かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

大江健三郎『洪水はわが魂に及び』考察:急~不条理と抵抗と最後の挨拶~

この世界は不条理であり、この世界の不条理を直視できない者は不条理から逃げている。われわれは不条理な運命を見つめ、引き受けなければならない。そして不条理と戦うことを諦めず、暗夜を生き抜かなければならない。人生が無意味で不条理でも、その中で諦めずに抵抗を続けられたならば、それは素晴らしい人生だ。もしかしたら世界や人生をメタ的に見たら意味や必然性があるのかも知らへんけど、そんなの俺らにゃたぶんわかりっこない。みんな、この不条理で残酷な世界で、最後まで戦うんだ!。
 

『洪水はわが魂に及び(上・下)』
新潮社
1973年9月30日発行
 

同居する「60年代・70年代の世相」と「90年代的な想像力」

『洪水はわが魂に及び』の終盤では、主人公・勇魚と「自由航海団」が籠城する核シェルターが、機動隊に包囲される。裏切り者・「縮む男」が「自由航海団」の反社会的行為を通報したので、主人公サイドは四面楚歌の状況に陥った。そして機動隊が放水するわ鉄球をぶつけてくるわ爆撃してくるわで、核シェルターが総攻撃に晒される。この結末には、東大安田講堂事件やあさま山荘事件が発生した当時の世相が反映されていると言われている。
 
勇魚は核シェルターの内部に引きこもっているので、核シェルターの外側がどんな大惨事になっているのか把握できない核シェルターには放水車から発射されてるっぽい水が浸水してきて、大爆発の衝撃で核シェルターは大揺れだ。そこで勇魚は、もしかして核シェルターの外側では、大洪水や核爆発でも起こっているんじゃないか?」と思った。
 
この小説のラストは明らかに、宇野常寛の言う引きこもりセカイ系に接近した想像力で描かれている。『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象になった90年代には、碇シンジのように「逃げて引きこもる」主人公が支持された。そして世紀末には、身近な日常生活から一気に「世界の終わり」へとストーリーが飛躍する『終ノ空』みたいな名作も誕生した。洪水はわが魂に及び』の勇魚は核シェルターの内部に避難し引きこもり、ラストで世界の終末を予見した。もっとも勇魚はシンジのような形で「逃げて」はいないけれども。
 
ここまでの考察をまとめると、『洪水はわが魂に及び』は60年代・70年代の世相が如実に反映された小説でありながら、90年代的に流行った想像力を先取りしてもいることがわかる。大江健三郎の小説には、このように「昔風の泥臭さ」と「人類には早すぎた想像力」が同居しているパターンが多い。大江作品は非常に先鋭的な予言に満ちているんだけど、世界観や本の装丁などがイマイチ垢抜けないから人気が出ないんだろうなあ~(苦笑)
 

ご唱和ください、スベテヨシ!

「地上デハナニガ起ッテイルノカ?オレガ地下壕ニ潜ッタ後、核爆発ガオコッタカ、ソレヨリナオ巨大ナ地殻ノ変動ガオコッテ、地上ニハ津波カ大洪水ガオトズレタノデハナイカ核シェルターノ内部マデ、スデニ膝ヲコエルホドノ水ダカラ。」(下巻,p.245)

「オレハ鯨ト樹木ノ代理人ヲ僭称シテキタガ、イマ地上ニモソノ覇権ヲウチタテタ鯨ドモハ、水ノ上ニ梢ヲソヨガセル樹木ニタイシテトハ逆ニ、オレヲ一箇ノ敵ト見ナスダロウ。オレ自身ガソレヲ希望スルノダカラ。オレハ樹木ト鯨ヘノ、人類ノ兇暴ヲ告発スルコトヲ望ンデキタ。ソノヨウナ者トシテ、モットモ人間ラシク生得ノ兇暴サヲアラワシ、永年ノ考エノ正シサヲ証明シナケレバナラナイ。兇暴ナ抵抗ヲオコナウナカデ、最後ノ人類タルオレノ肉体=意識ハ、宙ブラリンノママ爆発シ、ソシテ無ダ。ソノトキコソ、鯨ヨ、キミタチハ、樹木ヨ、ホカナラヌキミタチニムケテ、スベテヨシノ大合唱ヲオクルダロウ。アリトアル葉ムラハ身ヲフルワセテ唱和スルダロウ、スベテヨシ!」(下巻,p.246)
 
カタカナだらけの長文がまくし立てられるように引用されてビビったかもしれないが、こういう迫力のある文章を凄い勢いで叩き付けるのが大江文体の特色である。「鯨と樹木の代理人を名乗る勇魚は世界の終末を予見し、自分が自然界の敵になることを望んだ。この小説で人類は自然環境を破壊する凶悪な存在として描かれており、勇魚は自然界の悪役を進んで演じることにより、人類の横暴さを告発する決断を下した。この小説の終わりは悲劇的に思えるけれど、勇魚にとっては望むところ、「すべてよし!」なのだ。
 

逃走するな、闘争せよ

大江健三郎サルトルカミュのフランス実存主義界隈をルーツとする作家である。『洪水はわが魂に及び』の結末でこだまするすべてよし!」という言葉は、おそらくカミュの『シーシュポスの神話』が元ネタであろう。新潮文庫版『シーシュポスの神話』を和訳した清水徹さんは大江さんの知人であり、大江さんと清水さんは岩波文庫の『狂気について』を共同編集した仲なので、大江さんは『シーシュポスの神話』をほぼ確実に意識していると私は予想する。
 

シーシュポスと言うのはギリシア神話に登場する「不条理な英雄」で、神々の逆鱗に触れた罰として地獄で労働することになった人物である。シーシュポスは休みなく岩を転がして山のてっぺんまで運ばなければならないのだが、山頂に達した岩は再び山のふもとまで転がり落ちる。シーシュポスは、「山のてっぺんに岩を運ぶ→山から転がり落ちた岩を回収しに行く→……」という無限地獄無限ループを繰り返している。しかしシーシュポスは、自らの運命を「すべてよし!」と肯定した。
 
オイディプスの場合も同じだ。オイディプスは、はじめはそれと知らずに運命にしたがう。かれが運命を知った瞬間から、かれの悲劇ははじまる。しかし、まさにその同じ瞬間に、盲い絶望したかれは、自分をこの世界につなぎとめる唯一の絆が若い娘のみずみずしい手であることを知る。このとき、途方もない言葉が響きわたるのだ、「これほどおびただしい試練をうけようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、すべてよし、と」。*1
 
『シーシュポスの神話』では、自分の運命が悲劇であり自分の人生が絶望であることを知った英雄が、自らの生を「すべてよし!」と肯定する様子が表現されている。カミュ運命が不条理であることを完全に受け入れ、尚且つ不条理な運命に諦めず反抗せよ」という思想を持っていた。そしてカミュは、「人生は無意味であればあるほど、よりいっそうよく生きられる」という思想も持っていた。これらの思想は一見すると非常に不条理であるため、初見の人はかなり困惑するかもしれない。
 

「以前は、人生を生きるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。ところがここでは反対に、人生は意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思えるのである。ひとつの経験を、ひとつの運命を生きるとは、それを完全に受入れることだ。ところで、この運命は不条理だと知っているときには、意識が明るみに出すこの不条理を、全力をあげて自分の眼前にささえつづけなければ、ひとはこの不条理な運命を生きぬいてゆくことができぬであろう。この不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げだすことだ。意識的反抗を廃棄することは、問題を回避することだ。永久革命の主題がこうして個人の経験内に転位されることになる。生きるとは不条理を生かすことだ。不条理を生かすとは、なによりもまず不条理を見つめることだ。*2
 
世の中には自分の人生の意味を考えている人が存在するし、自分の人生に物語のような一貫性を期待する人も存在する。しかしもしも自分の人生は実は無意味であり、自分の人生の実態はグチャグチャで不条理なものだったとしたら、どうであろうか。もしそうだったとしたら、自分の人生に意味や条理を望む人間は「不条理を回避している」ことになる。自分の人生が実は無意味で不条理ならば、その無意味と不条理を英雄的に引き受けてみよう。そして無意味と不条理から逃げずに、運命と戦う人生こそがすべてよし!」と言えるような、素晴らしい人生なのである。
 
無意味で不条理な労役を繰り返すシーシュポスは、物語の結末ですべてよし!」と判断した。この世が地獄で人生が虚無でも、不条理な抵抗を続けた英雄は幸福であり、夜に満たされた世界は光り輝く。『洪水はわが魂に及び』の結末で勇魚は核シェルターから飛び出し、シェルターの外にいる機動隊と闘争した。死に際の勇魚が見たものは虚無だったけど、だからこそ、全ては肯定されたのである。
 

「揚げ蓋がひきあげられる。昏れた地上の光のうちに鯨の皮膚のように青黒いものを一瞬見ただけで、撃ちこまれるガス弾に眼をつむり、勇魚は引金をしぼる。(中略)すべては宙ぶらりんで、そのむこうに無が露出している。「樹木の魂」「鯨の魂」にむけて、かれは最後の挨拶をおくる、すべてよし!あらゆる人間をついにおとずれるものが、かれをおとずれる。」(p.246)
 
〈関連記事〉
「この世が地獄で人生が虚無でも、不条理な抵抗を続けた英雄は幸福だ」という説は、人生が上手く行っていない負け組のやせ我慢自己欺瞞だと思われるかもしれない。しかし「幸福」と「幸運」は別物だという説がある。気になる人は上記の考察に目を通してくれよな

*1:カミュ清水徹訳)『シーシュポスの神話』、新潮文庫一九六九、二一四~二一五頁。

*2:同上、九五~九六頁。