かるあ学習帳

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大江健三郎『人生の親戚』感想とか解説とか

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『人生の親戚』

1994年8月1日初版発行
 

悲しみ、それは人生の親戚。

この小説には『人生の親戚』という不思議な題名が付いていますが、人生の親戚とは一体何なのか。この小説では、悲しみとは「どのような境遇にある者にもつきまとう、あまりありがたくない人生の親戚」だと定義されています。どんなに立派な人でも、身内に嫌な人がいたら、身内である以上、その嫌な人とお付き合いしないといけない。それと同じように、人は皆「悲しみ」という親戚につきまとわれていて、その悲しみと上手く付き合っていかなければならない。そういう意味が、この小説の題名には込められていると思います。
 
この小説の主人公・倉木まり恵さんは、大学院出で学識があり、強い心を持った女性です。しかしまり恵さんは、想像を絶する悲しみという人生の親戚につきまとわれます。まり恵さんの二人の息子(障害児の長男と車椅子に乗る次男)は、自殺で同時に墜落死してしまったのです。大江健三郎の『個人的な体験』では、障害児の息子という身内が誕生した男性の苦しみが描かれていました。『人生の親戚』では、二人の息子という身内が死亡した女性の悲しみが描かれています。そしてその後もまり恵さんは、様々な災難に襲われます。
 
松本清張の『砂の器』という小説があります。この小説では、どんなに才能があっても、努力しても、親と子に流れる宿命は変えられないということが表現されています『人生の親戚』もそれに近く、人に課せられた悲しみという宿命の逃れ難さが、親子や身内というモチーフを用いて表現されていると思いました。
 

通過儀礼としてのセックス

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後期大江の大作『燃えあがる緑の木』第三部ではアウグスティヌスの『告白』が重要な文献になっていましたが、『人生の親戚』でも『告白』に重要な地位が与えられています。中世の哲学者アウグスティヌスは、ローマという「異世界で身体の病気という「試練」を被りました。身体の疾患という「試練」を耐え忍び、「異世界」を脱け出すことにより、人は回心に至ることができるという理念をアウグスティヌスは持っているんでしょうが、後期の大江がこの思想を吸収しようと努力しているのを感じます。
 
『人生の親戚』のまり恵さんは、アウグスティヌスにあやかって悲しみや絶望に肉体が屈してはならないと考えました。まり恵さんはカリフォルニアという「異世界から脱出し、メキシコで新生活を始めました。そして、メキシコで修道尼のような生活を始めたまり恵さんは、人生における自分の決心のしるしとして、「もう死ぬまでセックスをしないこと」を誓いました。まり恵さんにとってセックスを断つのは苦しいことでしたが、苦しみをあえて引き受ける決心をしたのです。
 
『個人的な体験』の主人公・鳥は火見子という女性とのセックスに溺れましたが、最終的には厳しい現実に帰る決心をしました。『人生の親戚』のまり恵さんもセックスの気持ち良さを肯定した上で、禁欲する決心をしました。『燃えあがる緑の木』第三部でも、主人公のサッチャンが性の迷宮から帰還しました。私が見たところ大江は、「人間は病気やセックスのような肉体の迷宮を通過し、その後に神聖な境地に辿り着かなければならない」という思想を持っているように思える。一部の大江作品では、肉体的な問題が通過儀礼として描かれていると思います。
 

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ゲスな話になりますが、世間では性経験の無い童貞が何となく馬鹿にされる風潮があるじゃないですか。童貞を馬鹿にしている人は、肉体的な経験を人間がステップアップするための「通過儀礼」だと思っているんじゃないかと思う。ステップアップした人間になるためには肉体的な経験が必要だという考え方は、大勢の人々が大なり小なり共有していて、このかなり定着した考え方が『人生の親戚』にも反映されているのではないかと思いました。はしかやおたふく風邪のような病気や、セックスのような肉体の関門を通過して、人は成長する、みたいな感じで。
 

まり恵さんの素晴らしき日々

死ぬまで過酷な人生を送ってきたまり恵さんは、末期ガンで亡くなります。悲しみという人生の親戚につきまとわれたまり恵さんは、Vサインをした写真を遺してこの世を去りました。傍から見たら不幸なまり恵さんは、最期に勝利を収めたのです。いったいまり恵さんは悲しい人生を送ってきたのに、どうして最期に勝利できたのか?」という読者からの質問に、この小説は答えません。新潮文庫版の巻末解説の、河合隼雄さんの解釈が素晴らしい。
 

f:id:amaikahlua:20210523181755p:plain河合隼雄(1928~2007)

 問題に正面からぶつかり、それを解決することによる勝利とは異なる勝利をまり恵は経験したのだ。最初の頃は何にでも正面から当ってゆくような姿を見せたまり恵は、問題を解決したり解消したりするのではなく、それを背負うことによって味わう「悲しみ」を十全に知ることによって、勝利に導かれたのではないだろうか。
 「解決」の方法がわかったとき、人々はそれを取り入れて、自分も勝利しようとする。しかし、まり恵のVサインは、一人一人がそれなりに味わう「悲しみ」によってしか到達できない道を示していると考えられる。真似はできないのだ。(p.266)
 
多くの人々は悲しみに出くわしたとき、その悲しみから逃げようとしたり悲しみを解決しようとしたりします。しかしこの小説は、そうした反応とは違った悲しみとの上手い付き合い方を教えてくれる。悲しみという人生の親戚を受け止め、悲しみという人生の親戚を知ることによって、最後に笑うことができるのだ。宿命から逃げるのではなく、宿命と戦うのでもなく、宿命と知り合いになることが大事。なぜなら、宿命は身内なのですから。
 
『人生の親戚』の「後記にかえて」では、他人の人生を自分の話のように物語るのは暴力的だということが書いてあります。まり恵さんは人生の勝者になりましたが、なぜまり恵さんが勝利できたのかはまり恵さんの主観的な問題であり、読者にはよくわからない。だからまり恵さんが勝利した理由を他人が詮索するのは野暮であり、無理解というものでしょう。