『美少女万華鏡』シリーズ全体の総括と考察みたいなもの
『美少女万華鏡』シリーズ(全5話)は、 2011年に第1話が発売されて2020年に完結した。 このシリーズは、 テン年代の約10年間を駆け抜けた作品群である。『 美少女万華鏡』シリーズには、 もちろんテン年代的な感性が多分に投影されている。今回は『 美少女万華鏡』シリーズを総括しながら、 わりかし最近の世相について語ってみることにしよう。
『美少女万華鏡』全5話
原画:八宝備仁
シナリオ:吉祥寺ドロレス
2011年12月29日~2020年5月29日
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メディアとしての万華鏡
ホラー作家・深見夏彦は「人形の間」 という曰く付きの和室を訪問し、 座敷童の蓮華から不思議な万華鏡を受け取る。 夏彦が万華鏡を覗くとその中には他人の情事が映し出され、 様々な男女が愛の力で永遠に到達する過程が垣間見える。 蓮華の万華鏡は「現実と、夢の世界とを繋ぐ、誘惑の架け橋」 である。万華鏡を覗くと魅力的な夢が見られるので、 万華鏡を覗いた者には夢を見たまま現実に帰れなくなるリスクが付きまとう。
「人形の間」「座敷童」「万華鏡」 などの和風の要素に依存しているので、『美少女万華鏡』は「 和風伝奇」だと思う人が多そうである。 しかし作中に出てくる万華鏡は、 テレビやインターネットに近いアイテムであるように私には思える 。 厳密に言うと蓮華の万華鏡はテレビやインターネットとイコールだ とは言い切れないけれど、 かなりデジタルメディア的なアイテムであろう。
例えばテレビでは、アニメやドラマのような「夢=虚構の物語」 が毎日放送されている。 世の中には暇があればずっとテレビを付けて、 アニメやドラマの視聴に没頭している人が存在する。 蓮華の万華鏡を覗くと他人が演じる「夢」 を映像として見ることができ、 その夢に魅せられた者は現実に帰れなくなる恐れがある。 そのため、蓮華の万華鏡にはテレビに近い中毒性があると思う。 また、 TwitterのようなSNSを開くと他人の人生を覗き見ること ができるので、 万華鏡とインターネットも類比的だと言えるだろう。 ネットでもアニメやドラマとかが観れるしな。
第1〜4話までの所では、 万華鏡で夢を見ていた夏彦はちゃんと現実に帰ってくる。 そのため私は、『美少女万華鏡』は「 オタクは虚構のコンテンツに没頭せず現実に帰れ」 と説教するタイプの、 昔からありがちな作品なのかなと思っていた。 しかしラストの第5話に突入すると「夢/現実」 の区別が曖昧にされ、「現世に帰らず来世に転生する」 という非常に現代的な発想が表現されていた。
叶えられた(?)三島由紀夫の夢
夏彦は第5話の冒頭で、「胡蝶の夢」の話をする。中国の哲学者・ 荘子は、蝶になった夢を見た。 果たして荘子が蝶になった夢を見ていたのか、 それとも蝶が荘子になった夢を見ているのか。 こう考えると夢と現実の区別は曖昧であり、万物は変化する。
夏彦は幼少期から幽霊や妖怪に執着しており、 小説の執筆に没頭し妄想の世界に生きていた。 彼は夢見がちな子供の心を持ったままホラー作家になり、 ついに座敷童である蓮華に出会った。 彼は人間性が幼稚なので周囲の人々によくドン引きされていたのだが、現世に帰らず来世に転生することに成功する。
夏彦は生者と死者の境界をさまよい、 愛する蓮華と一緒に来世に転生することを決断した。 来世に転生した夏彦はプレイヤーの分身となり、 同じく転生して女子大生の姿になった蓮華と一緒に幸福な日常を送 ることになる。この結末には、「 実はゲームのプレイヤーたちも何者かが転生した姿なのではないか 」という問題提起が含まれているだろう。こうして夢と転生は、 一見すると恒久不変に思える現実に勝利したのである。
さて、『美少女万華鏡』 シリーズを大袈裟に持ち上げて評するならば、「 晩年の三島由紀夫が挫折した夢をある意味で叶えた作品」 だと言えるだろう。三島由紀夫は『浜松中納言物語』を読み、「 夢と転生によって現実を揺るがす思想」を発見した。 我々が当たり前だと思っている現実は、 夢を描くことによって作り変えられる可能性がある。 そして輪廻転生が可能ならば、恒久不変の現実は揺るがされる。 晩年の三島はこの問題意識から、夢と転生の物語である『 豊饒の海』シリーズを執筆した。
三島由紀夫(1925~70)
「もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののほうが不確定であり、恒久不変の現実というものが存在しないならば、転生のほうが自然である、と云った考え方で(『浜松中納言物語』は)貫ぬかれている。」*1
三島の『豊饒の海』の主人公は様々な姿に輪廻転生するのだが、 三島は執筆の途中で自分の思い通りにならない現実に悩んだ。 そして『豊饒の海』のラストでは夢と転生が挫折し、 静かな現実が勝利する。最期に三島本人も「 俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ」と言い残し、 壮絶な切腹自殺を遂げた。したがって三島は、「 夢と転生によって現実を揺るがす思想」 の確立に失敗したのだと私は解釈している。
三島が生きていた昭和の時代にはインターネットやヲタク文化が発 達していなかったし、 異世界転生というジャンルも確立されていなかった。 当時は今よりも「夢/現実」の区別がはっきりしていて、 夢よりも現実のほうが強かったのではないだろうか。 それにしても昭和の段階で「転生」 という題材の利点に注目した三島は先鋭的な感性の持ち主であり、 彼の人類には早すぎた発想が完全開花しなかったことが残念でなら ない。
一方『美少女万華鏡』第5話では夢と転生を貫徹することにより、 恒久不変の現実が解体された。『美少女万華鏡』 シリーズはそういう意味で「 晩年の三島がやろうとしたことをある意味で叶えた作品」であり、 三島の『豊饒の海』 シリーズの後継のような作品だと私は思っている。まあ、 こんな珍妙な解釈をしてるのは地球上で俺ぐらいなものだと思うけ どなw。
「現実に帰らない」思想
さらに『美少女万華鏡』第5話では、「現実(現世)に帰らない」 思想が表現されている。 夏彦が生者と死者の境界をさまよう終盤では、「元の世界に戻る/ 戻らない」という選択肢が執拗に表示される。 ここで元の日常に戻る選択肢を選ぶのは正解ではなく、 現世に戻らず来世に転生する選択肢を選び続けるとゲームが大団円 を迎える設計になっている。
第5話の夏彦は、 異世界と言うよりは「ゲームのプレイヤーと共有できる別の日常」に転 生したけど、転生前の世界には結局帰らなかった。 テン年代以降主流の異世界転生でも、「 異世界に転生した主人公がそのまま前世の日常に帰らない」 パターンが多い。『異世界おじさん』や『はたらく魔王さま!』 のような「パターン外し」も存在するけれど、近頃では「 現実に帰る」よりも「現実に帰らない」 ほうが現代的な考え方だと言えるだろう。
なぜ、テン年代ごろから「現実に帰らない」 思想が優勢になったのだろうか。その理由の一つとして、 ユーチューバー・ゲーム実況者・ライトノベル作家・ コスプレイヤーなど、「現実に帰らない(虚構重視の)職業」 で生計を立てられる世の中になったことが考えられる。 最近の子供はプロゲーマーやイラストレーターのような「 夢の延長のような職業」に憧れているという説があるし、 ゲーム配信やライトノベル執筆で副収入を稼ごうとする社会人も多 い。つまり現代では、「現実に帰らない」 ことが理想的な生き方になってきているのだろうと思う。
もちろんユーチューバーやライトノベル作家などの世界は非常に競 争が激しく、ちょっとしたミスで失脚するリスクもある。 他にも様々な理由で「現実に帰らない」 思想はツッコミ所の宝庫であり、私はどちらかと言うと「 現実に帰らない」よりも「現実に帰れ」を支持する立場である。 それにしても現代では、虚構重視の生き方にも一応勝算がある。『 美少女万華鏡』 第5話は座敷童と輪廻転生という古風な題材を活かしながら、「 現実に帰らない」現代の世相に応じていると思った。
「去勢の機能不全」社会
『美少女万華鏡』第4話には、礼次郎という高級官僚が登場する。 礼次郎は自分の子供が帝大に合格することを期待しており、 帝大に合格しない子供は家族の恥だと思っている。礼次郎は「 お役人と東大は偉い」という、 明治時代以降から生まれたエリート意識の象徴である。
しかし礼次郎は、 新聞記者やテレビ局のようなマスメディアが官僚よりも発言力を持 つ現代の風潮に不満を持っている。 大衆消費社会ではマスメディアが大衆の心を上手く掴めるので、 大衆を見下す礼次郎よりも活躍の幅が広くなりやすい。 さらに礼次郎は仕事が上手く行かなくなって埼玉に左遷され、 アル中になってしまう。つまり第4話では、 礼次郎のように旧弊な思想が通用しづらくなっている今時の世相が 風刺されているわけだ。
第4話では「非凡な人間による殺人を許可する」 ドストエフスキー思想が参照され、 礼次郎は二人の子供によって殺害される。なぜなら礼次郎の子供・ 夕莉と夕摩は天才だからだ。 夕莉は元アイドルで才色兼備の美少女だし、 夕摩も詩を愛する美少年である。 礼次郎は腐敗した父性権力なので、 二人の天才の生け贄になったのだ。
第4話は、「去勢の機能不全」を表現した作品である。 精神分析家は「万能であることをあきらめる」ことを「去勢」 と呼ぶ。幼い子供は「自分には無限の可能性がある」 という万能感を持てるけれど、 成長と挫折を経験するうちに万能感を喪失し、 社会性を身に付けていく。 しかしポストモダン以降の社会では成熟のための「去勢装置」 が機能しづらくなり、「万能感に満たされたチルドレン」 が放任されるようになるという説がある。
斎藤環(1961~)
礼次郎のような父親は、一昔前なら子供を成熟させるための「 去勢装置」として機能していたはずだ。 しかしテン年代では国家や官僚の権力が弱体化しているので、 礼次郎のような「去勢装置」も腐敗せざるを得ない。そのため、 社会性は無いけど天才的な子供たちが現実に帰らず、 自己を無限に増殖させる第4話の結末が導かれることになる。 第4話で描かれたポストモダン以降の風潮は、「 夢と転生によって現実を揺るがす」 第5話の基本理念と親和性が高いことは言うまでもあるまい。