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三島由紀夫『午後の曳航』あらすじや解説みたいなもの

文豪・三島由紀夫は、三十三歳で結婚した。しかし三島の面白いところは、結婚しても小説の作風が丸くならず、相変わらず「攻めた」活動を続けたところである。『不道徳教育講座』という不謹慎な本を書いたり、映画の主演をしたり、『宴のあと』という小説を書いて裁判沙汰になったりした。そして午後の曳航』では、「結婚してつまらない大人になった父親」が批判されている。
 

『午後の曳航』
1968年7月15日発行
 

あらすじ

『午後の曳航』は、「第一部・夏」「第二部・冬」に分かれている。この構成からお察しの通り、第一部と第二部は対照的な内容になっている。また、この小説では「栄光」がテーマになっており、『午後の曳航』という題名は「曳航」「栄光」で「えいこう」をかけたダブルミーニングのつもりなのだろう。
 
第一部では、船乗りの塚崎竜二が素晴らしい英雄のように描かれている。竜二は栄光を求め、自分には何か特別な運命が備わっているはずだと思っていた。竜二は未亡人の房子と肉体関係にあり、房子の息子・登少年は竜二をヒーローのように神聖視していた。しかし竜二にも、もちろん人間的な欠陥はたくさんある。竜二は登の前で失策を演じることはあったけど、それでも竜二と房子は映画の名場面のように完璧な別れの場面を実現し、竜二は船に乗って旅立った。
 
第二部では、竜二の転落が描かれる。竜二は船旅を終え、房子&登母子の元に帰ってきた。竜二はお正月に自分はもう三十四歳になるから、夢や栄光を求めるのはやめよう」と思った。竜二は世界中を航海しても、栄光をどこにも見付けられなかったのだ。竜二は房子と結婚することになり、凡庸な父親を演じるようになる。竜二に失望した登は仲間の少年に相談し、つまらない父親になった竜二を「処刑」という名目で子供たちの手によって殺害した。
 

結婚してつまらない大人になることの罪悪

『午後の曳航』の竜二は少年に憧れられる素敵な船乗りであったが、夢を諦め結婚してつまらない父親になった。父親になった竜二のあまりのつまらなさに目が潤んだ登少年は、仲間たちと協力して竜二を殺害した。心のヒーローが夢を諦めると、子供たちは深く傷付く。子供たちを失望させた大人は、本人にそのつもりが無くても「罪人」なのだ。だからつまらない大人になった竜二は、子供たちに「処刑」された。
 
元々は子供たちの憧れの的だった大人が結婚した途端につまらない親になるパターンは、現実でもけっこう多いと思う。皆さんは、そういう親と聞いて具体的に誰を思い浮かべるだろうか?ここは自分のブログだからぶっちゃけた話、私は椎名林檎を真っ先に思い浮かべてしまう。まあ、椎名林檎は父親ではなく母親だし、「子供たちの憧れ」と言うよりは「グレた若者たちの憧れ」に近い存在だったと思うけど、細かい話はナシだ。
 

『すばる』2021年2月号に、椎名林檎における母性の問題」とかいう評論が載っていた。椎名林檎は最初の頃は「本能」「罪と罰」「ギブス」みたいに、若さゆえキレッキレの楽曲を不穏な悲鳴を込めて歌っていた。しかし息子を出産して3rdアルバムが発売されたぐらいから、椎名の楽曲に「母性原理」が感じられるようになる。母親になった椎名は「母性的価値観」の籠った歌を歌うようになり、かつてのキレのある歌唱力は鈍磨していく。今の椎名が「つまらない」と言うと語弊があるかもしれないが、椎名は親になった代償としてキレを失ったと思う。*1
 
それにしても、なぜ元々オモロイことをやっていた人でも、結婚して親になった途端につまらなくなりがちなのだろうか。その理由は色々考えられるが、親になると子供に善人ぶった教育をしなければならなくなるから」という事情があるだろう。親は子供を一人前の大人に育成する責任が追及されるので、子供の前で幼稚な言動をしづらい。そのため『午後の曳航』の竜二も結婚した途端に義理の息子に凡庸な説教をするようになり、子供たちに嫌がられるようになったのである。
 

『午後の曳航』VS『個人的な体験』

三島由紀夫の『午後の曳航』は、大江健三郎の『個人的な体験』と比べながら読むと面白いと思う。未読の人のために、『個人的な体験』のあらすじを紹介しよう。
 
『個人的な体験』の主人公・鳥(バード)にはアフリカを旅行したいという夢があり、鳥は旅行の後で冒険記を出版したいとも思っていた。しかし鳥の妻は頭部に肉瘤のある息子を出産し、「家族の檻」に閉じ込められた鳥は絶望する。最後に鳥は責任を持って障害児を育てる決心をし、大人たちに祝福される。『個人的な体験』では、夢を諦めて父親になることが「成長」として(痩せ我慢を含みつつも)肯定的に描かれている。
 

ここまでの話に付き合ってくれた皆さんなら想像が付くと思うが、三島由紀夫は『個人的な体験』を酷評した。まあ当然だろう。なぜなら『午後の曳航』を読んだ限り、三島は夢を諦めて父親に「成長」することは「腐敗」だと考えている可能性が高いからだ。そこで『個人的な体験』では夢を諦めて父親になることが大人への「成長」として描かれているので、三島が大江を批判する一因になったのだろう。実際大江のエッセイ『私という小説家の作り方』によると、三島は「これではプロデューサーにハッピー・エンドで終わらねばならぬと言いふくめられた監督のようだ」と大江に言ったらしい。
 
三島由紀夫の『午後の曳航』では、夢を諦めて父親に「成長」することが「腐敗」として否定されている。一方大江健三郎の『個人的な体験』では、夢を諦めて父親に「成長」することが「ハッピー・エンド」のように(どちらかと言うと)肯定されている。大江も最初のうちは父親になることに内心苦悶していたと思うのだが、障害児の息子を育てているうちに新しい表現を開拓していくことになる。
 
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夢を諦めて破滅した竜二の生き様は、晩年の三島の人生を予言しているような気がする

*1:余談だが、「椎名林檎における母性の問題」は、私にはそれほど面白い評論だとは思えなかった。しかしこの評論は審査員の満場一致ですばるクリティーク賞に選ばれた。私に見る目が無いのか、それとも審査員が誉めすぎなのか、一体どっちだろう。