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『破壊の繭とディアンシー』批評~関係性のダイナミズム~

破壊の繭とディアンシー(以下『破壊の繭』)は、ポケモン映画第17作品です。『破壊の繭』は、長らくポケモン映画の脚本を務めてきた園田英樹さん最後の長編ポケモン映画です。結論から先に言うと、この映画は非常に優秀な群像劇で、園田さんは最後に凄く良い仕事をしたなあと思いました。
 

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監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2014 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★★複雑な関係性を構築する脚本が非常に優れている)
 

超絶技巧のキャラ配置

この映画は、キャラ配置が凄いことになっています。端的に言うと、善玉と悪玉の戦いを描きつつ、善玉の内部における関係性の変化を描き、悪玉の内部における力関係の拮抗も描くという、凄い技が使われていると思いました。
 
・善玉サイド:「上下関係」から「水平関係」へ

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この映画の主役は、幻のポケモンディアンシーです。ディアンシーは口調や仕草、何より声優の松本まりかさんによる声がメチャメチャかわいいのです。ディアンシーは野生ポケモンが生息するダイヤモンド鉱国のお姫様なのですが、鉱国は存亡の危機に瀕していました。そこでディアンシーは伝説のポケモン・ゼルネアスに会いに行き、ゼルネアスから力を貰って鉱国を救うための旅に出ることになります。この映画は、ディアンシーの冒険と成長の物語です。
 
ディアンシーは旅の途中でサトシ一行に出会い、サトシ達の協力を得てゼルネアスを探しに行きます。この映画の良くできているところは、ディアンシーの冒険の一部始終を描いた作品なのに、サトシ達人間がふんだんに活躍しているところだと思います。この映画はダイヤモンド鉱国の衰退という野生ポケモンの内部事情を解決する作品なので、下手をするとポケモン主体で人間が活躍しづらい映画になる恐れがあったと思う。でも、ファンに酷評された『キュレムVS聖剣士ケルディオ』とは違って(笑)、この映画では人間がちゃんと活躍するんです。
 

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ディアンシーでは、わたくしは、みなさんがわたくしの友達になることを許します!
 
ディアンシーはお姫様なので、サトシ達が自分と一緒に旅をしたり、友達になったりすることを、いちいち「許します」と言います。ディアンシーはダイヤモンド鉱国の姫君であるだけでなく、サトシ達の行動を認可する主人も演じます。一方、サトシ達はディアンシーの手を引き、ディアンシーとの対等な友情関係を育みます。ディアンシーとサトシ達の間では、「主人と臣下」の上下関係を徐々に「友達同士」の水平関係にする力学が発生していると思います。
 
・悪玉サイド:拮抗する三組の悪党

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この映画に登場する悪役は、とても面白いです。この映画には、マリリン・フレイム、ニンジャ・ライオット、ティール父娘の三組の悪党が登場します。三組の悪党はそれぞれにディアンシーを捕獲しようと企んでいて、悪党の勢力が三国志みたいに拮抗しています。お馴染みのムサシ・コジロウ・ニャースも、もちろん登場します。しかしムサシ・コジロウ・ニャースは強力な三組の悪党の抗争に入り込めなくて、物語の追放領域に置かれています。
 

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さらに興味深いことに、三組の悪党が所有しているポケモンは、いわゆる「御三家」でタイプ相性が三すくみになっているんです。マリリンのポケモンはほのお・エスパータイプマフォクシーライオットのポケモンはみず・あくタイプのゲッコウガティールのポケモンはくさ・かくとうタイプブリガロン三組の悪党は力量が拮抗していて、さらに所有するポケモンの相性がジャンケンのように循環しているんです。で、それに添え物として(笑)ムサシ・コジロウ・ニャースが添えられているという構図が出来上がっているんですな
 
……では、ここまでの要点をまとめます。この映画では、ディアンシーとサトシ達が善玉サイドに配置され、三組の悪党とムサシ達が悪玉サイドに配置されています。善玉サイドと悪玉サイドは、当然のことながら対立しています。それに加えて、善玉サイドの内部ではディアンシーとサトシ達の間で上下関係が少しずつ水平化している。そして、悪玉サイドの内部では三組の悪党の力関係が拮抗していて、ムサシ達は添えるだけです。いやあ、これは凄い構図です。
 

高階の破壊と再生

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非常に手の込んだキャラ配置に成功している時点で、この映画は及第点の出来だと思います。しかしこの映画は、終盤になるとさらに凄いことになるんです。ディアンシーとサトシ達は「オルアースの森」を訪れますが、森の内部で善玉サイドと悪玉サイドが入り乱れる大混戦が勃発。勃発した大混戦によって眠りから目覚めた伝説のポケモンイベルタルは、ビームを発射してあらゆるものを石にしてしまいます。
 

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イベルタルは破壊を司る神で、植物を一瞬で枯渇させ、人間やポケモンを無差別に石化させます。悪玉サイドの三悪党やムサシ達、さらに善玉サイドのピカチュウすらも石になってしまいます。私はこの豪快な大破壊に唖然としてしました。この映画は善玉と悪玉、そして善玉の内部と悪玉の内部におけるキャラを丁寧に配置してきました。しかし作中で丁寧に描かれてきたキャラ配置も、破壊の前では皆平等。みんな一様に石になってしまうんです。みんな石になってしまえば、立場の違いも均質化します。
 
イベルタルはあらゆる生命を枯渇させる破壊の神なのですが、イベルタルの大破壊にはちゃんとした意味があるんです。イベルタルは生命を破壊しますが、作中では破壊された生命が再生することが期待されている節があります。ですからイベルタルの大破壊は自然環境にとって絶対の悪ではなく、自然環境が再生する予兆という意味も備わっています。実際、イベルタルが破壊した自然は、創造の神ゼルネアスの力によって再生しました。死と生、破壊と創造は対立する概念ではなく、一続きのプロセスとして繋がっているというわけですな。
 

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ダイイ「イベルタルが大破壊を起こすのは、森の再生能力をよびさますためだとも言われております
シトロン「大破壊も、自然の摂理の一つなのかもしれないってことですね
サトシ「自然の摂理?」
シトロン「生命の誕生とか死とか、そういう自然界のおきてみたいなものです」
 
ゼルネアスはイベルタルの暴走を鎮圧し、枯渇した生命を再生させます。イベルタルの破壊の前では皆平等ですが、ゼルネアスの再生の前でも皆平等。この映画の終盤では、丁寧に配置されてきた善玉悪玉が自然の摂理によって平等に破壊され、平等に再生するプロセスが描かれています。自然の摂理による破壊と再生は、善悪の対立を包括する高階の現象だということなのでしょう。まず初めに複雑な善と悪の模様を描いた後で、善悪を超越した破壊と再生を描く。実に巧妙な脚本だよね。
 

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ゼルネアスは自然の摂理を守るために、この映画のラストで美しい樹に変化して眠りに就くことになりますポケモン映画では「自己犠牲からの復活」が美しく描かれてきた伝統がありますが、ゼルネアスが樹になったのも自己犠牲ですよね。また、園田英樹さんは『セレビィ 時を超えた遭遇』『水の都の護神』などのポケモン映画で「ポケモンの死」を描いてきましたが、『破壊の繭』でもゼルネアスをある意味殺しましたね(笑)。そもそもイベルタルの大破壊で森の生命全体が一旦死滅したので、園田さん最後に大量虐殺したなあと思うw
 
ポケモン映画第4作『セレビィ 時を超えた遭遇』では、『破壊の繭』と同じように自然環境が濃密に描かれました。『セレビィで主に描かれたのは「自然を保護する善玉VS自然を破壊する悪玉」の対立で、この対立はかなりシンプルな二項対立だったと思います。一方破壊の繭』では「善玉と悪玉の対立を超越した、破壊と再生のエコシステム」が描かれていて、物語構造が『セレビィの比にならないくらい高度なものになっている。これは長年ポケモン映画の脚本を務めてきた園田さんの円熟であり、総決算だったと言えるでしょう。
 

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この納豆ミサイルは、ポケモンらしくなくて面白かった
……私は初めて『破壊の繭』を観終わった時、「これは凄い映画を観てしまった」という、大きな充実感を得ました。でも、『破壊の繭』は凄い映画だと思ったものの、いざ言語化しようとするとどう褒めればいいのかよくわからなかった。長らく考えた結果、この映画の核心は台詞回しや作画じゃなくて、脚本によって構築された「ダイナミックに脈動する関係性」なんじゃないかと思いました。園田さんの脚本は複雑な善と悪の模様と高階のエコシステムを描いていて、巧妙な脚本が構築した「関係性」が私には凄く面白かったんだと思います。