今、Youtubeでポケットモンスター第72話「
映画『ミュウツーの逆襲』の終盤では、 ミュウツー率いるコピーポケモンとミュウ率いるオリジナルポケモ ンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げる。しかし、 オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、 戦わずにのんびりと月を眺める。 2匹のニャースは戦場の外野に位置しており、 2匹のニャースは場違いな程諦観している。 脚本家の首藤剛志氏のコラムによると、ロケット団のニャースにとって自己存在のための戦いは「どうでもいい」 問題なのだそうだ。
だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?「今夜の月は満月だろな…」達観諦観わびさびの世界のようなものである。
ロケット団のニャースが「人間の言葉を勉強し話せるようになり、 直立できるようになり、人間になりたかった」理由は、「 ニャースのあいうえお」で明かされる。そのため『 ミュウツーの逆襲』は、「ニャースのあいうえお」 の延長線上に位置する映画だと解釈できるだろう。
ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」 のことが好きになり、 マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓 練をする。ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、 進化や技の習得ができなくなる。『ミュウツーの逆襲』 のミュウツーは生まれつき人語を話し二足歩行もできる、 優秀な遺伝子を持つポケモンである。 しかしニャースは努力と代償によって人語や二足歩行が可能になっ た、言わば苦労人なのである。
ニャースはマドンニャに告白したが、「立って歩く、 人間の言葉を話すニャースは気持ち悪い」という理由で振られる。 その後、グレたニャースはロケット団に入団する。 人間を凌ぐ悪になって、 腕ずくでもマドンニャを自分のモノにするために。『 ミュウツーの逆襲』 のミュウツーは手始めにロケット団に反逆することによって逆襲を 開始したが、 ニャースはロケット団に従属することによって逆襲を開始したのだ 。
生まれつき優秀な遺伝子を備えたポケモン界のエリートのようなミ ュウツーと、努力と挫折にまみれたポケモン界の苦労人のような( ロケット団の)ニャース。 対照的な点が多いミュウツーとニャースだが、両者は『 ミュウツーの逆襲』でも『ミュウツー!我ハココニ在リ』 でも決して衝突しない。おそらく、ミュウツーが問題にしている「 私は誰か」 はニャースにとっていつの間にかもうどうでもいい問題になってお り、 ニャースはミュウツーの了見の外野に位置する存在だからだろう。 ニャースは大人になりすぎてしまっていて、「私は誰か」 という問題を卒業してしまったのだ。
ニャースは過去の決定的な失恋を機に、「私は誰か」 という思春期にありがちな悩みを超越したのかもしれない。「 ニャースのあいうえお」 のラストでニャースはペルシアンにマドンニャを奪われ、 ショックを受ける。 ペルシアンはロケット団のニャースが失った進化系であり、 野生のポケモン界の縄張りの強者である。 進化できる可能性を失い、 社会性を身に付けた代償として野生のポケモン界に復帰できなくな ったニャースは、「ペルシアンという生き方」 を永遠に失ったのだ。 ニャースは野生のポケモン界の内野で活躍するプレイヤーとしての 権利を剥奪され、外野の存在と化した。
映画『七夜の願い星 ジラーチ』では、ニャース達が「自分の願いなんてどうでもいい」 という結論に至る。『ジラーチ』 でも物語の外野に飛ばされたニャースは、『ジラーチ』 の主題である「自分の願い」という問題を、 またもやメタ的に乗り越える。ニャースは映画の外野で、 映画のテーマをどうでもいいものとして乗り越えていく。「 自己存在のための戦いなんてどうでもいい」「 自分の願いなんてどうでもいい」と。
コジロウ「もう、お願いなんてどうでもいい…」ニャース「命が助かっただけで十分なのニャ」ムサシ「そうね、ここにこうして居るだけで」コジロウ「この瞬間を生きるのだ!」ムサシ「幸せ感じながら」ニャース「一瞬も永遠なのニャ!」
「自己存在のための戦いなんてどうでもいい」「 自分の願いなんてどうでもいい」 と外野から言い切れる者は大人であり、明晰であり、 クールである。しかし、 問題を卒業して外野の存在になるということは、 内野で問題の当事者や物語の主人公になる資格を失っていることを 意味する。ニャースは、 ポケモンという子供向けアニメの主役になるにしては、 大人になりすぎてしまった。 ニャースは子供向けアニメの主役に向いていない、 悲しい脇役なのだ。メタ存在者であるニャースの悲しみが、「 ニャースのあいうえお」では克明に描かれている。