かるあ学習帳

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『青い空のカミュ』超考察~表層の偶然/深層の必然~

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『青い空のカミュ
シナリオ・原画:〆鯖コハダ
(C)KAI
2019年3月29日発売
 

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私たちKAIは美少女ゲームが持つ表現性を追求したく。
新たなプロダクトをスタートします。
l'art de la fille
アートとしての美少女ゲームをKAIは創造します。
KAI公式HPより)
 
『青い空のカミュ』は、「アートとしての美少女ゲームを志す制作スタッフによって創造されたノベルゲームである。このゲームのシナリオはカミュ宮沢賢治などの純文学を下敷きにしており、幻想的なグラフィックやポストロック風のBGMが良い雰囲気を醸し出している。確かにこのゲームは制作側の狙い通り、芸術的な世界観を演出することにはけっこう成功しているように思える。
 
しかし『青い空のカミュ』は、非常に大きな問題を孕んだ作品である。なぜなら、このゲームは「実存主義」という思想を作中に練り込んでしまったからだ。これから詳しく説明する通り、ノベルゲームという媒体と実存主義は、かなり相性が悪いと私は思っている。『青い空のカミュはノベルゲームと実存主義を融合させたせいで、難儀な歪みを発生させてしまった。これから、このゲームに発生した歪みについて検討することにしよう。
 

『青い空のカミュ』の偶然と必然

『青い空のカミュ』ではカミュサルトルの教説が引用され、この世の出来事はたまたま偶然に発生するから、必然性なんて無い」という実存主義思想が表現されている。このゲームの主人公は燐と蛍という二人の萌えキャラで、この二人が閉ざされた田舎町で不条理を体験するというストーリーになっている。閉ざされた田舎町ではゾンビのような何かが燐と蛍に襲いかかったり、座敷童が存在する不思議な空間が現れたり、不可解な出来事が続けざまに発生する。そして物語の結末で、二人の主人公が「一連の出来事には必然性が無い」と考える。
 

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燐「だから、あの夜に世界がおかしくなったのは……その時、わたし達が電車に乗り合わせていたのは偶然ってこと
蛍「だから、それだけのこと?」
燐「そう。必然性なんかなかったんだよ。おにいちゃんがこの地域に仕事で来てたのだって、本当にたまたまの事だったんだと思う
 
燐と蛍の会話を読んで、二人の会話の内容に素直に共感する読者はけっこう多いだろうと思う。この世では何の前触れも無く自然災害が発生したり、唐突に意外な人が命を落としたりする。だから、世界は偶然おかしなことになったり、みんなたまたま災難に巻き込まれることってあるよね…と頷きたくはなる。しかし、この「必然性を否定する」思想を、ノベルゲームという媒体でそのまま表現するのは無理があるだろう
 
ノベルゲームは、多くの場合「シナリオライターによる脚本」と「プログラマーによるプログラム」という、超強力な必然性に支配されている。ノベルゲームのシナリオライターは、自分が表現したい物語を、作者の意図という必然性を込めて表現できる。そしてノベルゲームのプログラマーは、ゲームの展開が自分の思い通りになるように、プログラムという必然性を入力できる。サルトルの『嘔吐』では、始まりと終わりがある冒険小説と、演奏内容がプログラムされている音楽のレコードが、「必然性があるもの」の例として出されていた。この『青い空のカミュ』は冒険物語であり、しかもゲームソフトとして発売されているので、超絶に強力な必然性に縛られていると言って良いだろう。
 
したがって、『青い空のカミュ』の登場人物が一連の出来事に必然性なんてなかったんだよ(ドヤァ!」と力説しているだけでは、このゲームの展開をメタ的に鑑賞している読者には説得力が無いと言わざるを得ない。このゲームは脚本とプログラムという超強力な必然性に支配されているので、「いや、一連の出来事が偶然なわけないやん!むしろ、物凄い必然性があるやん!」と、ツッコミを入れる余地が発生している。
 
『青い空のカミュ』の制作スタッフはおそらく、「この世の出来事に必然性は無い」という実存主義思想を表現するのに成功したつもりだったのだろう。しかし、その思想がノベルゲームという媒体で表現されてしまったので、私たちはこの世の出来事に必然性は無いと思うことがあるが、実はそれは思い込みで、高次の計画やプログラムによる必然性がこの世を支配しているのかもしれない」という、真逆のハイパー仮説を導く結果になってしまっている。これは実に皮肉な事態である。
 

よだかの星」の偶然と必然

『青い空のカミュ』は、必然性を否定する実存主義思想を、強力な必然性に支配されたノベルゲームという媒体で表現してしまった、皮肉な作品である。しかし、この作品の皮肉はこれだけに留まらない。さらにこの作品は、宮沢賢治よだかの星を引用してしまったのである。そして問題は、ますます拗らせを深めてくる。
 
燐と蛍は、この世に必然性が無いことの例として、「よだかの星の話をする。よだかの星」の主人公・よだかは、生まれつき実に醜い鳥である。よだかは見た目が醜いので他の生物達に忌み嫌われ、理不尽な仕打ちを受ける。よだかは最後に美しい星になるのだが、よだかが星になった理由は、作中で具体的に書かれていない。なのでよだかの星」は、一見すると「よだかが不条理な出来事に遭遇し、偶然星になった小説」っぽい感じがする。実際、燐と蛍はそう解釈している。
 

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蛍「今の燐の話を聞いてね、あるお話を思い出したの。宮沢賢治の“よだかの星”」
燐「それ、わたしも読んだよ」
蛍「よだかは最後に星になるでしょ。でも、あのお話って夜鷹が星にならなきゃいけない必然性って無いんじゃないかなって思ってた
蛍「だって、星になるのは誰かのためでもなかったでしょ。星になっても……それは輝き続けているだけ。ただ、それだけ……
 燐は、黙って蛍の言葉を聞いていた。
蛍「だから、昔読んだときは、なんかすごく悲しくなって、納得がいかなかったんだ。なんでそんな目にあうんだろうって」
燐「なんか、ちょっとわかるな、その気持ち。わたしも何で夜鷹はそうまで追い詰められなきゃいけないんだろう、って思ったから」
 蛍はくすりと笑った。
 青い空よりも、透明な微笑み。
蛍「でも、今、燐の話を聞いて思ったの。ああ、意味なんて必要なかったんだなって
蛍「星が輝くことに意味なんて必要ない。でも、よだかの思いがそこにあるから美しいんじゃないかな
 
上記の対話によると、「よだかが星になることに必然性は無い」「よだかの星が輝くことには意味が無くていい」らしい。この解釈は、「よだかの星」を構造主義的・客観的にではなく実存主義的・主観的に読むことによって発生する解釈であろう。
 
宮沢賢治の小説は、豊かな自然に満ちた世界観で知られている。しかし彼の小説は、病的なまでに論理的な構造を備えていることが多い。fufufufujitaniさんの「銀河鉄道の夜解説や週休二日さんの「注文の多い料理店解説などから窺い知れるように、宮沢賢治はコンピューターのように精密な構造をビルドする才能に恵まれていた。表面的には田舎町の不条理劇を描いた『青い空のカミュが深層的にはプログラムに支配されていたように、表面的には自然に恵まれた宮沢賢治の小説も深層的には論理的な構造に支配されているわけだ。
 

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よだかの星」の場合も、その例外ではなく論理的な構造を持っている。この小説では、星になる前と星になった後で、よだかの性質が逆転しているのだ。星になる前のよだかは醜く・食物連鎖に組み込まれていて・有限の命を持つ。星になったあとのよだかは美しく・それ自体で独立して存在していて・永遠に輝き続ける。ついでに言うと、山やけの火が「赤い」こととよだかの星が「青い」ことも対比されている。よだかの星のストーリー展開は周到に計算されていて、このことに気付くと「必然性が無い」なんて到底言う気にはなれないのである。
 
『青い空のカミュ』の制作スタッフは「よだかの星を引用することにより、「この世の出来事に必然性は無い」という自説を強化したつもりだったのかもしれない。おそらく制作スタッフは、「よだかの星の論理的な構造が読み取れていなかった。そして皮肉に皮肉が重なり、またしても「必然性の否定が否定される」事態が発生している。よだかの星をオブジェクトレベルで読むと必然性が無さそうな感じがするけど、メタレベルで読むと却って必然性が溢れている。こうして作中で主張された実存主義は、再び深層の構造に敗北するのである。
 

「シーシュポスの神話」の偶然と必然

さらに『青い空のカミュ』は、カミュ「シーシュポスの神話」も下敷きにした。そのため、皮肉の皮肉の上にさらなる皮肉が重なり、ウルトラ皮肉バーガーが完成している。
 

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「シーシュポスの神話」は、地獄で不毛な労役を繰り返す英雄・シーシュポスを主役とする不条理劇である。シーシュポスは山の頂に岩を転がしては失敗してまたふもとに戻っていくという無益な労働を反復するのだが、地獄で幸福を感じる。『青い空のカミュ』にはこの話をベースにして、閉ざされた田舎町で不条理な状況に置かれた燐と蛍が幸福を感じる場面がある。
 
しかし、劇団「架空畳」の小野寺さんが指摘している通り、「シーシュポスの神話」には円環構造が存在する。シーシュポスの労役をオブジェクトレベルの主観視点で解釈すると、「シーシュポスの神話」は不条理な実存主義文学であろう。しかしシーシュポスの労役をメタレベルの客観視点で解釈すると、「シーシュポスの神話」は繰り返される円環構造を描いた構造主義文学であるように思われる。このように「シーシュポスの神話」には、深層的な構造が潜伏している。『青い空のカミュの深層にプログラムが、「よだかの星の深層に対句構造が潜伏しているように。
 
小野寺さんによると、「シーシュポスの神話」実存主義文学でありながら、実存主義を批評する構造主義を無意識的に招き入れてしまったという。表面的には実存主義をやっているように見えても、潜在的にはしっかりした構造に支えられているという点で、『青い空のカミュ』「よだかの星」「シーシュポスの神話」の三作は共通している。共通する表層と深層を持った三つの物語の三重奏を奏でたという点では、『青い空のカミュ』は高評価できるだろう。
 

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小野寺さんが言う通り、実存主義構造主義の違いは、「主観/客観」「オブジェクトレベル/メタレベル」の違いに対応するだろう。オブジェクトレベルの実存主義が、メタレベルの構造主義に反転する。この反転ギミックが、『青い空のカミュ』「よだかの星」「シーシュポスの神話」の三作には共通している。しかし『青い空のカミュの制作スタッフはあくまでも実存主義だけを語ろうとしており、三つの物語の深層に潜伏する構造に気付いていないように見える。そこが私には、非常に間抜けに思えるのである。
 
メタフィクションと相性が良いノベルゲームという媒体で「この世の出来事に必然性は無い」という実存主義を無防備に主張するのは、かなり無理がある。だから、『青い空のカミュの制作スタッフは物語の必然性について周到なケアをする必要があったはずなのだが、このゲームにはエクスキューズが足りていない。青い空のカミュはスタッフが真心を込めて作ったゲームだとは思うけれども、いかんせん詰めが甘過ぎるので、「まあまあな作品だった」という評価が妥当だろう。