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東浩紀『存在論的、郵便的』第一章の感想と要約

私は今、東浩紀の博士論文存在論的、郵便的を読んでいる。とりあえず第一章「幽霊に憑かれた哲学」を読み終わったので、勉強用に書いた感想と要約をここに晒しておく。私は在野のオタクに過ぎないので、感想と要約に変な箇所があっても許してクレメンス。
 

新潮社
1998年10月30日発行
 

ほわっとした感想

いきなり本文の要約を載せたら未読の人がつまらない思いをしそうなので、「です・ます」調のほわっとした感想を書きます。『存在論的、郵便的』は、フランスの哲学者ジャック・デリダに関する批評です。第一章ではエクリチュール(≒文字)に関する議論が特に面白かったので、皆さんにご紹介したいと思います。
 
「文字」や「書かれたもの」のことを、フランス語でエクリチュールと呼びます。読解の厳密さが失われますが、エクリチュールとはとりあえず文字のことだと思って下さい。デリダエクリチュールを「書き手が不在でも残り続けるもの」だと捉えました。そしてエクリチュールは著者の支配が届かないところで自由に引用され、解釈されうる。さらにエクリチュールには失敗可能性があり、著者のメッセージが歪められる可能性があります。
 
デリダエクリチュール論は、SNS特にTwitterをやったことがある人ならすぐに「せやな」と納得できる理論だと思います。Twitterに文字を入力してつぶやいたら、自分のつぶやきが色んな所で拡散し解釈された。また、自分の文章が他人に誤解された。そういう経験がある人は最近多いのではないでしょうか。デリダの哲学や東浩紀の批評の着眼点には、SNS時代を予見するかのような先見の明を感じますね。
 
エクリチュールには引用可能性と失敗可能性があります。文字には自分の手の届かない所で引用される可能性があるから、一旦文章を書いたら自分の文章を「囲う」のには限界がある。そして文字には誤解される可能性があるから、自分が書いた文章が誤解されても安易にブチギレないようにしよう私は『存在論的、郵便的』を読んでそう思うようになりました。自分の文章が嫌な形で引用されたり誤解されたりすることはありますが、文章がその可能性を孕んでいるのは当然の理だと思いますね。
 

脚本家の虚淵玄さんは、「書いちゃえばそれでおしまい。ほっといても子供は育つしね」と思っているらしいです。私はこの虚淵さんの姿勢をリスペクトするし、デリダに倣って文字には引用可能性と失敗可能性があるという事実を受け入れています。文章ってのは、書いちゃえばその後は親元を離れて他人に引用され誤解されていくもんだと思います。その事実を覚悟できない人は、文章をあまり書かない方が良いと思うよ、俺は(笑)。
 
哲学や批評に興味が無い人の間でも、とりあえず文字には引用される可能性と伝達失敗する可能性がある」ということが広く認知されて欲しいです。文字の引用可能性と失敗可能性なんて当たり前じゃんという意見は勿論あるでしょうけど、この当たり前の事実が意外と共有されていないので、Twitterではやたらとトラブルが発生しているように思えます。Twitterの運営に哲学的思考力とユーザーへの思いやりの心が絶望的に欠如している所も、大いに問題ありだよね。
 
デリダ「偶然性の必然性」「幽霊」にまつわる考察も興味深いものですが、この件は大江健三郎の「空の怪物アグイー」と親和性が高そうな話題ですから、いずれ「アグイー」の考察でついでにまとめようと思います。
 
……さて、次は第一章の要約を晒します。論がやや飛躍している所や本の内容自体にツッコミ所がありますが、そこは要約なので大目に見て下さい。自分としてはなかなか良くまとまった要約だと自惚れていますが、要約の成否は皆さんの判断に任せます。
 

第一章「幽霊に憑かれた哲学」要約

デリダの仕事はとりあえず前期と後期に分けられる。前期デリダは1962~72年までの10年間で、『声と現象』『グラマトロジーについて』などが代表作として挙げられる。前期の著作は「論文」「著作」の体裁を成しており、明晰さが維持されている。しかしデリダは70年代になると後期の仕事に突入し、テキストが極度に複雑化していく。前期と後期の変化はデリダ理解の躓きの石であり、『存在論的、郵便的』はデリダ自身の躓きに焦点を当てる論考となっている。
 
1.
デリダは耳-パロール-声の多様性と目-エクリチュール-文字の多様性とを、それぞれ「多義性」と「散種」と名付けている。パロール=音声は常に今ここに存在する主体と結び付いている一方、エクリチュール=文字は主体が不在でも残り続ける。文字は常に主体の手が届かないところで自由に引用され、解釈されうる。文字には引用可能性があり、記号に「多義性」と異なる「散種」が与えられている。注意すべきなのはパロールそのものもエクリチュールそのものも存在せず、ある記号をパロールとみなすかエクリチュールとみなすかの視点の差異だけがあるということである。
 
デリダはオースティンの言語行為論を批判する。言語行為論では、言明を「コンスタンティブ」と「パフォーマティブ」に区別する。コンスタンティブな言明は事物の状態を報告し、報告の内容の真偽を検証できる。パフォーマティブな言明は現実に働きかける発言であり、発言の真偽ではなく幸不幸が問われる。しかしデリダは「コンスタンティブ/パフォーマティブ」の区別を解体し、あらゆる言説はコンスタンティブでもありパフォーマティブでもありうるとみなした。脱構築」的読解は、あらゆるテキストに宿るダブルバインドを暴露するために行われる
 
散種は、任意のコンテクスト-背景情報の切断可能性-引用可能性から与えられる。したがって散種は記号を包む背後や深層によっては保証されない。散種の効果は、一つの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストの間を移動することにより、常に事後的に発見されるのである。単数の文字が先行し、その後で記号に宿る散種的複数性が見出だされるわけだ。散種はエクリチュールが移動した後で後付けで発見されるが、エクリチュールの移動の前には何物でもない。
 
私たちは事後的に散種を元々あったものであるかのように捏造する私たちはエクリチュールの背後に何らかの多義性を見出だそうとしたとき、そのエクリチュールを共同体の内部に回収する。散種の思考はエクリチュールをある共同体による占有から救出し、テキストの中に絶対的他者を見出だす。
 
2.
フッサールは、ある特定の数学者によってある特定の時期に発見されたものとしての定理(事実問題)ではなく、理念的対象としての定理そのもの(権利問題)について考察した。したがってフッサールの思考は、非歴史的な議論しかできないことになる。しかしフッサールは『幾何学の起源』で「事実問題/権利問題」の区別を維持しつつ、他方でその区別を無効化する「理念的対象の起源」を論じようとする。デリダは、定理-非歴史的なものが歴史上で産出されるということに注意を向ける。
 
幾何学の唯一性は歴史の唯一性と純粋性によって保証されている。しかしデリダは、「非コミュニケーションと誤解は文化と言語の地平そのものではないだろうか」と提起する。たとえ幾何学の定理でも、文書によって伝えられるものならば、その伝達は必然的に純粋なものではありえない。エクリチュールは発信者の支配から逃れ、メッセージは歪められうるからだ。エクリチュールおよびコミュニケーションの失敗可能性という前期デリダのテーマは、歴史の単数性を批判し、歴史の複数性を思考するためのものとして捉え直すことができる。
 
前期デリダは、「同じ」と「同一的」を区別する。「同じ」記号が反復されたとしても、その記号は反復されるたびに異なったコンテクストに規定されるので、「同一のもの」ではない。単数の「同じもの」が複数の「同一性」を生み出すその事後的時間性を、私たちはすでに散種の思考をめぐり確認した。散種は単数の「同じもの」から生じ、多義性は複数の「同一性」の集まりとして与えられる。にもかかわらず多義性の思考は「同一性」の複数性を、記号の単数性よりも過去に想定してしまう。デリダは非直線的な時間を導入し、その論理的な罠を回避する。
 
フッサールの超越論的歴史はたえずその起源へと遡り、その遡行は伝承により保証される。しかしその伝承はエクリチュールの介在で行われるため、起源への遡行は常に失敗可能性を孕んでいる。エクリチュールには単独性=散種が宿るため、引用可能性と本来のコンテクストからの断絶力が付きまとう。散種とは、歴史の純粋性と唯一性をたえず断絶させ複数化させることで、可能世界を歴史に挿入していく運動だと要約できる。つまりデリダエクリチュール論は、可能性の現実性・偶然性の必然性を検討する基礎的議論として解釈できるわけだ。
 
3.
デリダは記憶不可能なものの記憶を扱うが、そこで想起されるものは固有名の絶対性ではなく、その絶対性を拡散させる「かもしれない」の位相である。デリダが用いる「幽霊」という術語には反復可能性という意味合いがあり、幽霊についてのデリダの「記憶」はその反復可能性に関わる。
 
脱構築は「かもしれない」の位相を挿入する。80年代以降のデリダは、その位相がある種の過去だけでなく未来とも関係していることを強調する。例えば70年4月20日ツェランに何かが起こったとして、私たちはそのこと自体、単独的な出来事そのものについては決して知ることができない。しかし4月20日という日付は再来する。そしてその再来により私たちは、あの4月20日にとっての何が起こる「かもしれない」開放性を同一ではないが同じものとして経験することができる。デリダはまさにこれを幽霊的再来と呼び、脱構築はその記憶に関わると述べる。つまり彼の思考は、ある出来事の反復不可能性ではなく、むしろその出来事が起こる直前の、いまだその出来事が起こらなかったかもしれない、その瞬間の条件法的未来に関わっているのである。
 
哲学の歴史は固有名の集積である。そしてそれは偶然的かつ経験的に成立したものでありながら、必然的かつ超越論的に真理を語る。もし哲学全体が一つの言語ゲームでしかないとすれば、他の諸哲学は常に可能である。しかし哲学的発明をいくら積み上げたとしても、それは事後的に唯一の言語ゲームとして捉えられる。私たちは何故常にこの言語ゲームをもつのか、何故この歴史は唯一なのか、そしてもしそれが唯一だとすればそこで忘却されたものは何か、デリダは問うだろう。
 
同一性を持ちたくないわけではない、とデリダは明言している。しかし彼には幽霊の声が聞こえる。それは彼の同一性が決定された瞬間の、偶然性と複数性の記憶である。一つの文化あるいは言語のなかにあること、つまり同一性が同一性として与えられること、その瞬間にはすでに幽霊-エクリチュールが侵入している。デリダは自分が今のデリダになっている、その偶然性が忘れられないのだ。デリダの「この私」、「たった一度」には幽霊たちが常に取り憑いている。(終)
 

乞食宣言

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