かるあ学習帳

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大江健三郎『個人的な体験』の解説とか感想とか

ノーベル賞作家・大江健三郎は、知的障害のある息子・光の父親です。頭部に異常のある息子が誕生した時の大江氏のショックは凄まじかったらしく、体がうつぶせのまま動けなくなったこともあったとか。大江氏と『個人的な体験』の主人公は同一人物ではありませんが、大江氏は障害児の出生に触発されて『個人的な体験』を執筆しました。

 

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『個人的な体験』
1981年2月25日初版発行
 

作品の大まかな内容

主人公・鳥(バード)は、27歳の予備校講師です。鳥にはアフリカを旅行したいという夢があり、鳥は旅行の後で冒険記を出版したいとも思っていました。しかし鳥の妻は頭部に肉瘤のある息子を出産し、「家族の檻(おり)」に閉じ込められた鳥は絶望します。鳥は、妻ではない女友達・火見子(ひみこ)とのセックスに溺れます。しかし最後に鳥は責任を持って障害児を育てる決意をし、人間として成長します。
 

「鳥」という名前

この小説の主人公は、「鳥(バード)」という少し奇妙な名前を持っています。この「鳥」という名前には、かなり色々な意味合いが込められていると思います。まず、作中で具体的に説明されているように、主人公は文字通り鳥のような外見をしているから「鳥」と名付けられたと考えられる。あと、何年も昔の『群像』の対談で、大江氏が平野啓一郎さんに「鳥」というのは現実世界で自分に付けられたあだ名が由来だと言っていた記憶がある。また、「鳥」というのはチャーリー・パーカーのあだ名を意識しているのではないかという説もある。
 
私がこの小説を読んだ限り、主人公が「鳥」という名前なのは、「主人公が日常世界から鳥のように自由に羽ばたきたいと思っているから」という理由がありそうだなと思いました。鳥には家族という檻(おり)のフタから出たいと思っている節がありますが(p.11)、これは檻から飛び立つ鳥をイメージさせる。また、鳥は酒好きで夢見勝ちな性格なので、ふらふら飛び立つ鳥のような男だ。あなたフラフラフラフラミンゴ。
 
「本当に、大丈夫であってほしいわ、鳥。わたしには、とても大切な時に、あなたが酔っぱらうか、おかしな夢にとりつかれるかして、ほんとの鳥みたいに、ふらふら飛び立っていってしまいそうに思えることがあるのよ」(p.150)
 

子供の死を願う父親

私がこの小説を読んで衝撃的だったのは、鳥が障害のある息子の誕生を少しも嬉しいと思っておらず、息子がどうにかして死ぬことを切実に願っていたところですね。倫理観や親心のある人なら「お前、子供の父親だろ!自分の子供をかわいいと思わないなんて、人でなしめ」と非難したくなる主人公。しかし、鳥にとって息子は自分の夢を邪魔する怪物なのであって、鳥が息子に死んで貰いたいと思っていることが作中で正直に書いてある。大江氏は後書きで鳥と自分は別物だと断っているけど、これは作品と作者を同一視する人からの批判をかわすためなのかなと思ったね(笑)。
 

火見子という誘惑

障害児の誕生から逃げようとする鳥は、火見子という女友達とのセックスに耽溺します。この火見子という女性は一流大学(おそらく東大)を卒業した女性で、哲学的な思索をしている。火見子は堕落した生活を送っているのですが、性的な魅力に満ちている。火見子は鳥の良き理解者として振る舞い、鳥を慰めたり鳥と一緒にアフリカに出発しようとしたりする。
 
私が読んだ限り、火見子はエロゲーとかに出てくる「男が理想とする、男にとって都合のいい女」に近い存在として描かれていると思う。結局鳥は火見子と別れて現実に帰る決心をするのですが、これは「エロゲヒロインを捨てて現実に帰れ」という古来からあるオタク向けメッセージが大江流に変奏されたバージョンという感じがしましたね(ちょっと違うかも)。
 

これが「個人的な体験」だ

「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ」と鳥はいった。「(中略)ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生れない。不毛で恥かしいだけの厭らしい穴堀りだ、ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」(p.184)
 
この小説は『個人的な体験』という題名の通り、障害児の誕生という個人的な体験を描いた作品です。鳥は孤独な個人であり、絶望しながら闇に潜っていった。現実の世界にも、障害児の誕生に限らずその人個人にしかわからない・その人個人で解決するしかない問題を抱えている人はたくさんいるでしょうね。作中の障害児というのは、個人個人に課せられた宿命や不幸や災難の象徴かもしれない。人は皆個人的な地獄を持った孤独な存在だけど、個人的な地獄を持っているという点では皆同じ。だから『個人的な体験』は、かえって万人のための小説でありうるのではないかと思いました。
 
さて、鳥は絶望的な穴掘りの末にラストで希望を見出だすのですが、このラストは三島由紀夫たちによって批判されました。個人的な体験』のラストについては論点が多いので、次回書きます。では、また次回。