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諏訪哲史『アサッテの人』メタ意識の節度を考えるための書評

諏訪哲史『アサッテの人』は、村上龍の『限りなく透明に近いブルー以来31年ぶりに群像新人文学賞芥川賞をダブル受賞した小説である。しかし私が読んだ限り、『アサッテの人』は『限りなく透明に近いブルーとは多くの点で対照的な作品だと感じた。限りなく透明に近いブルー』は、鋭敏な感性で世界を受動的に観察する小説だった。一方『アサッテの人』は、世界の外へと能動的に身をかわそうとする小説で、理屈っぽい考察がとても多いのである。
 

『アサッテの人』
講談社文庫
2010年7月15日発行
 

意味不明な言葉とメタ志向の芸風

『アサッテの人』は、中盤の6節目に突入するまでは、ひたすら奇怪で意味不明な小説であった。語り手「私」の叔父は、仕事を辞めて行方不明になった。叔父はどうやら、遠方を旅行しているらしい。叔父は唐突に「ポンパ」「チリパッハ」「ホエミャウ」などの奇声を叫び、周囲の人々を困惑させていたことで知られている。叔父はとても知的な人だったのだが、意味不明な言葉に興味を持っていた。途中までは叔父の言動が謎すぎて、「一体何なんだよこの小説……と私は思った。
 
6節目以降からは、叔父の奇行の謎が解明される。叔父は幼少の頃、「吃り」に悩まされていた。吃りの叔父は世界に居場所を見付けることができず、世界の統一から外されたような思いをしていた。叔父は20歳になって吃りを克服し、世界に迎え入れられた。しかしマトモな言葉を話せるようになった叔父は、今度はマトモな言葉の文法に束縛されたような気分になる。そこで叔父は意味不明で「世界から放逐される」言葉を求めるようになり、世界の外=アサッテの方角に移動し続けるようにもなったという。
 
『アサッテの人』では、凡庸な習慣や常識から離反し・旅に出ようとする生き方が表現されている。そして凡庸な日常に生まれる裂け目へと繋がる依り代として、「ポンパ」「チリパッハ」とかいった意味不明な言葉が選ばれたというわけだ。『アサッテの人』は世界の抑圧や束縛から解脱しようとする小説なので、メタフィクションの文脈で受容されてきた。
 

凡庸さを批判したことの代償

私が『アサッテの人』を読んで嫌だったのは、叔父が流行曲(たぶんJ-POP)の凡庸な歌詞を批判する場面である。夢を信じて」「挫けないで」など、流行曲の歌詞の凡庸さが作中で嫌悪されていた。
 
 僕は最近の流行曲の歌詞に含まれる、あの凡庸極まりない言い回しに辟易するのだ。
 それは例えば、「夢を信じて……」とか、「挫けないで……」とか、「愛は負けない……」とか。「ピュアなハート……」とか、「君の瞳の輝き……」とか、「明日はきっと来る……」とか。
 いまも、書き留めるそばからペン先が腐ってゆくような気がしてならない。(p.132)
 
叔父が言いたいことには、私も一応共感できる。私もJ-POPの歌詞を聴いていて「陳腐だな」と思うことはある。そして『アサッテの人』は凡庸さから離脱しようとする小説だから、凡庸な言語の一例として流行曲の歌詞が批判されているのだろう。
 
しかし、新人の作家が自分の出版物でこういうことを書いちゃダメだろ……と私は思った。流行曲はたとえ歌詞が凡庸でも、流行しているからには大勢の人々に愛好されているはずである。流行曲を安易に批判すると、流行曲を支持する多数派を敵に回す恐れがある。諏訪さんのような新人の作家は、まずはなるべく敵を作らずにファンを増やすことを考えるべきだろう。そのため、流行りのものを軽はずみに批判する表現を慎むのが利口な戦略であろう。諏訪さんは自分がかなり危ない橋を渡っていることに、気付いていないのだろうか……??
 
また、『アサッテの人』では、流行曲の歌詞のように凡庸な言葉が嫌悪されている一方、「ポンパ」「チリパッハ」のように意味不明な言葉が愛唱されている。しかし「ポンパ」「チリパッハ」とかいう意味不明な言葉の詠唱には、流行曲の陳腐な歌詞をある意味で凌駕する鬱陶しさがあると私は思う。例えば次の文章を読んで、皆さんは鬱陶しいと思わないだろうか?人によるとは思うが、私はメチャメチャ鬱陶しいなと思った。こんな鬱陶しい言葉を楽しげにまくし立てられるぐらいなら、凡庸な流行歌のほうがずっと心地よいというものだ。
 
ハッハッハッハ、あーあ、それはおまえポンパだろう、いやもう完全にポンパだ、いくらポンパってったってそりゃポンパすぎる、ハッハッ
 と笑い出し、すこし後には、
ポンパるんならポンパるよ。おまえがどうしてもポンパりたいんならポンパるよ。よーし、ポンパれポンパれ。おれもポンパる」(p.61)
 

過剰なまでの批評的自意識

講談社文庫版『アサッテの人』には、諏訪さんによる文庫版あとがき」が載っている。皮肉なことに、小説本編よりもこのあとがきの方が面白いと私は思ってしまった。特に次の文言には、引用する価値が大いにあると考えられる。
 

諏訪哲史(1969~)

 そもそも、すべての小説が不可避的に、作品と作者という二重の函、つまり入れ子の構造を有する以上、世にメタフィクションでない小説など存在しえず、逆に、「函(メタ)」への意識を欠く作品は小説ではない。作品と作者の対峙、その批評的自意識に欠けるものは、いずれ神話か伝承、お伽噺の類いにすぎないのだ。(p.185)
 

全ての小説は、作者によって創造された「箱」のようなものである。大抵の小説は作者によって作られたものだから作為を含んでいるし、小説は箱のようなものだから構造を持っていることも多い。小説という箱に含まれた作為・構造・様式などは、ひっくるめて必然性」だと言ってよいだろう。そして「必然性を持った箱」への問題意識が足りない物語は、諏訪さんによれば「小説ではない」のである。「小説ではない」というのは言い過ぎだと思うが、このあとがきはよくぞ言ったと私は思った。
 
私は今年の3月に、『青い空のカミュとかいうノベルゲームを批判した。この作品はノベルゲームなので、シナリオライターによる意図とプログラマーによる作為に支配されている。諏訪さんの言葉を借りれば、『青い空のカミュは強力な必然性を持った「箱」である。それにも関わらずこのゲームでは全ての出来事には必然性が無い」という場違いな実存主義思想が表現されており、しかも具体例の出し方が非常に悪い。『青い空のカミュ』は、「メタへの意識を欠く」残念な作品そのものであった。
 

他にも、漫画やアニメには、登場人物が俺たちの力で運命を変えよう!」「未来は自分の力で切り開け!」と豪語するタイプの作品がある。しかし漫画やアニメも小説と同じように作者に作られた「箱」のようなものだし、漫画やアニメの登場人物も箱の中で作者にコントロールされた「操り人形」のようなものであろう。作者に運命の多くを操られ、セリフを言わされている駒のような登場人物が「運命を変える」「未来を創造する」とか言っても、説得力が足りない。登場人物にこの手のセリフを無防備に語らせる漫画やアニメも、「メタへの意識を欠く作品」だと言えるだろう。
 
メタへの意識が足りない物語は、諏訪さんが言う通り完成度が低い作品になりやすい。対する『アサッテの人』は、諏訪さんの「メタへの意識」「批評的自意識」に満ち満ちた作品である。しかし『アサッテの人』が優秀な作品かと言うと、私は正直「うーん微妙……」だと思っている。この小説には「メタへの意識」「批評的自意識」が強すぎるので、「物語の世界観に浸る楽しさ」が損なわれているのがいただけない。
 
小説やアニメのような物語の多くには、世界観に浸る楽しさが備わっている。しかし『アサッテの人』は世界の外側に出ようとする小説なので、世界の内側に楽しく浸らせて貰えない。たまにはこういう小説があっていいと思うけれど、『アサッテの人』は批評的自意識が全面に出ているせいで、小説よりも批評に近い文章になっている。
 
メタへの意識を欠く作品は小説ではないかもしれないが、メタへの意識が充満しすぎている作品もまた、マトモな小説になり損ねた批評もどきになる恐れがある。アサッテの人』はメタ的な野心が暴走しているせいで、少なくとも私が理想とする小説ではなかった。もっともこの小説は作為から身をかわそうとする作品なので、私の理想からもスルリとすり抜けてゆくのであろう。