かるあ学習帳

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『終ノ空』考察~水上行人と若槻琴美~

今回は『終ノ空の主要登場人物である水上行人と若槻琴美について考察する。行人と琴美は幼なじみの関係である。狂気に陥った卓司やざくろとは対照的に、行人と琴美は正気の人間である。そして行人と琴美は、世界の終わりが到来しないことを信じたい側の人間でもある。
 

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終ノ空
シナリオ:SCA-自
原画:SCA-自、基4%、にのみー隊長
1999年8月27日発売
 

水上行人について

 

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水上行人は、ダラダラするのが好きな少年である。学校の授業をよくサボる。読書が好きで、カントの『純粋理性批判』などを読んでいる。しかし行人は、いざという時には頼りになる男でもある。世界の終末を信じる間宮卓司一派に対抗し、ヒロイックに奮闘する。
 
『終ノ空』公式サイトによれば、行人は「理性的な少年。だがそれ故に理性の限界を知っている」という。なぜ、理性的な人間は、理性の限界を知ることになるのか。その答えは、行人が愛読する『純粋理性批判』を読めばわかる。
 

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 人間的理性はその認識の或る種類において特異な運命をもっている。それは、人間的理性が、拒絶することできないが、しかし解答することもできないいくつかの問いによって悩まされているという運命であって、拒絶することができないというのは、それらの問いが理性自身の本性によって人間的理性に課せられていからであり、解答することができないというのは、それらの問いが人間的理性のあらゆる能力を越え出ているからである。*1
 
カントによれば、人間の理性は、推論に推論を重ねた末、一切の物事の根本にさかのぼろうとする。理性は答えの出ない根本問題を目指して、ときに暴走する。理性的な人間は理性的であるがゆえに、理性を働かせているうちに、解答することができない根本問題に悩まされる。理性的な行人は理性的であるが故に、理性の限界に直面する運命を担っている。
 
理性の限界を知っている行人がカントのアンチノミー論に心惹かれ学校の屋上で終ノ空を見ることになるのは当然の成り行きだろう。暴走した理性は答えの出ない根本問題を作り出し、答えの出ない根本問題がアンチノミー論では吟味される。終ノ空は、〈ある〉ことと〈ない〉ことの対立が終わる場所である。アンチノミー論と終ノ空は、理性の限界と密接に関わっている。
 
行人は、宇宙の始まりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えないことを『純粋理性批判アンチノミー論から教わる。そして行人は、「〈ある〉ことと〈ない〉ことは対立するように見えるのだが、実は同じものなのではないか?」と思うようになる。
 

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 んな感じで、俺は、宇宙のはじまりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えない。どちらも論理的矛盾をかかえているからだ。
 この様に、人間には、世界の根元の部分で決して語りえない、証明不可な部分がある。

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行人「〈ある〉という事と〈ない〉という事…
行人「もしかしたらこの対立するように見えるものは所詮表裏一体、同じもんなんじゃないかなぁ
行人「だからどちらを答えても…」
行人「対立してるもの」
行人「対になっているもの」
行人「それ以外のもの」
行人「…」
彩名「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない
 
行人は卓司と共に、アンチノミー的な場である終ノ空を見上げた。行人は理性の限界に直面しても、その限界を超えようとしない。行人は彩名に、「立ち止まる者」「見つめる者」と評されている。理性の限界で立ち止まり、世界を見つめる者。それが行人だ。形而上学的な根本問題を、行人は語り明かそうとしない。「語り得ぬことについては、沈黙しなくてはならない」。ウィトゲンシュタインの言葉の意味を、行人は思索する。
 

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彩名「ゆきとくんは卓司くんとまったく違う生き方をしている」
彩名「でもそれは、まったく違っていながら」
彩名「裏、表の逆でしかない」
彩名「それは、立ち止まる者と立ち止まらない者」
彩名「見つめる者と食らう者」
(中略)
彩名「ゆきとくんはここに立っている
彩名「ずっと
彩名「ここに立って
彩名「見つめている
卓司「なにを?
彩名「世界を…
卓司「世界?
彩名「そう、卓司くんが捨てた…もの
彩名「世界のすがたを…
彩名「そうして彼は消えていく」
彩名「何もない…」
彩名「無のなかに」
彩名「彼は消えていく…」
彩名「何の意味もなく、何の理由もなく」
彩名「ただ」
彩名「ただ、消えていくの」
 

若槻琴美について

 

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若槻琴美は、一見すると快活な少女である。行人とは幼なじみで、実は行人のことが好き。数学と物理の成績が行人よりもずっと低いらしいが、他は文武両道の優等生である。剣道部に所属しており、後輩のやす子に慕われている。高島ざくろの自殺に心を痛める。琴美は弱虫な心を押し隠して強がるタイプで、琴美視点の時には彼女が人知れず抱える悩みが明かされる。
 
琴美はクラスメイトたちが噂する友達の自殺や世界の終わりの話に、上手く馴染むことができないでいる。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。
 
琴美には現世でやりたいこと(欲望)や、やらなきゃいけないこと(義務)がたくさんある。死や世界の終末は、現世でするべき行為の遂行を中断させてしまう。琴美には現世でするべき行為がたくさんあるので、琴美は終末感に満ちた教室の雰囲気に適応することができない。琴美はあくまでも現世……この世界の住人なのだ。
 
そして琴美は、幼なじみの行人とずっと一緒にいたいと思う。だから琴美は、行人と離別することを恐れる。するべき行為に満ちた現世。常に側にいる幼なじみ。それらは琴美にとって大切なものだ。だから、琴美は死や世界の終末を拒絶するのだ。
 

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 行人も、どこかにいっちゃうのかなあ…。
 そうだよね…、
 行人にとってわたしは…、
 いつまでも弱虫な…、
 心配ばかりかける…、
 幼なじみ…。
 いつか…、
 行人が、わたしから去って行く時に…、
 笑顔で見送れるようにしようと…、
 がんばってるんだけど…、
 でも…、
 だめ…、
 もし、行人がわたしの前から消えたら…、
 わたし…、
 笑顔でいられない…。
 泣いてしまう…。
 たぶん…、
 また、一人で泣いてるんだろうなあ…。
 なにも出来ずに…、
 ずっと…、
 ずっと…一人で…。
 まだ震えが止まらない…。
 こわい…。
 こわいよ…。
 世界は…、
 終わらないよね。
 
琴美には幼い頃、飼い犬のジョンが死んだ時の思い出がある。幼い琴美は死んだジョンの魂を求めて、家の外を探索した。琴美は世界の時間的な終わりだけでなく、空間的な終わりも否定する立場を取る。琴美が幼い頃の原風景は、世界の空間的な終わりを否定する根拠になっている。
 

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行人「たしか、あの時お前、ジョンの魂を探しに行くんだとか言って」
琴美「そう、ジョンの魂を取り戻せば、ジョンが生き返るって思ってて…」
行人「取り戻すって」
行人「お前、あの時どこに行こうと思ったんだ?」
琴美「わかんない…」
琴美「ただ…」
琴美「いつもその先を越えられない大きな坂があって…」
琴美「それを越えたらたぶん、ジョンの魂があるって…」
行人「大きな坂?」
琴美「うん、学校に行く途中の…」
行人「あれって、そんなに大きかったか?」
琴美「今はそうでもない…でもあの時は」
琴美「子供の時はものすごく大きく感じた」
琴美「これは世界の果ての壁なんだって思ってた
琴美「これを上り切ったら世界の果てなんだって
琴美「でも、違った…
琴美「その坂を上り切ったら
琴美「その先にもここと同じ街があった
琴美「その先にも坂があって、その先にも…
琴美「永遠に街が続いていた
琴美「世界に果てはないんだって、その時気が付いたの…
 
琴美は、いくら先に進んでも、死んだジョンの魂を見付けることができなかった。琴美は、いくら先に進んでも、世界の果てに辿り着くことができなかった。琴美が見出だしたものは、永遠である。どこまで先に進んでも、永遠に街が続いているだけだ。だから琴美には世界の果てはなく、琴美は永遠に広がる世界を信じる。永遠の広がりの中の有限な点として、琴美は生きる。
 
〈12/23追記〉
1999年版『終ノ空』考察解説まとめです。良かったらどうぞ。

*1:カント(原佑訳)『純粋理性批判・上』、平凡社ライブラリー、二〇〇五、二五頁。

僕は…君に…『終ノ空』の話を…してあげよう…。

いきなり暗い話題で恐縮ですが……今年は新型の疫病が流行したり、芸能人が相次いで自殺したりと、穏やかではない年ですね。こういうご時世になると、私にはプレイしたくなるゲームがあります。そのゲームの名は終ノ空。『終ノ空』は、世界の終わりや集団自殺を描いた、この世の深淵のような18禁ゲームでございます。
 

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終ノ空
シナリオ:SCA-自
原画:SCA-自、基4%、にのみー隊長
1999年8月27日発売
おすすめ度:★★★★☆哲学と電波の嵐に耐えられるなら傑作だと思う)
 
終ノ空』は、『さよならを教えて』『ジサツのための101の方法』と共に「三大電波ゲー」と呼ばれている18禁ゲームです。この三つのうち『さよ教』『ジサツ』は中古でも高額なプレミア価格が付いています。金銭的な余裕がないと中古でも手を出しにくい『さよ教』『ジサツ』と比べて、『終ノ空はそれほど価格が高騰しない傾向があります。
 

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試しにAmaz○nで『さよ教』の最低中古価格を調べてみると……なんと49,800円。いくらPCゲームとは言え、ゲームソフトでこの値段は凄いですよね。
 

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そして『ジサツ』ですが、「ゲーム博物館」さんでは72,600円で売られていました……。Amaz○nや駿河屋では、中古でも販売されていない状態でした。実は『さよ教』ダウンロード販売だったら格安で購入できるのですが、『ジサツ』は今のところダウンロード販売されていません。そのため『ジサツ』は極めて入手困難だと言えるでしょう。
 

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さて、我らが『終ノ空』のAmaz○n中古価格は、再低で21,330円廉価版だと9,150円でした。『終ノ空でもじゅうぶん高いやんけ!とツッコミを入れられそうですが、『さよ教』『ジサツ』よりは手に入りやすいですね(オイ)。
 

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終ノ空』は、SCA-自氏の代表作『素晴らしき日々不連続存在~』の前身になった作品でもあります。終ノ空の登場人物やストーリー展開の多くは、『すば日々』に継承されています。『すば日々』で反響が大きかった間宮卓司の視点から見える狂気の世界は、『終ノ空』でも大きな見せ場になっています。
 
こうした価格や内容の事情から、終ノ空は三大電波ゲーとSCA-自作品の入門用としておすすめできる作品です。
 
終ノ空』は『すば日々』に吸収され乗り越えられた印象が強いですが、『すば日々』にはない『終ノ空』の個性はけっこうあります。
 
終ノ空』では、カントの『純粋理性批判におけるアンチノミー論が重要な役割を担っています。終ノ空の水上行人は、宇宙の始まりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えないことをアンチノミー論から教わります。そして行人は、「〈ある〉ことと〈ない〉ことは対立するように見えるのだが、実は同じものなのではないか?」と思うようになります。前期ウィトゲンシュタインだけでなくアンチノミー論を素材にして世界の限界に挑もうとしているところが、『すば日々』にはない『終ノ空』の特徴だと思います。
 
 んな感じで、俺は、宇宙のはじまりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えない。どちらも論理的矛盾をかかえているからだ。
 この様に、人間には、世界の根元の部分で決して語りえない、証明不可な部分がある。

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行人「〈ある〉という事と〈ない〉という事……」
行人「もしかしたらこの対立するように見えるものは所詮表裏一体、同じもんなんじゃないかなぁ
行人「だからどちらを答えても…」
行人「対立してるもの」
行人「対になっているもの」
行人「それ以外のもの」
行人「…」
彩名「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない
 

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ゲーム『素晴らしき日々~不連続存在~』より
また、『終ノ空』と『すば日々』は文体にかなり違いがあります。『すば日々』では「DQNや「購入厨」などのネットスラングが多用されていますが、『終ノ空』にはそうしたネットスラングがほとんど見られません。終ノ空』の硬めの文体のほうが、『すば日々』の砕けた文体よりも人によっては合うかもしれないと思います。
 
最後になりますが、今年の12月25日に『素晴らしき日々不連続存在~ 10th anniversary特別仕様版』が発売されます。この特別仕様版には、なんと1999年版『終ノ空とリメイク版『終ノ空』、『終ノ空リミックスCDが収録されています。2万円近くする商品ですが、終ノ空の中古価格と照らし合わせるとお買い得な値段に思えます(ダイマ)。興味がある方は、この機会に購入を検討してみてはいかがでしょうか?(宣伝乙)。
 
注:本稿に書かれている商品の中古価格は、変動する可能性が非常に高いです。悪しからず。また、今回は浅い解説になりましたが、次回から本気で『終ノ空』を考察します。今回はそのイントロダクションだと思って下さい。悪しからず。

ミヒャエル・エンデ『モモ』を最後まで読んだ。

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『モモ』

1976年初版発行
 

「時間節約」批判

 

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ミヒャエル・エンデの『モモ』には、「灰色の男たち」という不気味な侵略者が登場します。灰色の男たちは巧みな弁舌で町の人々をまるめこみ、時間を節約するよう説得します。人間が節約した時間は灰色の男たちが奪い、灰色の男たちが利用します。灰色の男たちは、言うなれば人々から時間を騙しとる詐欺師のような連中です。
 
灰色の男たちに説き伏せられて時間を節約している人々は、心に余裕が無くなります。他人との交流やペットの世話、家事などにかける時間を節約しているうちに、生活に豊かさが無くなっていきます。効率的に考えたら無駄な物事の中には、豊かさをもたらす物事があります。時間を節約することに気を取られていると、様々な豊かさを失ってしまうのです。
 

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 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
(中略)
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。(p.95)
 
『モモ』の作中では、時間を節約することがネガティブに表現されています。ただ、時間を節約するのは、『モモ』で描かれているほど悪いことなのか?という思いが私にはありますね。無駄な物事の中には本当に無駄で厄介なだけで、ろくな豊かさをもたらさない物事があると思います。本当に無駄で害悪なだけの物事にかける時間は、潔く節約した方が良いと私は思いますね。
 

「役に立つ」ことの貧しさ

 
町の大人たちが時間を節約するにつれて、子どもたちも時間を節約するようになります。子どもたちは効率的に考えたら無駄な遊びをしなくなり、「将来の役に立つ」遊びをするようになります。子どもや若者に「将来の役に立つ」ことをむやみに推奨する風潮に対する風刺が利いていると感じて、素晴らしいと思いました。
 

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 「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうにききました。
 「そんなことは問題じゃないのよ。」と、マリアがおどおどして言いました。「それは口にしちゃいけないことなの。」
 「じゃ、なにがいったい問題なの?」
 「将来の役に立つってことさ。」とパオロがこたえました。(p.287)
 
インターネットを徘徊していると、「文学や哲学は役に立つのか?」「大学の文学部の勉強は将来の役に立つのか?」といった議題で議論が交わされているのをたまに見かけます。文学や哲学が役に立つのか?」という問いに対する答えはさておき、「役に立つのかどうか」という尺度で物事を判断すると心や生活が貧しくなると私は考えています。
 
文学が役に立つ、文学が役に立たないと断定するのはともかく、文学を読むのは(人によるとは思うけど)楽しいし面白い。そして、文学を読むと(これも人によるとは思うけど)心が豊かになる。こんなに面白い文学を「将来の役に立たないから」という理由で切り捨てると、人々の心や生活が貧しくなる。文学や哲学にかける時間を「役に立たないから」節約しようとしている人々は、灰色の男たちに洗脳された人々のように貧しいものの考え方をしているように思えてなりません。
 

二項対立の解体

 
『モモ』の文末には、作者=ミヒャエル・エンデによる短いあとがきが書いてあります。エンデによると、『モモ』の物語は自分独自の作品ではなく、他人から聞いた話をベースにして書かれたものだそうです。
 

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といいますのは、白状しますと、この物語はわたしがひとから聞いたのを、そのまま記憶どおりに書いたものだからです。わたしはじぶんではモモとも、その友だちとも、ぜんぜん会ったことがありません。(p.354)
 
そして、エンデに『モモ』の物語を教えてくれた人物によると、『モモ』は過去の出来事ではなく未来の出来事として語っても良いそうです
 

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 「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」(p.355)
 
『モモ』のあとがきを読むと、『モモ』が「エンデのオリジナル作品なのか/エンデではない他人の原作なのか」、「現実に起こった話なのか/フィクションなのか」、「過去の話なのか/未来の話なのか」の区別が曖昧になります。『モモ』のあとがきには、「自作/他作」「現実/虚構」「過去/未来」……といった二項対立を解体する効果があると解釈できると思います。
 
 
……私の『モモ』読書記録は以上です。対戦ありがとうございました!!