今回は宮沢賢治の名作「よだかの星」を考察します。
1989年初版発行
あらすじ
では、「よだかの星」を出だしから読んでみましょう。
よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、 ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、 いやになってしまうという具合でした。
(p.35)
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、「 よだかは醜い」ということと、「 よだかは存在しているだけで他者を不快にさせる」 ということです。そしてよだかは、深い自己嫌悪に陥ります。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。 そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。 それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。 僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。 いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、 僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
(pp.39-40)
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、「 よだかは食物連鎖に組み込まれた生物である」ということです。 よだかは甲虫や羽虫を食い、よだかは鷹に食われる… という食物連鎖の関係が読み取れますね。 よだかは空の向こうに飛翔することにより、 食物連鎖から解脱します。
夜だかは、どこまでも、どこまでも、 まっすぐに空へのぼって行きました。 もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。 よだかはのぼってのぼって行きました。
(中略)
そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。 そうです。これがよだかの最後でした。 もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、 さかさになっているのか、上を向いているのかも、 わかりませんでした。
(pp.44-45)
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、「 よだかは限りがある(最後がある)命を持つ生物である」 ということです。飛翔したよだかは死亡します( 死因はおそらく空中の過酷な環境のせいでしょう)。しかし、 死亡したよだかは星になります。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。 そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、 しずかに燃えているのを見ました。
(中略)
そしてよだかの星は燃えつづけました。 いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。
(p.45)
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、「 よだかの星は青く美しい」ということと「 よだかの星はそれ自体として独立して輝く」ということ、そして「 よだかの星は永遠に燃え続ける」ということです。 この童話のラストでは、よだかの星が「燃えている」 ということが3回繰り返し書かれています。これはいわゆる「 反復表現」ですね。繰り返し表現して強調されるくらい、 よだかの星は強烈に永遠に燃え続けているわけです。
よだかの性質の反転
さて、重要なポイントが出揃ったので、 ポイントを整理しましょう。「星になる前のよだか」と「 星になった後のよだか」の特徴をまとめてみると、 次のようになります。
・星になる前のよだか
醜い、食物連鎖に組み込まれている、有限の命を持つ
・星になった後のよだか
美しい、それ自体として独立して存在している、 永遠に存在し続ける
ご覧の通り、よだかの性質が「星になる前」と「星になった後」 で逆転していますね。このことを踏まえると、 よだかの変化が対照的で鮮やかなものに感じられてくると思います 。宮沢賢治は星の美しさを際立たせるために、 よだかという実に醜い鳥を主人公にしたのではないか? と私は深読みしています。よだかは随分酷い目に遭いましたが、 これらは全て星の性質を一層美しく見せるための演出だったのでは ないかとも思います。
宮沢賢治は「よだかの星」に限らず対句を多用する文豪で、「 よだかの星」 以外の小説でも言葉の配置に整然とした法則性が観測されています 。インターネットでは「構成読み解き家」という在野の集団が、 宮沢賢治の物語構造をエクセルを使って公表しています。 その一例として、週休二日さん、nagiさん、 fufufufujitaniさんの記事のリンクを貼っておきま す。
「注文の多い料理店」は物語がABCの3つに分割されていて、 AパートとBパートで執拗に対句が繰り返されている。
「オツベルと像」もAパートとBパートが対句になっていて、 最後のCパートでは内部で対句が発生している。
他にも「セロひきのゴーシュ」「なめとこ山の熊」などの童話で、 高度な物語構造が確認されています。このように宮沢賢治は物語に対句を織り込むことを得意としますから、「よだかの星」で対句が発生しているのは単なる偶然ではないと考えられます。
実存と構造の反転
「よだかの星」は理不尽な場面や不可解な場面で構成されていて、
しかし「よだかの星」 の物語構造を外野から客観的に分析してみると、 全ての出来事に必然性が感じられます。 よだかが醜いのは星の美しさを強調するためだと考えられるし、 よだかが食物連鎖に包摂されていたのも星が独立していることを強 調するためだと考えられる。 そして有限の生命を持つよだかと無限に燃える星が対句になってい て、 よだかの死は有限を無限に反転させるための儀式だと解釈できます ね。
このように「よだかの星」は、 物語の内野に存在するよだかの視点から見ると「 偶然性に支配された不条理文学」に思えるのですが、 物語の外野から構造を観測すると「 必然性に支配された整然とした文学」に思えます。 内側と外側の違いで偶然が必然に反転する文学が「よだかの星」 です。物語の内部でよだかの性質が反転しているだけでなく、 読者の視点の違いで物語全体の解釈も反転するのです。 この反転ギミックと関連して、カミュの「シーシュポスの神話」 の話をさせて下さい。
劇団「架空畳」の小野寺さんは、ようつべで「 シーシュポスの神話」を解説しています。「シーシュポスの神話」 は、 不毛な労働を繰り返すシーシュポスの不条理な人生を描いた実存主 義文学だという説があります。しかし「シーシュポスの神話」 は繰り返しを描いているので円環構造を形成しており、 不毛な労働を繰り返しているのは人類全体に当てはまることだと思 える。「シーシュポスの神話」 はシーシュポスの主観に即して見ると実存主義文学として読めます が、客観視点から見ると構造主義文学として読めます。