かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

『夢幻廻廊』考察第一段階~マゾヒズムと社会~

今回から、ゲーム・文学・哲学・社会学などについて言及しながら、マゾヒズムについて考察していく。マゾヒズムと言うと、鞭でしばかれたり踵で踏まれたりして喜ぶ変態性欲を想起して、嫌な顔をされるかもしれない。しかし、私が追求したいのは人間の心に宿る「隷属への欲求」という意味でのマゾヒズムである。ブラックサイクのノベルゲーム『夢幻廻廊』では、隷属への欲求としてのマゾヒズムが、難解な物語を通して表現されている。

 

f:id:amaikahlua:20210530173753p:plain

『夢幻廻廊』
シナリオ:伊藤ヒロ、他
原画:椎咲雛樹
2005年9月16日発売
 

離脱と従属の永遠回帰

f:id:amaikahlua:20210530174019p:plain

『夢幻廻廊』の主人公・たろは、色彩を失った灰色の街で、孤独な学生生活を送っていた。たろは自分が生活する空間だけでなく、時間も灰色だと感じている。朝も昼も夜も、昨日も今日も、たろにとっては灰色なのだ。家族と言葉を交わしても生きた実感を得られず、大した苦痛は無いけれども寂しく薄ら寒い日常を、たろは過ごしていた。
 

f:id:amaikahlua:20210530174130p:plain

そんなたろにも、色彩と生きる実感を与えてくれる場所があった。それは、「お屋敷」だ。お屋敷には主人の環、四人の娘やメイドたちが住んでいた。たろはお屋敷とその住人に鮮烈な色彩を感じ、お屋敷に進んで従属する。たろは過去の記憶を失い、「かとる」と呼ばれる家畜として、お屋敷に奉仕する日々を送ることになる。『夢幻廻廊』は、家畜であるたろの日常を描いた「ペットライフアドベンチャー」である。
 

f:id:amaikahlua:20210530174343p:plain

たろは女装してメイドのような格好でお屋敷で働きつつ、お屋敷で娘たちから「いっぷ」と言う調教を受ける。たろは基本的にお屋敷に仕える従順な下僕なのだが、条件が揃うとお屋敷を脱出する場合がある。長女の薫子の決断で、お屋敷から逃げるよう促されたり。三女の祐美子と一緒に、お屋敷から駆け落ちしたり。たろのペットライフは、たまに唐突な終焉を迎える。
 

f:id:amaikahlua:20210530174511p:plain

しかし大抵の場合、たろは再びお屋敷に帰ってくる。なぜなら、たろにとってお屋敷の外の世界は灰色で薄ら寒い世界であり、所詮たろはお屋敷の外での孤独に耐えられないからだ。たろはお屋敷に隷属することを希求しており、お屋敷はたろが存在することを許してくれる。このゲームでは、お屋敷からの離脱と従属が繰り返される。何度も、繰り返し……。
 

「個」からの逃走

amaikahlua.hatenablog.com

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、近代人のマゾヒズムを究明した。フロムによれば、近代人は前個人的社会の絆から自由になったという。前近代的社会の人々は絆によって結び付けられており、その絆は人々を安定させ・かつ束縛していた。近代人は絆から解放されて自由になったものの、人々は孤独で不安になった。孤独で不安な人々は、何か権力のある存在に服従しようとする。自由から逃走し、隷属を希求すること。これがフロムの言うマゾヒズムである。
 
f:id:amaikahlua:20210530175028j:plainフロム(1900~1980)
(中略)おびえた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。もはやかれは自分自身をもちきれない。かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする。
 マゾヒズムはこの目標への一つの方法である。マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。このねらいは、個人が圧倒的に強いと感じる人物や力に服従しようとするマゾヒズム的努力のうちにはっきりあらわれる。*1
 
近代化によって隷属から解放され、自由になった代わりに不安になったのは、日本人の場合でも例外ではないだろう。昔の侍は主君のために命を懸けて戦ったが、明治時代になったら何のために生きたら善いのかがわからなくなった。埴谷雄高はこう語っている。
 

f:id:amaikahlua:20210304115349p:plain埴谷雄高(1909~1997)

 森鴎外も書いています。明治の文学者はみんな考えた。侍の出身者が多いんですよ。昔は簡単に主君のために死ぬと言ったけれど、主君というものがなくなったときに、自分はどうしたらいいのかという問題なんですよ。*2
 
『夢幻廻廊』のたろは、だれとも共有しないはっきりとした「個」を嫌がる。この「個」というのが何を意味しているのかは、もう簡単にわかるだろう。日本が近代化を推し進めることによってもたらされた個人的社会の「個」、それがたろが逃走しようとする「個」なのだ。
 

社会のアレゴリー

f:id:amaikahlua:20210530175536p:plain

『夢幻廻廊』でたろが隷属するお屋敷は、前近代的封建社会の象徴だと私は解釈している。お屋敷では主人やお嬢様、メイドのような役割が決められており、住人がその役割を上手く演じることが期待されている。このシステムは、武士や農民のような身分が決められていた封建時代を想起させる。武士は武士らしい役割を演じ、農民は農民らしい役割を演じ、お上に従う前近代的封建社会のようなシステムで『夢幻廻廊』のお屋敷は運営されているというのが私の考えである。
 
『夢幻廻廊』のお屋敷は「前近代的封建社会の象徴である一方、お屋敷の外の灰色の世界は「共同性が崩壊した近代以後の社会」の象徴だと解釈できるだろう。フロムの『自由からの逃走』には共同性が崩壊した近代社会について書いてあるし、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』には団地化によって日本社会の共同性が崩壊したことについて書いてある。共同性が無い社会も、社会学の研究対象になる一端の〈社会〉だと呼んでいいだろうと思う。たろが身を置いた灰色の世界は、共同性が崩壊した社会の薄ら寒さを象徴しているわけだ。
 
昔、とあるブログで、「『夢幻廻廊』のお屋敷は〈社会〉の象徴だ」という解釈を読んだことがある。この解釈は「間違った」解釈だとは思わないが、「解像度が荒い」解釈であろう。なぜなら、『夢幻廻廊』のお屋敷だけでなく、お屋敷の外の灰色の世界も、一応〈社会〉だと解釈できるからだ。むしろ、お屋敷の外の世界は、色彩を失った今日の社会の日常を、生々しく表現しているとすら言っていいだろう。だからお屋敷の内も外も〈社会〉であり、〈社会〉の制度を内と外で違うものとして考察する必要があるのだ。

*1:フロム(日高六郎訳)『自由からの逃走』、東京創元社、一九五一、一七〇頁。

*2:鶴見俊輔埴谷雄高』、講談社文芸文庫、二〇一六、二〇一頁。