かるあ学習帳

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『仮面ライダーセイバー』第46章が語る芸術作品の根源

仮面ライダーセイバー』(以下『セイバー』)は、特撮ヲタクの間で非常に評判が悪い作品である。この作品には10人以上の仮面ライダーが登場するのだが、明らかに無駄なライダーが多い。しかも現代・15年前・2000年前の出来事が複雑に絡み合う脚本が不親切で、手元にメモを用意しないと置いてきぼりにされるレベルだ。しかも主演俳優の内藤秀一郎さんがパチンコ通いや路上喫煙などをする素行不良の人物で、文春砲を食らって炎上したという話もある。『セイバー』は他にも悪名高い逸話に満ちているので、心の狭い人には絶対に勧められない作品である。
 
「嫌な作品は観なければいいじゃん」という言い回しがあるけれど、仮面ライダーは将来性のある新人俳優の登竜門のような番組であり、50年以上続く伝統もある。そのため芸能界の未来と特撮の歴史を知りたい私としては、仮面ライダーシリーズは「嫌でも観続けなければならない」のだ。それにしても『セイバー』は最終章とその一歩手前の第46章についてはとても良く、我慢して観た甲斐があったな」と思った。第46章は現役小説家の主人公と元詩人のラスボスが創作談義のような応酬をするという内容で、これはクリエイターなら(たぶん)観て損はしない回であろう。
 

「言葉が与えられている」という絶望

仮面ライダーセイバーに変身する主人公・神山飛羽真は、現役の小説家である。飛羽真は「滅びの塔」を駆け上がり、ラスボスであるストリウスに対面する。ストリウスは飛羽真に、自分はもともと詩人だった」ことを打ち明ける。
 
ストリウスは2000年前の世界でポエムを執筆していて、無我夢中で美しい文章を書く日々を送っていた。しかし彼の心に生まれる言葉は全て、「全知全能の書」と呼ばれる集合知から贈与された情報であった。自分の著作物が自分の創意から生まれたものではなく、自分が全知全能の書に文学作品を執筆させられている無力な駒に過ぎないことを知ったストリウスは、絶望した。ニヒリズムに陥った彼は闇堕ちし、物語のラスボスを演じることを決意したのである。
 

ストリウス
「2000年前、私もあなたと同じように言葉を紡ぎ・物語を綴る、詩人でした。言葉は次々と私の中に生まれ、私は無我夢中で美しい物語を書き続けた。そして、歴史に残る大傑作を書き上げたのです!でも、見てしまったのです……。」
 

ストリウス
「私が生み出した全ての詩は、全知全能の書に既に書かれていたのです。今まで創造したと信じたものは何もかも与えられたものだった。それを私はただ、書き上げただけだった……。人間に創造力など、無かったのです!
 

ストリウス
宇宙の真理に比べれば……人間など、ゴミ粒同然のちっぽけな存在!何も、変えることはできないのです!」
 

芸術家は捨て駒に過ぎない

さて、ストリウスの呪詛に満ちた告白を、我々はどう受け止めれば良いのだろうか?とりあえずストリウスが提示した論点は、詩人や小説家のような文学者は宇宙の真理に使役される駒なので嫌だなあ」ということであろう。
 
ストリウスの論点は私が目するところ、後期ハイデガーの芸術作品論と密接な関係を持っており、美学芸術学の根幹に関わる議題であると考えられる。後期ハイデガーも画家や詩人は自らの主体性によって創作するのではなく、自分ならざる霊感に促されるかのようにして真理を作品化すると考えた。つまりストリウスの思想は、後期ハイデガーにかなりよく似ていると言えるわけだ。
 
「芸術作品は、そのものなりの仕方で、存在するものの存在を開示する。作品においてはこの開示が、すなわち存在するものの露開が、すなわち存在するものの真理が生起する。芸術作品においては存在するものの真理がそれ自体を作品の内へと据える。芸術とは真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えることである。*1

「芸術家によって作品は、純粋に〈そのもの自体の内に立つこと〉へと解放されるべきなのである。ここで話題にしているのは偉大な芸術だけなのだが、まさにそのような偉大な芸術においては、芸術家のほうは作品に比して何かどうでもよいものにとどまる。芸術家は、創作にさいして作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなものとほとんど同じである。*2
 
ハイデガーは、「芸術とは真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えることである」と語っている。この奇妙な文言は、芸術はこの世の真理によって作られるものであって、芸術家の主体によって作られるものではない」ということを意味している。さらにハイデガーは、芸術家は大体作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなもの」だとまで豪語している。芸術を生み出すのはあくまでもこの世の真理なのであって、芸術家は真理によって芸術を作らされているだけの捨て駒に過ぎないというわけだ。芸術家は捨て駒なので、作品に比して何かどうでもよいもの」だという話にもなってくる。
 
ハイデガーは善悪や良し悪しが生まれる以前の真理を探求する傾向がある人だし、後期になってくると思想が人間中心じゃなくなってくる。一方セイバー』第46話はあくまでも創作論を芸術家視点で語っているし、芸術家が真理に使役される捨て駒だ」という説を元詩人の悪役に非常に不愉快な事実として解釈させている。
 
この第46話の脚本家・長谷川圭一さんがハイデガーに詳しい人なのかは私には不明だし、ストリウスが言う「真理」とハイデガーが言う「真理」には、厳密に言うとと違いがある。目ざとい人にはこの差異がかなり気になると思いますが、今回はアバウトな話で大目に見て下さい……)しかし、セイバー』第46話の内容には適当に看過できない根本問題が含まれているということが、ここまでの説明である程度伝わって欲しいなと思う。
 

人間は物語る葦である

飛羽真は人間はちっぽけな存在だ」というストリウスの説に一応同意した上で、物語には宇宙よりも広い無限の可能性が広がっている」と切り返す。飛羽真の話をよりわかりやすく言うと、ようは物理的な宇宙空間よりも人間の精神世界のほうが無限大の広さがある」ということであろう。まあ、作中の全知全能の書は、登場人物の心の中もコントロールしてるんだけどね……。
 

飛羽真
「確かに、俺達はちっぽけな存在かもしれない。……でも本の中には、この宇宙よりも広い無限の可能性が広がっている。人は本を読み、その物語の中で自由になり、幸せになれる。小さい頃、俺は独りで本ばかり読んでいた。その本の中で、色んな冒険をし、色んなものに出会った。そして、本は俺に友達をくれた。」
 
もしかしたら世の中には、「科学者や物理学者は高性能な望遠鏡で遠い惑星やブラックホール観察する派手な研究ができるけど、小説家や詩人のような文学者は原稿やパソコンに向かって文章を書いてるだけの地味な職業だ」と思っている人が存在するかもしれない。しかし、よく考えてみて欲しい。科学者や物理学者は望遠鏡や顕微鏡でマクロな世界やミクロな世界を研究できるものの、人の心の中の具体的な思考や空想を読み書きする能力は文学者よりも秀でているとは言い切れないだろう。
 

小説家や詩人は人の心の中を繊細に表現することができるし、非科学的な魔法や妖怪に関する文学作品を執筆することもできる。物理的な宇宙空間を研究するのは科学者や物理学者には到底敵わないけど、精神的な心象風景や非科学的な世界を探求するのは文学者の得意技であろう。人の心の中の世界の広さは数理的に測定できないものの、表現の自由の幅が広いので、無限の広がりを持っているのだ。
 

飛羽真
たとえ俺の物語が、何かに与えられたものだとしても、そんなのはどうだっていい!誰かが書いた物語が、思いが、それを読んだ人の中で、新しい物語として生き続ける。だから俺は物語を書く。だから俺は、本が大好きなんだ!」
 
かつてハイデガーは、芸術家を真理に使役されるだけの「何かどうでもよいもの」だと評した。そしてストリウスは、自分が真理に比べれば「ゴミ粒同然」であるという事実を呪った。後期ハイデガーやストリウスは、人間が真理に従属するという脱・人間中心主義」を認めていたわけだ。しかし飛羽真は「人間が真理に比べればどうでもよい」という事実を「どうでもよい」と反転させる。そして「脱・人間中心主義」人間中心主義」に反転させ、物語を読んだ人間の心の中の問題に話の軸を移動させたのだ!
 
人間は真理に隷属するだけの、どうでもよい存在かもしれない。しかし芸術家が真理に促されるかのようにして創作した物語でも、その作品が他人の心の中で生き続けるのならば、それでいいのではないだろうか?と飛羽真は考えた。人の心の中で物語が継承されるという事実こそが尊いと思えれば、人間が「どうでもよい」脆弱な存在であるという事実はどうでもよい」ものに転回する。ちなみに俺としては、飛羽真のように人間を擁護する思想よりも、人間を矮小化する思想のほうが反ってスカッとするんだけどなww(台無し)
 
ともかく人間は、自然界における脆弱な葦に過ぎない。しかし人間は、物語る葦なのである。

*1:ハイデガー(関口浩訳)『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー、二〇〇八、五三~五四頁。

*2:同上、五六頁。