのが、地下鉄サリン事件
 

若槻琴美VS間宮卓司一派の対立

 

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80年代には「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」の対立、90年代には「ブルセラ」と「サリン」の対立があった。これらはいずれも「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立だといえます。この対立は、1999年に発売されたエロゲー終ノ空にも見られる対立です。終ノ空では若槻琴美が日常に従属する側の人間で、間宮卓司一派が日常に反対する側の人間だった。
 
終ノ空の若槻琴美はクラスメイトたちが噂する友達の自殺や世界の終わりの話に、上手く馴染むことができなかった。琴美には現世でするべき行為がたくさんあり、幼なじみの行人とずっと一緒にいたいと思った。だから琴美は、世界の終末を拒絶しました。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。
 
一方、『終ノ空』の作中で琴美と対立した間宮卓司は「救世主」を自称し、世界の終わりを予言しました。卓司は、この世界の向こう側に存在する事象の「兆し」「予還」を指し示します。卓司が指し示したのは、宮台氏の言葉を借りて言えば「『終わらない日常』の中でありえなくなった『非日常的な外部』」です。卓司は、宮台氏が言う「核戦争後の共同性」「サリンの正統な後継者だと思います。
 

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卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め
卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!
卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければならない!
(中略)
卓司「しかし、それを認めてなお」
卓司「無意味な人生そのものを受け入れてなお」
卓司「我々が、その存在を否定しきれないなら」
卓司「君の心に」
卓司「まるで」
卓司「沈んでしまった船が」
卓司「その船の」
卓司「その躯のあった場所に…」
卓司「残していった」
卓司「水面の」
卓司「水面の…波紋…」
卓司「揺らぎのように」
卓司「心の中に、予感があるなら」
卓司「波紋のような揺らぎがあるなら」
卓司「それは…
卓司「それこそ
卓司「兆しへの予還である
 
また、『終ノ空』で琴美と対照的なポジションに位置する高島ざくろは、「前世の仲間」と対話した電波少女です。不良に弱味を握られていたざくろは前世に「世界を救う戦士」だったことを知るわけなんだけど、これは宮台氏が言う「過去に投影された『前世の転生戦士』のファンタジーそのものですね。ですから、ざくろも「核戦争後の共同性」の正統後継者だと言ってよいでしょう。もっともざくろが日常に「反対した」かと言われると、いささか語弊があるかもしれませんが。
 

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 私が何で生まれて来たか…、
 私が何で存在しているか…、
 それが今日解ったわ…!
 そうよ…、
 私は世界を救う戦士だったのよ!
 

普遍的な対立

 
80年代の「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」の対立、90年代の「ブルセラ」と「サリン」の対立、『終ノ空の若槻琴美と間宮卓司一派の対立は、いずれも「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立です。両極は明確に対立していますが、どちらも「日常に対する向き合い方」である点では共通している。そういう意味では対立する二項は表裏一体、同じものだと言えるでしょう。
 
また、本稿では話が拡散するのを防ぐためにあえて触れませんでしたが、『終わりなき日常を生きろ』には「60年代SF」と「50年代SF」の対立についても書いてありました。『終わりなき日常を生きろ』は主にオウムについて書かれた本であり、『終ノ空は90年代終盤の終末観がよく表れたゲームではあります。しかし、「日常に従属する派」と「日常に反対する派」の対立は、世代を超越した普遍的な対立でありえます。そこに日常がある限り、その日常に対する向き合い方の違いで対立はいつでも生じうるのではないでしょうか。