かるあ学習帳

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後期ハイデガーのサルトル批判~存在神秘は「実存は本質に先立つ」よりも先立つ~

一昔前に流行ったサルトルとかいう哲学者は、実存主義でした。サルトル実存主義では、人間の本質は生まれつき決定されておらず、私たちは自分で自分を「作る」ことができるとされています。
 

ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)

というのは、もし私どもがゾラのように、これらの人物は遺伝のせいで、周囲なり、社会なりの作用によってこうなのだ、有機的なまたは心理的決定論によってこうなのだと明言したとしたら、人々は安心して、「なるほど人間はそういうものだ。誰だってこれをどうしようもないのだ」というだろう。ところが実存主義者は卑劣漢をえがくとき、「この卑劣漢は彼の卑劣さにたいして責任がある」というのである。彼は卑劣な心臓、肺臓、脳髄をもっているから卑劣なのではない。彼は生理的構造からそうなるのではなく、彼の行為によって自分を卑劣漢につくりあげたからそうなのである。*1
 

サルトル「実存は本質に先立つ」と言いまして、遺伝や社会の作用によって人間が形成されるのを否定しました。これは、かなり素朴で純粋な考え方だと思います。世の中には「自分は医者になることができる」と思って何年も浪人しながら医学部を目指している人や、「自分は甲子園に出場することができる」と思って勝ち目の無い野球の試合に出る人がいます。こういう人たちは実存主義者の一種であり、自分を医者や野球選手に「作ろう」としていると思います。
 
しかし、遺伝や社会の作用によって人間が形成されるのを否定するのは、かなり無茶な理屈でしょう。例えば高校では理系と文系にクラスが分かれていますし、大学では学部や学科が細かく分かれています。なぜなら、人によって得意な科目や社会的な領域が分かれているからだと思います。世の中には生まれつきの素質のせいでどうしても理系の道に進めない人や、どうしてもスポーツ選手になれない人などが存在するので、サルトル実存主義は疑わしき理論です。
 
それでも一部の実存主義者は、遺伝や社会の作用によって全ての運命が決まっているわけではないと食い下がるかもしれません。生まれつきの素質のせいで理想の道に進めない人にも、その人なりの色々な可能性があると考えられるので、万人には様々な人生を「作る」力があると実存主義者は言うかもしれません。こういう問題はかなり微妙な問題だと思います。
 

また、「人間の素質は遺伝によって決まっている」というのは、科学的な反省によって得られる見解だと思います。まず生の現実に人間が存在して、生身の人間から遺伝子を抽出して、遺伝子を調査した結果「人間の素質は遺伝によって決まっている」という結論が出た場合、その結論は生の情報から得られた「二次的な(?)情報」になります。科学的な反省は生の現実から遠ざかっているので、そこを怪しむ余地は一応残されているでしょう。
 
以上の理由により、「実存は本質に先立つ(各人の本質はあらかじめ決まっていない)」という考え方にも、本質は実存に先立つ(各人の本質はあらかじめ決まっている)」という考え方にも、大なり小なり胡散臭いところがあります。この件について、後期ハイデガーは次のように提言しています。
 
サルトルは、これとは違って、実存主義の根本命題を、次のように言明している。すなわち、実存は本質に先行する、と。その際、サルトルは、エクシステンティア〔現実存在〕とエッセンティア〔本質〕とを、形而上学の意味において受け取っている。この形而上学は、プラトン以来、次のように言い述べている。すなわち、エッセンティア〔本質〕はエクシステンティア〔現実存在〕に先行する、と。サルトルは、この命題を逆転させたわけである。けれども、一つの形而上学的命題を逆転させたとしても、その逆転は、やはり一つの形而上学的命題にとどまっている。こうした命題であるかぎり、その命題は、形而上学もろとも、存在の真理の忘却のうちにとどまっているのである。*2
 
ハイデガーは、「実存は本質に先立つ」とか「本質は実存に先立つ」とか言う以前に、人間が存在へと身を開き-そこへと出で立つ」ことが先立つことに注目しました。「各人の本質があらかじめ決まっているかどうか」という問題は、そもそも「各人が存在している」ことを前提にして成立します。実存は本質に先立つ」にしろ「本質は実存に先立つ」にしろ、人間が世界と慣れ親しみながら存在しているからこそ出てくる見解なのであって、存在の真理が人間の本質を支配しているというのがハイデガーの立場です。
 
そしてハイデガーは「実存は本質に先立つ」とか「本質は実存に先立つ」とか言う見解よりもさらに本質的な存在とは何か」という問題を探究する哲学者ですから、サルトルの同胞ではないということになります。
 
話がやや飛躍しますが、今の日本には「教育格差」という問題があります。都会の富裕層の子供は良い教育が受けやすく、田舎者や貧乏人の子供は思うような教育が受けられないという現実があります。ここで多くの子供が充実した教育を受けられるようにするにはどうすればいいか」という論点が出てくるわけですが、この論点は子供の「実存と本質」に関わる問題だと思います。
 
「子供が自由に進路を選択できるようにしろ」とか「子供の人生は生まれた環境で決まっている」とか言う以前に、子供が「存在している」という事実がより本質的であり神秘的な事柄でしょう。しかし世間は子供が存在していることの神秘についてろくに考えず、教育格差について話し合います。教育格差はもちろん超重要な議題ですが、人々が「存在とは何か」を考察しないことはハイデガーの言う存在忘却に他なりません。私たちは「存在とは何か」を思索することにより、万物が存在することのピュアな不思議や神秘に触れることができるのであります。
 

彩名
すべての人が生まれて
すべての人が死ぬ
不思議だね
それは、子供がはじめて世界と触れる驚きなんだと思う
「その、驚きは祝福される?」
行人
「ああ、そうだな」
(『終ノ空remake』より)

*1:サルトル(伊吹他訳)『実存主義とは何か』、人文書院、一九九六、六二~六三頁。

*2:ハイデガー渡邊二郎訳)『「ヒューマニズム」について』、ちくま学芸文庫一九九七、五〇~五一頁。