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大江健三郎『洪水はわが魂に及び』考察:序~核と洪水と世界の終わり~

大江健三郎は日本で2人目のノーベル文学賞受賞者である。大江さんは大作小説『洪水はわが魂に及び』を執筆し、野間文芸賞を受賞した。しかしこの『洪水はわが魂に及び』、ちょっと手に入りにくい本なのである。それでもこの小説には名作の予感が漂っていたので、私はメルカリで上下巻の古本を入手した。試しに読んでみたらやっぱり面白かった。世界の終わりを思考し、人類の傲慢さを告発する超良作だったよ。
 

『洪水はわが魂に及び(上・下)』
新潮社
1973年9月30日発行
 

大洪水よ、ワイにかかって来いやあ!

まずは、この小説に名付けられた『洪水はわが魂に及び』という仰々しい題名について考察したい。私が買った古本には、大江さんと渡辺広士の対談が掲載された小冊子が付属していた。大江さんはこの対談で、旧約聖書のヨナ書で表現された「大洪水による終末」にインスパイアされて小説の題名を思い付いたと言っている。しかし私が目するところ、『洪水はわが魂に及び』という題名はマルクスの『資本論も元ネタになっていると考えられる。
 
「どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、誰でも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されないかぎり、労働者の健康や寿命にたいし何らの顧慮も払わない。*1
 
資本論』によると、会社のオエライサンは自分が大金持ちになれたらそれで良いと思っているし、労働者が病気になったり死亡したりしても気にしない。オエライサンは「大洪水という破滅」が自分に来なければええわいと思っており、自分が生きているうちに良い思いをした後で大洪水が来てくれよなとも思っている(以上、マルクス先生の説)日本左翼知識人の代表である大江さんが『資本論を読んでないとは到底考えられないので、大江さんはきっと『資本論』も意識してるに決まってると私は思う。
 

資本論に出てくる会社のオエライサンは自分が得をすることばかり考えており、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と、資本主義化した世界の破滅を考えるのを先送りにしている。そこで大江さんは人類の傲慢さを批判し、「大洪水よ、ワイにかかって来いやあ!」と言わんばかりに、世界の破滅を真剣に思考する。そうした大江さんのインテリとしての覚悟が、『洪水はわが魂に及び』という題名で表明されているというのが私の解釈である。
 

人類よりも優秀な存在への祈り

『洪水はわが魂に及び』の主人公は大木勇魚(おおき・いさな)という男で、この主人公がとんでもなく濃い奴なんだよw。勇魚は障害児の息子と一緒に、核シェルターの内部で仙人のように隠遁している。そして勇魚は鯨と樹木のための代理人を自認し、地球上の鯨と樹木に向かって交感(念波を送受信?)してるんですわ~(苦笑)
 
では、勇魚がなぜ鯨や樹木と交感してるのかを説明しよう。人類は今鯨を乱獲して絶滅の危機に追いやっているものの、核戦争が勃発したら人類よりも海に長時間潜れる鯨が生き残れる可能性が高い。そしてヒロシマナガサキに核爆弾が着弾した時、樹木は真っ先に再生した。勇魚は核シェルターの中で世界の終わりを思考する仙人なので、核戦争で人類が滅亡した後でも生存しそうな存在者として、鯨や樹木と交信し続けた。さらに勇魚は、鯨と樹木すら滅亡した後の状況もシミュレーションしている。
 

人間も鯨もふくめて、この地球上の大陸と海洋の、すべての哺乳類が死滅してしまって、樹木も枯れつくして、そして「次の者」がやってくる日のことを考えているんだよと勇魚は、いま見苦しいほどにも赤裸な好奇心を示して向ってくる第三者を聴き手としていることに、しだいに高揚感をいだいていった。おれはその「次の者」にたいして、これまでの地球の王は人間ではない、樹木と鯨だったんだと報告するつもりなんだよ。(中略)もちろん「次の者」は、人間をはるかに超えている者たちなんだから、そうしたことを口に出していう必要はないだろうがね。つまりそのようなことを考えつづけながら人間のひとりとして死滅すれば、それだけで「次の者」へとメッセージはつたわるんだよ。」(上巻,p.140)
 

世界が終末を迎えた後、地球上に「次の者」という上位種族が来訪すると勇魚はシミュレーションする。勇魚は世界の終わりが訪れても核シェルターの内部で生き残り、死に際には「次の者」に向けて鯨と樹木の偉大さを言い残そうとしていた。*2人類よ調子に乗るな。なぜなら人類よりも鯨と樹木のほうが偉大であり、「次の者」はおそらく人類を遥かに凌駕する存在なのだから。
 

純粋無垢な障害児

勇魚の息子はジンという名前で、ジンは障害児である。ジンは障害児なので、他の人類とマトモに会話することができない。しかしジンは五十種類以上の野鳥の声を識別する聴力を持っていて、天才児としても描かれている。ジンは人間界との交流を遮断し、自然界の声を受信する能力に特化した天才である。俗世間から核シェルターに隠遁し、自然界と交信する勇魚にジンという息子が加わることにより、脱・人間中心主義」的なこの小説のコンセプトがより明確になっている。
 

さらに興味深いことに、ジンは生まれてすぐ行った頭部の手術の影響で右目の視力が薄弱である。そのためジンは、片目で遠近法をみちびきこむ方法にも熟達していない」(p.29)という設定になっている。ここで私が思い出したのは、メルロ=ポンティ「表現と幼児のデッサン」みすず書房幼児の対人関係』所収)である。幼児や一時期のセザンヌは遠近法で絵を描かないらしい。しかし我々は遠近法という技法を「後天的に学ぶ」ことにより、遠近法で絵を描けるようになる。つまり裏を返せば、遠近法で世界を見ないということは「純粋無垢な物の見方」だといえるだろう。ジンの視点には遠近法が機能していないので、ジンは純粋無垢な天才児なのだ。
 
ジンのモデルは明らかに、大江健三郎の息子・光である。大江光も頭部に異常を持って生まれた障害児で、マジで野鳥の声を聴き分けられる天才作曲家でもある。大江さんは息子の特質を自分の小説に上手いこと絡ませていて、汚れた一般人よりも純粋無垢な自然児」を作品化するのに成功している。『洪水はわが魂に及び』を読んでいると、一般に「健常者」と呼ばれている人間のほうが障害児よりも凶悪で不健全な生物に思えてくるんだよな(笑)。
 
大江健三郎は障害児の息子が生まれた当初、『個人的な体験』を執筆して三島由紀夫に酷評された。この頃の大江さんは障害児が誕生したという絶望を上手く消化できず、自分の絶望をぎこちない形で作品化したからだ。しかし洪水はわが魂に及び』を読むと、大江さんは障害児の息子という題材を上手に料理しているし、息子の純粋さを愛していることがよく伝わってくる。大江さんが困難な育児を通じて人間としての器を大きくし、小説家としての筆力を向上させているのは一読者として頼もしい限りであった。

*1:佐々木隆治『マルクス 資本論』、角川選書、二〇一八、二八三~二八四頁。

*2:ちなみに勇魚は、樹木は「次の者」の時代まで生き残るかもしれないとも仮説を立てている