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『ビクティニと白き英雄レシラム』批評~現実という大地を生きろ~

ビクティニと白き英雄レシラム』(以下『白き英雄』)は、ポケモン映画第14作品です。この映画では「海」と「空」と「大地」に象徴的な意味が付与されていると思いました。なお、ビクティニと白き英雄レシラム』は『ビクティニと黒き英雄ゼクロム』と同日公開された作品で、両者は内容が一部異なります。本当は『白き英雄』と『黒き英雄』の違いについて考察した方が良いのかもしれませんが、私にはそこまで考察するガッツがありませぬ…。『白き英雄』の批評だけで許してクレメンス。

 

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ビクティニと白き英雄レシラム』
監督:湯山邦彦
脚本:園田英樹
(C)2011 ピカチュウプロジェクト
おすすめ度:★★★★☆思想を海と空と大地に投影する脚本が素晴らしい)
 

「正義VS正義」の戦い

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『白き英雄』には、伝説のポケモンレシラムとゼクロムが登場します。レシラムとゼクロムは、1000年以上昔に「大地の民の国」の戦争に加担したポケモンです。大地の民の国には、「真実の勇者」と「理想の勇者」と呼ばれる双子の王子が存在しました。レシラムは真実の勇者に、ゼクロムは理想の勇者に味方しました。やがて国の行方を巡って、「レシラムと真実の勇者VSゼクロムと理想の勇者」の戦争が勃発します。ここで重要なのは、双子の王子はそれぞれ、知恵と勇気を兼ね備えた立派な男だったということです。双子の王子は相反する正義を持っていて、正義と正義がぶつかり合うことによって、戦争が起きたのです。
 
レシラムとゼクロムは長い間封印されていましたが、悠久の時を経て現代に復活します。『白き英雄』ではレシラムがサトシの味方になり、ゼクロムがドレッドという青年の味方になります。ドレッドは大地の民の末裔で、大昔の「理想の勇者」のように崇高な理想を持っていました。ドレッドはゼクロムの力を借りて大地の民の国を再建しようとしますが、ドレッドの理想は暴走します。サトシはレシラムの力を借り、ドレッドの暴走を阻止します。
 

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ドレッドは「行き過ぎた理想を持った男」として描かれており、彼に悪意はありません。『白き英雄』では正義の反対は別の正義、サトシの正義がドレッドの正義に戦いを挑みます。セレビィ 時を超えた遭遇』『ボルケニオンと機巧のマギアナ』のような「善VS悪の戦い」ではなく、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』『キュレムVS聖剣士ケルディオのような悪役不在の冒険譚とも異なる。『白き英雄』では、純粋な正義漢同士の対決が長大な時を経て反復されるのです。
 

テン年代の想像力

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幻のポケモンビクティニは1000年以上前、大地の民の国王に力を貸しました。国王はビクティニの力を集約させるために、城の周りに結界を張りました。ビクティニは1000年以上もの間、結界の外に出られずに暮らしていました。国王が決めた限界に内包されたビクティニを不憫に思ったサトシはビクティニを結界から脱出させ、ビクティニに海を見せようと約束します。私は『進撃の巨人にあまり詳しくありませんが、ビクティニのくだりが何となく進撃の巨人っぽいなと思いました。
 
私が観察した限り、テン年代のフィクションは「限界に包囲された空間」を描いた名作が多いと思います。2013年にアニメ化された『進撃の巨人では城壁に包囲された区域で生活する人類が描かれましたし、2016年にジャンプで連載が始まった『約束のネバーランドでは「GFハウス」という孤児院に密閉された子供たちが描かれました。2012年に発売された『レイトン教授VS逆転裁判』でも、レイトン教授たちが壁に包囲されたラビリンスシティに取り込まれます。そしてビクティニが結界に包囲された『白き英雄』は、2011年の作品ですね。いったいなぜ、テン年代は「限界に包囲された空間」を描いた名作が多かったのだろうか。
 
テン年代の初頭である2011年に、宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』という現代社会論を書きました。宇野は、グローバル化/ネットワーク化によって世界は外部を失い、「いま・ここ」の内部だけが存在するようになったことを指摘しています。そして川上弘美は宇野の説に同意して「全体像が機能しなくなった」と語り、2018年には限界に包囲された世界の存在を否定する『なぜ世界は存在しないのか』とかいう哲学書の和訳が出ました。つまりテン年代は、「世界の限界や輪郭」の存在が疑われた時代だったのではないでしょうか。その影響で、空間を包囲する限界や輪郭を強く意識したフィクションが生まれたと私は考えているのですが、考えすぎかな。
 

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ちなみに、サトシがビクティニに見せた海は、国王が定めた限界を突破した大地の先にあるものです。白き英雄』の海は「限界の向こう側にある豊かな可能性」の象徴だというのが私の解釈です。
 

理想の空、現実の大地

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崇高な理想を持つドレッドは大地の民の国の再建を目指しましたが、その理想が裏目に出て竜脈のエネルギーに異常が発生します。そして「大地の剣の城」は空高く飛翔し、地面からどんどん離れていきます。大地の剣の城が大気圏を突破(?)し、宇宙に脱出したのには唖然としました。いくら何でもここまでやるかって思った(笑)。サトシたちは宙に浮かぶ城に閉じ込められますが、ビクティニたちの頑張りによって城は再び大地に刺さります。
 
『白き英雄』では空が理想の象徴であり、宙に浮かぶことが理想を掲げることを意味していると思いました。高すぎるドレッドの意識が現実から乖離していく様子が、地上から遠ざかっていく天空の城に託されていると思いました。その一方で『白き英雄』では大地が現実の象徴であり、大地に立つことが現実から離れずに生きることを意味していると思いました。ドレッドの理想が竜脈エネルギーの暴走を招いたように、現実離れした理想は現実の反発を買う恐れがあると思います。
 
宙に浮かんだ城の中でサトシたちが死にそうになったことも示唆する通り、理想が高すぎると私たちは現実を生きられない。私たちには、現実という大地が必要です。皆さん、大地を見捨てずに生きましょう。
 

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コジロウ「地上についてる」
ムサシ「飛んでない」
ニャース大地って最高ニャ!