かるあ学習帳

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『夢幻廻廊』考察第二段階~運命とは隣人~

私が好きなゲームキャラに、『夢幻廻廊』の志乃がいる。志乃は仕事ができない人で、とても辛い過去を背負っているのだが、いつまでも仕事ができないままなのに幸せになることができた人である。

 

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『夢幻廻廊』
シナリオ:伊藤ヒロ、他
原画:椎咲雛樹
2005年9月16日発売
 

怒られ侍の脱走

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志乃は、主人である環のお屋敷で働くメイドである。志乃は仕事ができる人間ではなく、無能な人間として描かれている。お屋敷の掃除を上手にこなすことができず、よく転んでひっくり返る。志乃は、この手の作品によく出てくる「ドジっ子メイド」キャラのように見える。しかし志乃には、非常に複雑な事情があったのだ。
 
志乃の恋人は多額の借金を背負い、志乃をお屋敷に売り飛ばした。志乃は売り飛ばされたお屋敷で、メイドとして働くことになった。しかも志乃はお屋敷の意向により、左手の握力を弱くされた。そのため志乃は体のバランスを保てなくなり、仕事を上手くこなせなくなったのだ。なぜお屋敷は、志乃に無能な人間の役回りを課したのだろうか?
 

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江戸時代には、「怒られ侍」という役回りが存在したらしい。江戸時代の殿様の子供(若様)は、身分が高いので、大人たちは気軽に怒鳴ったり殴ったりすることができない。そこで登場するのが「怒られ侍」である。怒られ侍は若様の前で失態を演じ、「若様の教育のために」怒られる。怒られ侍が怒鳴られたり殴られたりしているのを横目で見ながら、若様はしていいこととしてはいけないことを学ぶのである。四人のお嬢様やヒト家畜が住むお屋敷に売り飛ばされた志乃は、お屋敷の「怒られ侍」として働いていたのだ!*1
 

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お屋敷の怒られ侍を演じるのに嫌気が差した志乃は、主人公・たろを連れてお屋敷から脱走することを決心する。志乃はたろの事を邪険に扱っていたが、内心寂しい思いをしていた。そのため、寂しい記憶を持つ者同士であるたろと志乃は、お屋敷の外の世界へ脱出することになった。
 

怒られ侍の帰還

ここまでの話でも充分に面白いと思うのだが、本当に重要なのはこれからの展開である。志乃はお屋敷の外の世界に出ても、お屋敷に対する恐怖心から逃れることができなかった。志乃はお屋敷で長らく働いているうちに、時と場合に関わらず、お屋敷に身も心も支配されていたのである。志乃は引きこもりのようになり、自宅で身の上話を延々とつぶやくようになる。
 

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たろ「もういいですよ。だれも、志乃さんを責めたりしません」
志乃「だっ、だけどっ……だけどどうして、私は、私はこんなに不幸なの!
ああ、それを叫べるだけで、あなたは幸せなのに……。
だけどそれは、言葉にしても意味のないことなのです。
 

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志乃は明らかに苦労人であり、不幸な人である。そんな志乃の嘆きを、たろは「言葉にしても意味のないこと」だと言っている。いやいや、志乃が背負ってきた過去は充分傾聴に値する歴史じゃないかと思う人もいるだろう。しかし、この『夢幻廻廊』というゲームには、「自分の居場所は、誰かの役に立つことで得られる」というテーゼがある。どんなに訳ありの人でも、誰かの役に立とうとせずに身の上話をしているだけでは、自分の居場所を広げることができないのだ。
 

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お屋敷で働くことを宿命付けられていたたろと志乃は、結局お屋敷に戻った。そして志乃は、再びお屋敷で怒られ侍を演じることになる。しかし志乃は、怒られ侍を演じることを、もう嫌だと思わない。お屋敷に対する隷属の欲求=マゾヒズムを自覚した志乃は、自ら嬉々として道化を演じることによって、怒られ侍として幸福に生きることに決めたのである。志乃は怒られ侍としてお屋敷の「役に立つ」ことによって、自分の居場所を得たのだった。
 

運命とは隣人

志乃は数奇な運命によって怒られ侍として働くことになり、最終的には自分の運命を受け入れるに至った。一旦お屋敷から脱出して運命を変えようと思った志乃だったが、志乃は「運命を変える」のではなく「運命と共に生きる」ことを選んだのだ。
 
「運命を変える」「運命は自分で切り開く」とかいう能動的な考え方がある。こうした考え方は、運命を征服するサディストのような考え方であろう。しかし夢幻廻廊』はマゾヒズムを追求するゲームだから、「運命を変える」のではなく「運命と共に生きる」ことを善しとする。『夢幻廻廊』はブラック労働やハラスメントを肯定していると思われるかもしれないが(その批判についてはいずれ検討するかもしれない)、志乃の結末は「運命を受け入れ、満足して生きる」ことの一例として一考に値するだろう。
 

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環「気球に乗っているとね、自分を運ぶ風の強さに、気がつかないのですって」
たろ「とても速い風なのに、ですか?」
環「ええ。とても速い風なのに」
環「なぜなら、同じスピードで進んでしまうからよ」
ああ、
なるほど、と僕は手を叩きました。
環「運命も同じ。人の人生にとって、運命とは、どこかはるか彼方からひきつける何かではないわ。常に、人の傍らにあるものなの
たろ「一緒に歩いているから、気がつかない?」
環「そう。影のように、いつも同じスピードで」
奥様は、テーブルからお紅茶を取り上げると、一口、口に含まれました。
環「運命とは隣人。大切になさい
たろ「はい。奥様
 
大江健三郎の『人生の親戚』という小説がある。この小説では、悲しみは人生の「親戚」であるとされていて、悲しみから逃げたり悲しみを克服したりするのではなく、悲しみという親戚と上手く付き合っていく生き方が描かれている。『夢幻廻廊』では、運命が人生の親戚である。運命から逃げるのではなく、運命を変えるのでもなく、運命という隣人と共に生きる。その生き方を心から肯定できるならば、マゾヒストの「天国」はすぐそこにあるはずだ。

*1:江戸時代の侍が具体例として挙げられている所からも、『夢幻廻廊』のお屋敷は前近代的封建社会を想起させる