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『大逆転裁判1&2』感想と考察~胚胎された「革命」について~

7月29日に、SWITCH/PS4/STEAM用ゲームソフト大逆転裁判1&2』が発売される。『大逆転裁判1&2』はもともと3DS向けに開発されたソフトであり、私は既に3DSでプレイ済みだ。おそらく『大逆転裁判1&2』は、今回の移植を機に再評価されるだろう。良い機会なので、『大逆転裁判1&2』の感想と考察を書いておこう。

 

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大逆転裁判1&2 成歩堂龍ノ介の冒険と覚悟』
 

無実の主人公と罪深い世界

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大逆転裁判1』の第一話では、主人公・成歩堂龍ノ介に開幕早々災難が降りかかる。龍ノ介は医学博士のワトソンを殺害した容疑で、無実の罪を着せられる。物語の舞台は明治時代の日本。日本は強国イギリスの顔色を窺っており、法廷の大人たちは事件の被害者や容疑者を出したイギリスに追従する。第一話の真犯人は結局イギリス人女性なのだが、イギリス人女性は領事裁判権により、日本で裁かれずに終わる。
 

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大逆転裁判1』の第一話は、爽快感が無い結末で評判が悪い。確かにその通りである。なにせ、せっかく真犯人のイギリス人女性を追い詰めてスッキリしたかと思ったら、領事裁判権によってこれまでの裁判自体が茶番になってしまうとかいう、骨折り感のあるオチだからである。
 
しかし、この第一話は胸糞悪い話であるものの、複数の「変革するべき理不尽」を提示したという点で、重要な意味を持っていると思う。龍ノ介は被害者を殺した覚えが無いのに、殺人の容疑をかけられた。裁判では真実を追求するべきなのに、大人たちはイギリスに服従している。イギリス人女性が真犯人として特定されたのに、彼女は領事裁判権で判決を免れた。第一話の龍ノ介には罪が無い。おかしいのは、龍ノ介にかけられた無実の罪と、日英の外交関係と、領事裁判権である。
 

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龍ノ介たちは、イギリスに渡って世界を変える冒険をする事になる。自分はおかしくないのに世界がおかしいのならば、世界を変える必要がある。まあ龍ノ介の場合、世界を変えるために自分から冒険し、自分が覚悟する必要もあったんだけどね。
 

自分ではなく世界を変える

フランスの哲学者デカルトは、運命や世界の秩序を変えるよりも、自分を変えるべきだと考える人物だった。最善を尽くしても変えられない自分の外側の出来事は諦めて、自分を変えるべきだとデカルトは考えた。
 

f:id:amaikahlua:20210620155121p:plainルネ・デカルト(1596~1650)

 わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。*1
 
絶対的に無理な変革を望まず、変革できる範囲内の事象を変革する。これは賢明な考えだ。その一方で、最善を尽くしたら変革できる事件を簡単に諦めるのは、良くないのではないだろうか。そして、不幸な運命によって自分に無実の罪が着せられた時は、運命に全力で立ち向かうべきだろう。大逆転裁判1&2』は、最善を尽くして自他の運命と世界の秩序を変えた弁護士たちの物語である。
 

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弁護士は、理不尽な世界に苦しめられている無実の人々を救済しうる職業である。自分は悪くないのに世界に苦しめられている人々を、弁護士は助ける。無実の人々が「自分ではなく世界を変える」のを手伝うために、弁護士は戦う。逆転裁判に登場する被告人は基本的に罪の無い人たちなので、逆転裁判という作品では大なり小なり罪深い世界を変えるための「革命」が行われる事になる。それは『大逆転裁判1&2』の場合でも例外ではない。*2
 
「世界ではなく自分を変える」というのは穏健でお利口な考え方だが、弁護士の存在意義を否定しているような響きがある。なぜなら弁護士とは、「自分ではなく世界を変える」のに貢献する職業なのだから。
 

冒険と覚悟と革命

amaikahlua.hatenablog.com

今のところ、逆転裁判本編は『逆転裁判6』で完結している。そして、物語の舞台が過去に遡った『大逆転裁判1&2』も、綺麗に完結した作品である。『逆転裁判6』のシナリオを主導したのは山﨑Dであり、『大逆転裁判1&2』のシナリオを担当したのは巧舟なのだが、逆転裁判6』と『大逆転裁判1&2』は「冒険と覚悟と革命」を描いたという点で共通している。
 
逆転裁判6では成歩堂たちがクライン王国という架空の国家を冒険し、弁護罪に問われる覚悟で裁判に挑む。そして『逆転裁判6のラストでは、クライン王国の体制を変革する大革命が起こる。『大逆転裁判1&2』も、副題の通り龍ノ介の冒険と覚悟の物語である。そして『大逆転裁判1&2』のラストでも、イギリスと日本の司法が改善される。脚本家が違う『逆転裁判6と『大逆転裁判1&2』だが、いずれも「冒険と覚悟と革命」の物語だと言えよう。
 

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なぜ、作者が異なる『逆転裁判6』と『大逆転裁判1&2』は、同じような主題に辿り着いたのか。おそらく、逆転裁判という作品自体が、必然的に「冒険と覚悟と革命」を産み落とす宿命を孕んでいたのではないだろうか。逆転裁判では、弁護士が危険を冒して無実の被告人を無罪にする。逆転裁判で主に描かれるのは、冤罪を生み出した罪深い世界を変革するための戦いである。逆転裁判というゲームのコンセプトを追求していくと、究極的には「冒険と覚悟と革命」に行き着くのではないだろうか。
 
〈註〉
私が前回まで考察した『夢幻廻廊』では、近代化した日本の薄ら寒さや受動的な生が描かれた。一方『大逆転裁判1&2』は、近代化した日本人による能動的な冒険活劇である。そのため、この記事の内容は、私の『夢幻廻廊』考察と明らかに「ムジュン」している。だが、私はそのムジュンを承知で書いた。『夢幻廻廊』と『大逆転裁判1&2』の間に生じるムジュンは、論理のムジュンと言うよりは、生き方の違いによる齟齬であろう。自分の使命がわからず何かにすがっていたい人は『夢幻廻廊』のように生きればいいし、使命感に燃えて世界の不条理を覆したい人は『大逆転裁判1&2』のように生きればいいのだ。
 

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…え?このセリフをどう考えればいいのかって?その件については次回考えようじゃないか。

*1:デカルト谷川多佳子訳)『方法序説』、岩波文庫、1997,pp.37-38

*2:とは言え、『大逆転裁判1&2』は従来の逆転裁判シリーズの「パターン外し」にかなり力を入れているという側面がある