本稿では『終ノ空』琴美ENDの結末における「 有限のなかの無限」について考察する。恥ずかしながら、 私は琴美ENDのラストを十分に理解していない。しかし「 有限のなかの無限」については語れる自信があるので、 語ることにしよう。
終わりなき日常を生きろ
琴美「行人」
行人「は、はい」
琴美「こんな映画知ってる?」
行人「…」
行人「どんな、映画だよ…」
琴美「飛行機に突然トラブルがあってね」
琴美「それで、その飛行機、無人島に不時着するの…」
行人「それで…」
琴美「とりあえず、何人か助かるんだ」
琴美「でね、無線とかで、助け呼ぶの」
行人「…」
行人「当然だな」
琴美「でも、すぐ向かいますとかいって、救助隊は全然こないの」
琴美「なんか、明日には、あと数時間後には、 あと何十分後にはとか言って…」
琴美「ずっと来ないの」
琴美「そのうち、一人が気がつきだすの…」
琴美「自分たちは既に死んでいるのではないかと…」
琴美「ここは地獄であり」
琴美「永久に、希望と絶望をくり返さなければならないのではと… 」
琴美「その時、また無線が入って…」
琴美「もう、すぐに助けに向かいます…ってね」
行人「ふふふふ、発狂もんだ…」
琴美が語る挿話は、とても不吉である。琴美ENDの行人は、 無人島の映画と同じように地獄的な状況に置かれているのではない かと推測できる。行人は、 7月21日の教室から9月1日の新学期の教室へと一瞬で転移した 。行人が一瞬で転移した新学期の教室は、 何か映画の無人島のような永久の地獄を思わせる。 琴美ENDの行人は、終わらない日常という永久の地獄で、 希望と絶望をくり返す破目になりそうだ。
新学期の始まりと共に、 行人と琴美は永久に一緒の生活をすることになるだろう。 行人と琴美がこれから過ごす日常では、 永久に希望と絶望が繰り返されるだろう。行人と琴美はこれから、 永久に呪われた生と祝福された生を生きるだろう。いや、 もしかしたら行人と琴美は、死後の地獄に転移したのだろうか? しかし行人とずっと一緒の生活は、 琴美が望んだ幸福の形だったはずだ。
琴美「新学期が始まったから」
琴美「一緒だね…」
琴美「ずっと」
琴美「ずっと、ずーと」
琴美「一緒だよ」
琴美「有限のなかの無限のうちに…」
彩名「無限のなかの有限のうちに…」*1
琴美「ここで…」
彩名「ここ以外で…」
琴美「この世界は、それまでの世界?」
彩名「それまでの世界は、この世界?」
琴美「ずっと」
彩名「ずっと、ずっと」
琴美「永久に…」
彩名「無限に…」
琴美「一緒」
琴美「だよ」
琴美「今日から、新学期だから、ここで、行人とずっと一緒だよ」
われわれの生は終わりをもたない
琴美ENDの結末で意識されているのは、 おそらく前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』 の次の一節であろう。
ウィトゲンシュタイン(1889~1951)
六・四三一一
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、 現在に生きる者は永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、 終わりをもたない。*2
ウィトゲンシュタインは「人は死を体験しない」「 生には終わりがない」と語っている。 これは非常に奇妙な説だと思う読者がおられよう。だって、 私たち人間はみないずれ死ぬ定めではないか。 そして私たち人間は、生の終わりに死を体験するはずではないか。 ウィトゲンシュタインは、 一体どうしてこんなに変なことを言っているのだろうか? 元京都大学教授の大澤真幸は、『論理哲学論考』 を次のように解読した。
大澤真幸(1958~)
「われわれの生は終わりをもたない」と。この命題は、 人間という動物が死なないという非科学的なことを主張しているわ けでもなければ、 霊魂は不死だという宗教的なことを述べているわけでもない。 生の内側から、終わり(死)に到達することはできない、 と述べているのである。終わりに辿り着いたときには、 もはや生ではないからだ。そうだとすれば、 生には終わりが属していない、生には終わりがない、 と結論せざるをえない。死は、生との関係で、いわば「 鍵がかかっている部屋」にあたる。 人はどうしてもそこに入ることはできない。*3
これでウィトゲンシュタインの死生観がおわかり頂けたのではない だろうか。私たち人間は、生きている限り死という「部屋」 の内部に入ることができない。 生から死の内部にアクセスすることができないので、 生者にとって死は生から隔絶された世界である。 だからウィトゲンシュタインは「死は人生のできごとではない」 と言っているのだ。終わり=死は生の内部に存在しないので、 生には終わりがない、とも言える。
無限の生、無限の世界
7月20日よりも前の琴美は、世界の時間的な終わりに反対し、 世界の空間的な限界も否定していた。 琴美にとって世界は永久に滅亡しない(で欲しい)し、 永遠に果てしない広がりのある空間なのだった。 そして琴美は自らの死も拒絶したし、 永遠の広がりの中の有限な点として生きていた。
世界が…、
終わる…。
…。
20日に…。
…。
ふん。
終わってたまるもんですか…。
こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
わたしには、やりたいこと、 やらなきゃいけないことがたくさんある。
たくさん…。
たくさん、あるんだ。
だから、
世界は終わらない。
終わらせない。
行人「大きな坂?」
琴美「うん、学校に行く途中の…」
行人「あれって、そんなに大きかったか?」
琴美「今はそうでもない…でもあの時は」
琴美「子供の時はものすごく大きく感じた」
琴美「これは世界の果ての壁なんだって思ってた」
琴美「これを上り切ったら世界の果てなんだって」
琴美「でも、違った…」
琴美「その坂を上り切ったら」
琴美「その先にもここと同じ街があった」
琴美「その先にも坂があって、その先にも…」
琴美「永遠に街が続いていた」
琴美「世界に果てはないんだって、その時気が付いたの…」
7月20日よりも前の琴美の思想は、『論理哲学論考』 と符号する。死を拒絶した琴美の態度は、「ひとは死を体験しない」 という『論考』の命題と共鳴するだろう。「永遠に街は続き、 世界に果てはない」という琴美の世界観は、「 視野のうちに視野の限界は現れない」という『論考』 の命題に対応するだろう。琴美の生は死を斥けたし、 琴美の世界は無限に存続すると思われたし、 琴美は無限に広がる世界に内在していたのである。
ヒトの無限、神の有限
琴美の生は死を「鍵のかかる部屋」のように排斥したし、 琴美の日常は終わりなく無限に続き、 琴美の内在する世界は無限に広がっているように見えた。 そして琴美は新学期が始まっても、 行人と一緒に無限の日常を送ろうとする。しかし、 琴美のような無限の世界を「有限の全体」 として把握できる特権的な視座が存在する。それは、いわゆる「 神の視点(メタ視点)」である。 世界をメタ的に俯瞰する神の視点は、 人間にとって無限に思える世界を有限な世界として捉えることがで きる。『論理哲学論考』のバートランド・ラッセルの序文で、 ラッセルは神の視点について言及している。
ラッセル(1872~1970)
高みから見渡せる至高の存在にとってはわれわれの世界も限界をも ったものとなるのでしょうが、われわれにとっては、 たとえそれが有限のものであろうとも、 世界は外部をもちえないがゆえに、限界ももちえないのです。 ウィトゲンシュタインが用いるのは、視野のアナロジーです。 われわれの視野は外部をもちえず、まさにそれゆえに、 われわれにとっては限界をもちません。*4
世界や私たちの生は人間の視点から観測すると無限であり、 神の視点から観測すると有限である。 琴美は世界や自らの生を基本的に無限として捉えていて、 これは非常に素朴で人間的な物の見方である。 しかし琴美の世界や生には、 神の視点から観測すると限界が存在する。 かりに琴美の世界と生が7月20日に終末を迎えていて、 9月1日の琴美が死後の地獄に転移していても、 琴美のスタンスはさほど変わらないだろう。 なぜなら琴美は地獄でも相変わらず行人と一緒に無限の日常を送ろ うとしていて、 その日常は神の視点からすればおそらく有限であるということは、 変わっていないのだから。
これで「有限のなかの無限のうちに…」 という琴美のセリフは解明される。言葉を補うと、「 神の視点から観測するとおそらく〈有限〉な世界の内部で、 一緒に〈無限〉の日常を送ろう」、 と琴美は行人に告げているのであろう。
……あー疲れた。
次回からは逆転裁判シリーズの考察を終焉に導こうと思いますw
昨年末の『終ノ空』考察解説まとめをアップデートしたので、 リンク貼っておきますね。