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中村文則「土の中の子供」感想や考察みたいなもの

「土の中の子供」は、中村文則芥川賞受賞作である。中村文則は日本人初のDavid L. Goodis賞受賞者であり、ウォールストリートジャーナルで絶賛されてもいて、海外での評価が高く優秀な作家である。しかしその割には、日本における彼の存在感はちょっと地味な気がするのは私だけだろうか。「土の中の子供」も地味な小説なのだが、子供時代に虐待された男の微妙な心理が丁寧に描かれた良作である
 

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「土の中の子供」(『土の中の子供』所収)
2008年1月1日発行
 

受動的な主人公

「土の中の子供」の主人公・「私」は27歳のタクシードライバーの男である。「私」は両親に捨てられ、遠い親戚の家に引き取られ、殴られ蹴られの虐待を受けた。その後「私」は施設に保護されるのだが、子供時代に虐待された経験は彼の心理に大きな影響を残すことになる。虐待された恐怖が身体に染み付いているので、彼は自分から恐怖を求める病的なメンタルの持ち主になった…と医師は診断した。
 

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『恐怖に感情が乱され続けたことで、恐怖が癖のように、血肉のようになって、彼の身体に染みついている。今の彼は、明らかに、恐怖を求めようとしています。恐怖が身体の一部になるほど浸食し、それに捉えられ、依存の状態にあるんです。自ら恐怖を求めるほど、病に蝕まれた状態にあります』(p.82)
 
「私」には、自分自身を危険にし、不利な状態にしようとする傾向があった。彼は危険を伴う車の運転を意図的に行ったり、ガラの悪いDQNにタバコの吸い殻を投げ付けたりした。彼は虐待されたせいで自分に根付いた恐怖を克服するために、自分から恐怖を作り出してそれを乗り越えようとしたらしい。また、一定レベルまで自己愛や自己保存の欲求がある人間なら「私」のような真似はしないと思うのだが、彼は親に愛されなかったから自分を危険に曝せたのかもしれない。
 
また、「私」には、「ものを落とすのが好き」という、奇妙な嗜好がある。コーヒーの缶や尻尾の切れたトカゲなど、彼は様々なものを高い所から落とした。彼がものを落とすのが好きな理由は、作中ではやや曖昧に濁されている。思うに、高い所から落ちている物体は、重力に身を任せて落下し、地面に衝突する。「私」は受動的な主人公で、暴力の先にあるものを待っているので、ものを落とすという行為を愛好したのではないだろうか。
 

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手を放したあとで後悔したが、しかし確かに湧き上がる解放感で、自分が満たされていくように思えた。下へ落ちていく缶を見届けながら、胸がざわついていた。自分が緊張から解放される感覚と、新たに生まれた不安に、首筋に汗が滲み、急かされるように呼吸が速くなっていた。もう、私の力ではどうしようもない。これは私の行為であるが、既に私のコントロールの外にある。もう、全ては遅いのだ。(p.40)
 

意味から強度へ

「私」は、自分の身を危険に曝すことを好んだ。しかし彼はスリルを愛する冒険者ではなかったし、被虐から快感を得るマゾヒストでもなかった。自分の身を恐怖に委ねながら、苦痛の先にある「何か」を、彼は受動的に待っていたのだ。
 
不安と恐怖の向こう側に、何かを見るだろう。それを見ることができるのなら、何をしてもいいような気がした。(中略)その圧倒的に自分の全てを支配する力を体感しながら、私は核心に近づく。私は、予感しているのだった。私はその中で、もっとも私らしくなるのだろうと。だが、なぜそう思うのだろうか。考えても、仕方なかった。実際に体感する機会が、目の前に存在していた。(pp.46-47)
 
自分の身に危険や暴力が襲いかかってくるのは、とても不安だし恐ろしいことだ。親にある程度愛されて育ち、自己愛や自己保存を体得している人間なら、危機から逃げたり身を守ったりしようとするだろう。しかし「私」は危機を体感しながら、その先にある核心や本質を見ようとするのである。
 
私は「土の中の子供」を読んで、「意味から強度へ」という言葉を思い出した。「意味から強度へ」というのは、社会学者の宮台真司が90年代に提唱した思想である。私たちは普段「人生の意味」や「仕事のやりがい」とか言った具合に、何をするにしてもやたらと意味を考えたがる。しかし、人生や仕事に意味が無かったとしても、「強く濃密な体験」ができれば充実した生活を送れるのではないだろうか?これが「意味から強度へ」という考え方である。
 

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 結論から言えば、意味がなくてもー成功物語や貢献物語の主人公にならなくてもー、強度ー世界を濃密に体感することーさえあれば人間は生きていけます。というよりも、人間はそのように生きることが伝統的にはノーマルです。ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがるのだと喝破しました。*1
 
この「意味から強度へ」という思想に魅力を感じる人は、けっこう多いだろう。でも、私たち人間が意味を捨てるのは、そう簡単にできることではない。私たちは普段、自分の愛する人や財産、そして自分自身などに「これは大切なものだ」という意味付けを行いがちだ。そして宮台の言う通り「人生では意味よりも強度が大切だ」と思ったら、私たちは自分の人生に「意味よりも強度が大切だ」という意味付けを行ってしまっている。このように、人間が無意味に生きるのは、とても難しいことなのだ。
 
ところが「土の中の子供」の「私」は親に愛されずに育ったせいか自己保存の欲求が脆弱で、その代わりに自己崩壊寸前で訪れる強度を求めているように見える。さらに「私」には大切なものや失うものがあまり無かったから、意味の先にある強度が普通の人よりも身近に訪れるもののように感じられたのではないだろうか。そしてその強度は圧倒的なもので、ありのままの世界を強烈に体感させるものなのであろう。
 

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世界は強く、無機質にただ広がり、私を見ることもなく存在していた。死ねばいい。死んだところで、世界は私に気を止めることなどない。死は他の全ての事柄と等価値であり、この広がりの中では、大した意味など有していない。世界はやり直しの効かない、冷静で残酷なものとして私の面前に広がっていた。(p.65)

*1:宮台真司『これが答えだ!』、飛鳥新社、一九九八、一六〇頁。