かるあ学習帳

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ポケモン映画の歴史を語る~『ミュウツーの逆襲』から『ココ』まで~

自分のブログだから思い切ったことを言わせて下さい。ポケモンは「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」に続く「第四の社会現象」だと私は思っています。SF色の強い「ヤマト」ガンダム」「エヴァ」とポケモンは作風が異なりますが、ポケモンというコンテンツは90年代後半から大きな経済効果を出し続けている社会現象だと思う。

ゲーム版ポケモンはオンライン対戦に奥深い戦略性があり、対戦を考察する価値があります。はてなブログとかにはポケモンの対戦を濃密に考察するブロガーが大勢存在していて、ポケモンの対戦考察は一群のコロニーが出来上がっていると思う。そして私が観た限り、劇場アニメ版ポケモンも完成度が高い作品が多く、本気で考察するに値すると思います。でもその割にはポケモン映画を真剣に考察している人が意外に少なくて、これは勿体無いなと思ってる。
 

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今回は20年以上の歴史を持つポケモン映画を一気に振り返ってみようと思います。なお、『ビクティニと黒き英雄ゼクロムと実写映画『名探偵ピカチュウ』は、振り返りの対象外とします。
 
1998年『ミュウツーの逆襲』
この映画は陰鬱で難解な作品で、いい大人になってからようやく楽しめるようになりました。ミュウツーは優秀な遺伝子を持つポケモン界のエリートなのですが自分探しの真っ只中にいる思春期の少年みたいな所があると思います。その一方でニャースは挫折を経験して社会性を身に付けた苦労人で、この映画の外野に位置する大人なんだよね。その違いが面白くて、私はミュウツーよりもニャースに焦点を当てて考察しました。考察が頭の良い人に批判されたから、この映画の考察は何度も書き直すことになりました。
 
ミュウツーの逆襲』考察の補論として、「ニャースのあいうえお」と『ミュウツー!我ハココニ在リ』の考察も書きました。前者はニャースの考察をさらに掘り下げたもので、後者はミュウツーの考察をさらに掘り下げたものです。ミュウツー!我ハココニ在リ』は、子供向けのTV版エヴァみたいな作品でしたね。
 
1999年『幻のポケモン ルギア爆誕
この映画はサトシの英雄的な冒険を壮大なスケールで描いた作品でしたが、ラストが恐ろしく挑戦的でしたね。ラストでサトシのママが現れて、脚本家の思想が露骨に反映されたお説教をするんです。脚本家がサトシのママの口を借りて語る共生思想がかなり一般論から外れていて、私は正直反感を覚えました。サトシのママの爆弾発言については記事のコメント欄でかなり長い討論になりましたが、建設的な話し合いができて嬉しかったです。この映画のラストでは親が子供に勝ち、自己保存が自己犠牲に勝ちます。
 
2000年『結晶塔の帝王 ENTEI』
この映画はフロイトラカン精神分析みたいな題材を扱っていて、正直自分には満足に論じきれなかった。前作『ルギア爆誕でサトシに勝利した親と自己保存が、この映画では明確に敵に回ります。サトシのママとエンテイという両親と、自己保存に専心する引きこもりのミーが、サトシ達の敵になってる。この映画で出された結論は「現実に帰れ」と言うもので、自己犠牲によって破滅するのでもなければ自己保存によって引きこもるのでもない、中間択だと思います。
 
『結晶塔の帝王』考察の副産物として旧劇場版エヴァの考察を書きましたが、この考察は異様に反響が来ましたね。首藤剛志さんはエヴァが問題にしたテーマをポケモン映画で上手に継承した脚本家だと思います。主題的にも、ポケモンエヴァに次ぐ社会現象だと思うんだよなあ。
 
2001年『セレビィ 時を超えた遭遇』
この映画から、メインの脚本家が首藤さんから園田英樹さんに交代になります。脚本家が新しくなっただけでなく、目新しい展開も色々盛り込まれていました。エコロジー思想が反映された世界観、邪悪の極みのような悪役、ポケモンの死…斬新で強烈なストーリー展開が衝撃的な作品でした。この映画は優秀な作品なんだけど、タイムスリップという要素を取り入れた弊害でシナリオに怪しい所があったな。そこが惜しかった。
 
2002年『水の都の護神 ラティアスラティオス
この映画は園田脚本ポケモン映画で最初の傑作だと思います。ヴェネツィアのような美しい水の都やアコーディオンの音色が、この作品ならではの世界観を演出していました。ラストのキスシーンは解釈が分散するように描かれていて、オチが秀逸だと思います。シナリオが破綻無くまとまっていて、完成度が高い作品でした。私は子供の頃この映画が凄く好きだったのですが、今改めて観ると何だか静かで大人しい映画だなと思った。
 
2003年『七夜の願い星 ジラーチ
この映画はテーマ性がメチャメチャ明快で、非常に出来が良いと思った。ジラーチの能力や願い星といったギミックを活用して、「自分の願いとどう向き合うか」というテーマが重厚に描かれていました。不正な仕方で自分の願いを叶えようとする「大人への戒め」と、自分の願いを自分で叶えようとする「子供への促し」が、この映画では両立してる。映画の外野に飛ばされたロケット団が、映画のテーマをメタ的に超越した発言をする所も良い。林明日香さんによるエンディング曲も素晴らしいと思いました。
 
2004年『裂空の訪問者 デオキシス
この映画は過小評価されていると思う。この映画は冗長な感じがするんだけど、世界観に奥行きがあるんです。「宇宙人」であるデオキシスと「怪獣」であるレックウザの、大規模な戦闘。混乱した都市で奮闘する群衆。そしてトラウマを抱えた個人の救済。物語の倍率がマクロな視点・社会的な視点・個人的な視点に自在に推移していて、描写に奥行きが感じられるんだよね。デオキシスは「侵略者」でもなければ「破壊者」でもなく、題名の通り「訪問者」だったなと思います。
 
少年が憧れる「中二・友情・歴史」が、この映画には満ちていました。この映画では前作『裂空の訪問者』に引き続き、悪役や敵と呼べる存在が登場しません。しかし、この映画は冒険活劇としてしっかり成立していて、「ポケモン映画は悪役不在でも成功できる」という良い範例になっていると思います。この映画に出てくるルカリオは「従者」として仕えるのではなく友情を学び、『破壊の繭とディアンシーに出てくるディアンシーは「君主」として振る舞うのではなく友情を学ぶんだよな。
 
この映画は悪い所が特に見付からなかったんだけど、不思議と影が薄い映画だなと思いました。前作『ミュウと波導の勇者ルカリオ』は少年向きの冒険譚で、この映画は少女の母性を描いた作品って感じ。この映画についてはあまり言いたいことが無いな…。
 
「神々の戦い」三部作

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すまん。この「神々の戦い」三部作については、気の利いた言葉がマジで出て来ない。この三部作は、尺が異常に長い割には建設的な考察が全く思い浮かばない映画でした。ダークライ』の考察は無理矢理書きましたが、反響が案の定あまり良くなかった。『アルセウスの内容は個人的に気に入らなくて、良くなかった点を素直に書いたら、怒られが発生した(笑)。この三部作の考察は公表すると危害が発生する恐れがあるので、非公開にしました。誰かこの三部作について気の利いたことが言える人、もしおられたら助けて下さい。
 
2010年『現影の覇者ゾロアーク
この映画は傑作。ミュウツーの逆襲』はクローンという複製技術を扱った映画でしたが、この映画は映像という複製技術を扱ってる。幻影を操るポケモン映像メディアを支配する悪役、映像によって真相を報道したジャーナリストなど、「映像」に関するギミックがてんこ盛りの映画でした。この映画は映像を発信する側のモラルを問う作品で、そこが今観ても新鮮なんだよね。『時を超えた遭遇』に続いてセレビィが登場し、自然環境や時間操作に関するモラルを問う映画だったとも言えるかな。
 
2011年『ビクティニと白き英雄レシラム』
この映画もなかなか優秀な作品でしたね。この映画では「正義VS正義」の戦いが描かれていて、「善人VS悪党」の戦いや「悪役不在の冒険活劇」とは違った方向性が志向されているんだよな。限界によって包囲された空間」を描くことが多かったテン年代の風潮も、この映画には反映されていると思う。さらに、脚本家の思想が「海」と「空」と「大地」に投影されている所が良い。特に空が理想の象徴で大地が現実の象徴という見立てが上手いなーと思った。
 
この映画はポケモン映画15周年記念作品なんだけど、えらく問題作だったなと思う。人間ではなくポケモン主体のストーリー展開、徹底化された悪役の除外、パワーアップした主役の敗北、「敗北しても成長する」という異形のメッセージ。この映画は、「人間の主人公が冒険して悪の組織と戦ったり、味方のポケモンを勝利によって成長させたりする」という原作ゲームのコンセプトを逸脱しているんだよ。もしかしたらこの映画の制作サイドは、ポケモンというコンテンツが15年間かけて築き上げたのとは違った面白さを狙ったつもりなのかもしれないね。この映画はファンに忌み嫌われているけど、考察する身としては論じ甲斐のある作品でした。
 
この映画は悪くないと思いますが、「コレジャナイ感」が強い。特に、ミュウツーの声が女性で、丁寧口調で喋るのには物凄く違和感がある。ミュウツーの声は市村正親さんによる傲慢な語り口のイメージが強いから、この声はコレジャナイだろうと思いました。この映画のミュウツーは性格も市村ミュウツーとかなり異なっていて、新しいミュウツー像を開拓しているとは思う。また、この映画ではみんなエコシステムに共生する仲間だということが表現されていて、その環境思想が次回作に繋がっているとも思う。それにしてもこの映画と前作『ケルディオ』は、受け手の期待にそぐわないものを作り手が作ってる感が凄い。
 
この映画はかなり過小評価されていると思う。この映画では善悪の対立が描かれていて、尚且つ善玉サイドと悪玉サイドの内部で複雑な力関係が発生している。善玉サイドではディアンシーとサトシ達の間で上下関係が水平関係に移行しており、悪玉サイドでは分立する悪党の実力が拮抗している。この映画の終盤では善悪を超越した無差別な破壊と再生が描かれている。そして破壊と再生が対立する概念として描かれていなくて、一連のサイクルとして捉えられている。この映画は高度な作品なんだけど、その凄さが伝わりにくいのが残念です。
 
2015年『光輪の超魔神フーパ
この映画は伝説のポケモンが大量に出てくる賑やかなお祭り映画で、しかも社会風刺的なテーマも仕組まれていて良かった。この映画に出てくるフーパは「遠くのものを手元に持ってくることができても、自分は遠くにワープできない」という能力を持っています。フーパの能力から、インターネットショッピングなどで遠くのものを気軽にお取り寄せできる現代社会を私はイメージしました。しかしサトシは遠くのものを取り寄せるのではなく、自分からポケモンマスターに「なる」ことを目指します。自分から「なる」姿勢が退化した現代人への提言を受け取れる映画でした。
 
2016年『ボルケニオンと機巧のマギアナ
この映画は、「ポケモンはウソをつかねえが、人間はウソをつくから信用ならねえ」というボルケニオンの偏屈二元論が軸になっています。最終的にはボルケニオンの二元論が解体され、「ポケモンもウソをつく場合があるし、人間の中にも信用できる人物が存在する」というオチになっていました。この映画は、人間とポケモンの区別をさりげなく曖昧にした作品だと思います。ただ、この映画は人間の悪意を描きすぎで、観ていてかなり嫌な気分になりました。
 
2017年『キミにきめた!』
この映画はポケモン映画20周年記念作品で、幅広いファンに受けそうな内容になっていました。しかしこの映画は「〈個〉の選別」を描いていて、幅広いファンに門戸を開きつつ作中では狭き門による選抜を実践していると思います。映画の序盤ではサトシとピカチュウの出会いが描かれるんですが、サトシの旅立ちは特別な出来事の連続です。そしてサトシはピカチュウという〈個〉を相棒に選び、ピカチュウはサトシという〈個〉の伴侶になり、ホウオウはサトシという〈個〉を虹の勇者に選別する。そもそも「キミにきめた!」という題名が、「キミ」という〈個〉を選別する宣言だよね。
 
2018年『みんなの物語』
前作『キミにきめた!』は〈個〉に主軸を置いた作品でしたが、この映画は〈みんな〉に主軸を置いてるよね。サトシ以外にも複数の主役が登場して、〈みんな〉が平等に活躍している。『キミにきめた!』ではサトシが特別な主人公として絶対化されている一方、この映画ではサトシの地位が相対化されていました。個人的に、ホラ吹き男のカガチとウソッキーのコンビが面白かった。この映画には複数の「芯」が通っているから、この映画の感想は観る人によってだいぶ変わってくると思います。
 
2019年『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』

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この映画は『ミュウツーの逆襲』を3D映像にリメイクした作品なのですが、リメイク前よりも完成度が下がっているように感じました。3Dの映像が綺麗すぎて、陰鬱なシナリオとの親和性が低く感じられてしまった。何より致命的なのは、クローンの「アイちゃん」(上掲)が登場する場面がカットされている所だと思います。

2020年『ココ』
この映画は、「野生ポケモンの縄張りでポケモンと共存する人間」が主役です。この映画は異色のシチュエーションで始まりますが、後半からは自然環境を破壊する悪役が登場し、従来のポケモン映画でも観たことがあるような展開になります。この映画に登場するザルードはボルケニオンの後継者で、この映画自体も『ボルケニオンと機巧のマギアナに継続するテーマを描いていると私は思いました。『ココ』の記事はあまり伸びなかったので、私の解釈は思い込みが激しすぎるのかもしれません…。
 
私は2年前から細々とポケモン映画の考察を続けてきましたが、ポケモン映画の考察は今回で一応一段落です。私はポケモン映画から文字通り多くを学びました。対戦ありがとうございました!!