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『光輪の超魔神フーパ』批評~「お取り寄せ時代」への提言~

『光輪の超魔神フーパ(以下『光輪の超魔神』)は、ポケモン映画第18作品です。この映画は、グラードンや黒いレックウザみたいな伝説のポケモンが大量に出現する「伝説祭り」で有名な映画です。正直、伝説のポケモンをいっぱい集めてお茶を濁してるだけのお手軽映画だろうと内心思って観たんだけど(笑)、観てみたらテーマが明快ですごく良かったです。欲しいものを気軽にお取り寄せできる現代社会に一石を投じる映画だと思いましたね。
 

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『光輪の超魔神フーパ

監督:湯山邦彦
脚本:冨岡淳広
(C)2015 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆フーパの設定に制作者の才能を感じた。良作)
 

光と影の激突

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この映画では、幻のポケモンフーパと「影フーパの戦いが描かれます。フーパと「影フーパ」は、元々一つに統合されたポケモンでした。フーパと「影フーパが統合されると手に負えないくらい凶暴なポケモンになってしまうため、「影フーパ」はツボの中に封印されていました。しかし操られたニャースがツボの封印を解き、封印されていた「影フーパは復活。フーパと悪意に満ちた「影フーパはお互いに伝説のポケモンを召喚し、「厨ポケ」同士のバトルを繰り広げます。
 
私が観察した限り、冨岡淳広脚本のポケモン映画では「二元論」がテーマになっているように思います。『光輪の超魔神』ではフーパと「影フーパ」の対決が描かれますが、この対決では「光と影」の二元論が発生していると解釈できるでしょう。フーパと「影フーパ」は結局和解し、円満な形で統合されます。ですから『光輪の超魔神』は、光と影の対立を止揚した作品だといえます。前回批評した『ボルケニオンと機巧のマギアナ』では「善良なポケモンと邪悪な人間」の二元論が発生していて、ラストでその二元論が解体されていました。
 
冨岡さんが脚本を担当した長編ポケモン映画は今のところ『光輪の超魔神』『ボルケニオン』『ココ』の三つですが、この三つは二元論が鍵になっている気がしますね。サンプルが少ないので断言はできませんが、冨岡脚本ポケモン映画は二元論という観点から生暖かく見守っていくといいんじゃないのかなあ、と思います。
 

取り寄せできても、ワープはできない

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『光輪の超魔神』のフーパには、とても面白い特徴があります。フーパはリング(光の輪)を使って、遠くに存在する物体や生物をこちら側に「お取り寄せ」する能力を持ちます。遠くで他人が食べている食べ物を奪ったり、人里離れた場所に住む伝説のポケモンを召喚したりできます。しかしフーパ自身は、リングをくぐって別の場所にワープすることができません。この遠くのものをお取り寄せすることはできても、自分は別の場所にワープすることができない」というフーパの設定は天才的な発明だと思ったし、すごく良いと思う。
 
「遠くのものをお取り寄せすることはできても、自分は別の場所にワープすることができない」という設定から、私はインターネットショッピングを連想しました。
 

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例えば楽天というショッピングサイトでは、肉屋や魚屋が食べ物を出品していたり、本屋が本を出品していたりしていて、色んなお店から商品をお取り寄せすることができます。しかし私たちは楽天で遠くから商品をお取り寄せすることはできても、遠くのお店に自分の肉体をワープさせることはできない。ですから「遠くのものをお取り寄せすることはできても、自分は別の場所にワープすることができない」という非対称な関係は、フーパとインターネットショッピングで共通していると私は思ったんですね。
 
フーパの能力とインターネットショッピングは完全に一致しているわけではないんだけど、「別の場所にワープできない」フーパの未熟さは、現代社会や現代人の未熟さに通底するものがあると思いました。現代は欲しいものが気軽にお取り寄せできる時代ではあるものの、自分を異空間にひとっ飛びで転送できるくらいテクノロジーが発達しているわけじゃない。また、現代人は向こう側からお取り寄せすることに慣れていて、こちら側から向こう側に自力で移動する主体性が退化しがちだと思う。
 

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脚本家の冨岡さんはフーパというポケモンの未熟さを通じて、現代社会や現代人を軽く風刺しているんじゃないかな、と思いました。フーパは他者と共生したいと強く願い、結局自力でワープできるようになります。『光輪の超魔神』では、お取り寄せして「持ってくる」のではなく成長した自分に「なる」ことが称揚されていると思います。
 

「持ってくる」のではなく「なる」という生き方

欲しいものをお取り寄せすることによって自分の欲望を充足させるフーパに対して、サトシが語った台詞が素晴らしかった。
 

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サトシ「ポケモンマスターはどっからか持ってくるんじゃなくて、自分がなるものだからさ!
ピカチュウ「ピ~カチュウ」
サトシ「自分でがんばるんだ!
 
サトシが目指すポケモンマスターが具体的にはどういう人間なのかは私にはよくわからないんだけども(笑)、サトシはポケモンマスターに主体的に「なろう」と思っているんですね。『光輪の超魔神』は、ポケモンマスターを目指すサトシという人間像を「お取り寄せ時代」を超克するためのモラルとして提示した映画だと思う。欲しいものを気軽にお取り寄せできる現代では、自分からなりたいものになろうとするサトシの生き方が人々の模範として機能すると思います。
 
改めて主題歌「めざせポケモンマスター」を聴いてみると、この曲の歌詞は能動的な言葉に満ちているんだよね。サトシはたとえ火の中水の中、ポケモンをゲットするために自分から進んで冒険しようとする。そしてサトシはポケモンマスターになりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやると決意している。サトシは自分から身を乗り出してなろう、やろうとするんだけど、そういう前のめりな生き方は現代では見失われがちだと思うんだよな。だからこそポケモンマスターに「なる」という決意が改めて重要になってくるわけです。
 

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めざせポケモンマスター」という原点に回帰しつつ、「めざせポケモンマスター」という言葉に新しい解釈を付け加える、とても良い映画を観させて貰ったなあと思います。光輪の超魔神』は良作ですので、興味がある人は是非観てみて下さい。