かるあ学習帳

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大江健三郎『個人的な体験』終幕の考察

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『個人的な体験』
1981年2月25日初版発行
 

俺たちに翼はない

『個人的な体験』の主人公・鳥は自分の息子が障害児であることに絶望し、現実から逃げようとしました。しかし鳥は終幕で現実に帰る決心をし、責任を持って息子を育てることになります。息子は鳥の輸血によって安泰に育ち、大学教授の義父は鳥を「おめでとう」と称賛します。終幕寸前までは主人公の陰惨な現実逃避を描いていたのに、終幕になって若干唐突に主人公が「おめでとう」と祝福される展開が、ちょっとTV版エヴァンゲリオンに似ているような気がするなあ。でもこの温かい結末、私は好きだよ(笑)。
 
「きみは変ってしまった」と教授が幾らかは愛惜の念もこもっている、あたたかい肉親の声でいった。「きみにはもう、鳥という子供っぽい渾名は似合わない」(p.252)
 
夢を諦めて現実に帰った鳥は、人間として成長します。鳥の義父は「鳥」という主人公のニックネームを「子供っぽい」と評します。これはどういうことでしょうか。おそらく「鳥」という名前には、「鳥のようにふらふらして、常世界から飛び去ろうとしている男」という否定的な意味合いが込められているからだと思います。しかし鳥は終幕で不幸をしっかり受け止め、常世界から逃げるのをやめた。だからもう、「鳥」という未熟な名前は似合わなくなったということでしょう。
 
翼をください」という有名な曲があります。この曲では、鳥のように翼を広げて悲しみの無い自由な空へ飛んでいきたいという〈理想〉が歌われている。一方『個人的な体験』の終幕では、鳥のように飛び去ることはできないし悲しみと不自由に満ちた人間の〈現実〉が描かれている。『個人的な体験』は、現実逃避のための小説ではない。逆に、辛い現実に向き合う勇気が得られる小説だと思います。個人的な体験』の終幕にはフィクション=物語を現実逃避の道具にしないようにする効果があるので、この終幕を入れた大江氏の決断を私は支持します。
 
家にかえりついたならまず鏡をみよう、と鳥は考えた。それから鳥は、本国送還になったデルチェフさんが、扉に《希望》という言葉を書いて贈ってくれたバルカン半島の小さな国の辞書で、最初に《忍耐》という言葉をひいてみるつもりだった。(p.252)
 
《希望》という言葉が書かれた辞書で《忍耐》という言葉を引いてみようと鳥が思ったところで『個人的な体験』の物語は終わっています。この結末ではおそらく、自分の不幸を耐え忍んでいれば、きっといつかいいことがあるだろうさという希望が表現されているのだろうと思います。鳥のようにあらゆる孤独で不幸な人々の、我慢が実を結びますように…。
 

三島由紀夫の終幕批判

『個人的な体験』の終幕は三島由紀夫たちに批判され、三島由紀夫によるその批判は大江氏にとって図星だったらしい。その経緯は、大江氏のエッセイ『私という小説家の作り方』に書いてあります。
 

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 ところがまだ若い小説家である私には、小説を書き始める前に考えたプランが棄てられなかったのだ。主人公鳥がもうまったく子供ではないと客観的に認知されるシーン、それにつないでの、小説の最初に出てくる不良少年たちとの格闘のシーンとシンメトリーをなすような、かたちを変えての再現。そのラストの構想にこだわってしまったのだ。三島由紀夫による批判の、これではプロデューサーにハッピー・エンドで終らねばならぬと言いふくめられた監督のようだ、という否定はあたっていた。*1
 
『個人的な体験』の冒頭には、妻の出産を控えた鳥が不良少年たちと喧嘩をするシーンがあります。一方『個人的な体験』の終幕では、鳥が喧嘩した不良少年たちに再会するのですが、不良少年たちは鳥に喧嘩を売らずに去っていきました。鳥が人間的に成長したので、不良少年たちは喧嘩を売る気にはなれなかったのでしょう。個人的な体験』の冒頭と終幕では「鳥と不良少年たちとの遭遇」が繰り返され、状況の対比によって鳥の成長が鮮やかに描かれています。大江氏はこの対句のような表現を、どうしても終幕でやりたいと思ったんですね。
 

f:id:amaikahlua:20210414172957j:plain三島由紀夫(1925~1970)

しかし、そのため『個人的な体験』の終幕は凄惨な現実逃避から一転して温かい現実に帰る内容になり、話の流れがやや不自然になってしまった。鳥の現実に対する恐怖が最高潮に達した後で訪れる終幕のハッピーエンドを、三島由紀夫は上手いと思わなかった。私は三島が言う程この終幕を悪いとは思っていないのですが、大江氏が固執した「対句表現」や「ハッピーエンド」*2が肯定的に評価されなかったのは興味深い現象だなと思います。
 
「冒頭と終幕で同じような場面を繰り返し、状況の対比によって主人公の成長を描く」というテクニックは、『個人的な体験』以外の物語でも見られる技法ですね。例えば宮沢賢治の「セロひきのゴーシュ」でも冒頭と終幕で同じような場面が繰り返され、冒頭と終幕の対比でゴーシュの成長が強調されています。*3物語にこうした技巧を取り入れると普通は称賛されることが多いと思うのですが、大江氏はこの技法にこだわるあまり批判されたというのは興味深い
 
小説のテクニックを重視したら必ずしも褒められるわけではないし、ハッピーエンドにしたら必ずしもみんな喜ぶわけでもない」という例が、『個人的な体験』。対句表現とハッピーエンドを入れたら必ずしも良いわけではないというのは、創作を志す人にとってけっこう勉強になる話ではないかと思います。技術は大事ですが、技術を追求するあまり物語の「自然さ」が損なわれないよう気を付けたいものですね。

*1:大江健三郎私という小説家の作り方』、新潮文庫、二〇〇一、一七九頁。

*2:個人的な体験』の終幕は「ハッピーエンド」とは一概に言えないと思いますが、本稿では三島の言葉を借りて「ハッピーエンド」と表記します。

*3:「セロひきのゴーシュ」に対句が用いられていることはとあるブログを読んで知ったのですが、諸事情によりリンクは貼りません。