かるあ学習帳

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大江健三郎「飼育」のあらすじと解説(改訂版)

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私は昨年、大江健三郎芥川賞受賞作「飼育」のあらすじと解説を書きました。この記事は有り難い事に多くのアクセスを頂いていますが、出来があまり良くないと思います。ですので、今回は「飼育」について再度語り直す事にします。

 

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「飼育」(『死者の奢り・飼育』所収)
1959年初版発行
 

あらすじ

 
物語の舞台は戦時中。「僕」たちが暮らす谷間の村に、敵軍の飛行機が落下した。飛行機には敵の黒人兵が乗っており、村の大人たちは黒人兵を捕まえて地下倉に閉じ込めた。「僕」たちは、閉じ込められた黒人兵を獣のように「飼育」することになる。
 
「僕」たちは黒人兵の世話をしているうちに、黒人兵と仲良くなったかのように思えた。しかし県に引き渡されることを恐れた黒人兵は、「僕」を人質にする。「僕」の父は鉈を振り下ろして黒人兵を殺害し、巻き添えになった「僕」の左手も打ち砕かれる。終戦近くに惨事を経験した「僕」の心はもう子供ではなくなり、子供たちの世界に別れを告げることとなった。
 

解説

 
・陰惨な成長物語
 
「飼育」の主人公・「僕」は黒人兵と仲良くなったかのように見えましたが、結局仲良くなることができませんでした。黒人兵の人質になり、父親の鉈によって左手を損傷した「僕」は、激しい痛みを伴う形で「子供からの成長」を遂げます。「飼育」は明らかに「僕」の成長物語なのですが、「僕」の成長を明るく希望に満ちたものとして描写していません。子供の世界からの別れを伴う、陰鬱な「成長」が描かれています。
 

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僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした。兎口との血まみれの戦、月夜の小鳥狩り、橇あそび、山犬の仔、それらすべては子供のためのものなのだ。僕はその種の、世界との結びつき方とは無縁になってしまっている。(p.138)
 僕は子供たちに囲まれることを避けて、書記の死体を見すて、草原に立ちあがった。僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、村の大人たちがそれらに慣れているように。(p.141)
 
確かに「飼育」に書いてあるように、大人になると子供の頃のような世界との関わり方をしなくなりますよね。他の子供としょうもないことで喧嘩をしなくなるし、子供の頃に楽しかった遊びをしても面白いと感じなくなったりする「全ての大人がそうなるとは限らないのでは?」「大江は成長をネガティブに表現しすぎ」といった反論が来そうですが、「子供からの成長」には「飼育」で表現されているような喪失が伴うことが予想できます。
 
・「想像界」への閉鎖
 
文芸評論の重鎮・スガ秀実さんは、去年の『群像』3月号で「飼育」を次のように評しています。
 

f:id:amaikahlua:20210116151624j:plainスガ秀実(1949~)

 「飼育」や「芽むしり仔撃ち」における、戦時下の地方山村を舞台にした想像的(イマジネール)ユートピアにおいては、父親は存在していても、それは「現実生活」へ誘おうとする父親ではない。つまり、兵士になれと扇動するような父ではない。彼は逆に子供たちを、子供たちだけの想像的な世界に押し込めるのである。
 
スガさんの解釈によると、「飼育」に登場する子供たちは「想像的(イマジネール)な世界」に閉じ込められているという。この解釈はおそらく、フランスの精神分析ジャック・ラカンの「想像界(l'imaginaire)」を意識した発言でしょう。想像界」とは、一言で言えばイメージの領域です。人間の精神には想像的な側面があります。特に生後間もない子供は神経系が十分に発達していないので、神経による身体の統一よりも先に、イメージを用いた統一が行われると言われています。
 

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 鏡像段階に達した子ども(生後六~八ヵ月)は、他の子どもに対してはなはだ攻撃的な態度を取るようになる。この頃においてはまだ自他の境界ははっきりせず、他の子どもを叩いたあとで「あの子がぶった」といった発言がみられる。(中略)人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒体にすぎない。もっと具体的に言えば、この像は他者のイメージ、つまり生まれてすぐなら母親、そして兄弟、家族のイメージである。*1
 
生まれてすぐの子供は他の子供に対して攻撃的である。そして自分と他者の区別がはっきりしない。この傾向は、「飼育」に登場する子供たちにもよく表れていますよね。「飼育」の子供たちは好戦的で、それでいて他の子供や黒人兵と馴れ合っている。「飼育」の子供たちはイメージの領域に閉じ込められていいて、作中の山村は「想像的(イマジネール)なユートピアだなあとスガさんは思ったのでしょう。
 
・〈法〉の介入
 
「飼育」の山村は「想像的なユートピア」なわけですが、ユートピアでいつまでも馴れ合っているだけでは子供は成熟しませんよね。子供は大人になるために、想像的なユートピアに安住するのを禁じられる必要があります。そこで介入してくるのが「父の名(ノン)」による「否(ノン)」です。スガ秀実さんは、「飼育」のラストを鋭く批評しています。
 

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飛行機が墜落して村の捕虜となった米国黒人兵と子供たちとの閉ざされたユートピアー「黒人兵は猟犬や子供たちや樹々と同じように、村の生活の一つの成分になろうとしていた」ーは、父が、「僕」の指と一緒に、黒人兵の頭を鉈で叩き割って殺害することで終わる。少年「僕」の叩き潰された指が、父の「否」による去勢を含意していることは見やすい。
 
「飼育」の主人公「僕」は、父親によって指を損傷して成長します。「僕」を成長させたのが「父親」であることは、とても重要です。なぜなら、ラカン精神分析における父親は「〈法〉を司り、主体を去勢する存在」だからです。
 

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ラカンの言う〈法〉は「法律」だけでなく、「法則」「規則」「慣習」「決まり事」など、幅広いルールを指します。人間を野獣にしないためには、人間に〈法〉を課さなければなりません。ラカンは必ずしも肉親に限らず〈法〉を課す存在を、「象徴的父」と呼びました。「飼育」の場合、主人公の父親(肉親かどうかは私にはわからない……)が主人公を去勢するので、ラカン理論と符合しています。
 
ただ馴れ合っているだけでは、子供は一人前の大人にならない。ときに否定され、〈法〉を課され、去勢されることによって子供は社会性を身に付ける。「飼育」は、厳しい内容ながら重大なメッセージ性のある小説だと思います。「僕」が黒人兵を「飼育」しただけでなく、「僕」も父親によって「飼育」されているかのようだ……。
 
〈参考文献〉
スガ秀実「小説家・大江健三郎 その天皇制と戦後民主主義」(『群像』2020年3月号)
・片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』、誠信書房、2017年

*1:向井雅明『ラカン入門』、ちくま学芸文庫、2016、p.25

方法序説~どうすれば「何万文字もする長文記事」が書けるのか~

「何万文字もする長文記事」への憧れと達成

 

はてなブログの世界には、すごい人がたくさんいます。

 
毎日休まずに更新を続けている人。最新のテレビアニメをディープに考察している人。楽しい文章で人々を笑わせている人。読者数を500人以上獲得している人。小説やイラストを創作するのが上手い人。……など、ブログもまだまだ捨てたもんじゃないなあと思わせるすごい人々がはてなブログの世界には溢れています。
 
そんな中でも私が特にすごいと思うのは、「『何万文字もする長文記事』を書けて、しかもその長文を大勢の人々に評価されている人」です。
 
大学の卒論か!?と思ってしまうような大作長文記事を構成する能力。長文に大勢の人々を集める人望とカリスマ性。長文を高評価されるほどの文才。角が立つので具体的に誰だとは言いませんが(笑)、これらの能力を兼ね備えているブロガーは本当にすげえなあと思っています。私はいっとき学者に憧れていた事があるので、長文が上手い人を尊敬しているんだろうなあ。
 
そんな私ですが、先月『終ノ空の考察を2万字超えの長文で書き終わりました。有り難い事にこの『終ノ空』の考察には、今でも大勢のアクセスを頂いています。本当はあともう1ランク上の文章を書きたかったし、あともう1ランク上の反響を期待していたのですが(←欲深い)、私の実力不足で今一歩及ばず……でしたねwそこは今後の課題としておきましょう。
 
今回は、ブログ新参者の私がどうやって2万字超えの長文記事を書いたのかについて、気ままに書き残してみます。誰かの参考になったらいいな。
 

文章術としての『方法序説

 

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私が2万字超えの長文を書く際に参考にしたのは、デカルトの『方法序説』第2部です。デカルトは数学の難問を解決するため、4つの規則に従ったと言っています。*1
 

f:id:amaikahlua:20210110150143p:plainデカルト(1596~1650)

1、明証性の規則……疑う余地が全く無いほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何も自分の判断の中に含めないこと。
2、分析の規則……難問をできるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
3、総合の規則……もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、もっとも複雑なものの認識まで昇っていくこと。
4、枚挙の規則……すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 
哲学者の古賀徹は『愛と貨幣の経済学』で、デカルトの4つの規則は文章術にも応用できることを指摘しています。4つの規則は、数学の難問を解くためだけではなく、文章を構成するためにも使える。興味深いですね。*2
 

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十七世紀に活躍したフランス生まれの哲学者であるデカルトは『方法序説』において、ものごとを正確に認識する学問の方法として、複雑な対象をできる限りの小部分に分割すること(分割)、その分割された最小のものを明晰・判明にじかに観ること(明晰・判明)、そのように直観されたものに順序を仮定すること(順序の仮定)、こうして順番に配置されたものがなにかを取り落としていないことを確認すること(レビュー)という四つの規則を挙げています。
 こうしたデカルトの四つの規則がそのままテクストを構成する方法であることに注意しましょう。*3
 
例えば『終ノ空』というゲームのシナリオは、4人の登場人物の視点と2つのエンディングに分かれています。ですので、考察対象を6つに分けます(分割)。そして、考察対象について間違いなく言い切れそうなことをひねり出します明晰・判明)。さらに、思い付いた考察を、重要性やゲームのシナリオの順序に合わせて配列します(順序の仮定)。最後に、考察の抜けているところをできるだけ埋めていきます(レビュー。こうしているうちに私は、2万字超えの『終ノ空の考察を完成させました。
 
ついでに、去年の『群像』2月号で東浩紀さんが話していた文章術も参考にしました。東さんは2000字くらいの文章で1つのブロックを作り、ブロックを組み合わせて文章を構成しているようです。この書き方は、字数を稼ぐのに便利そうですね。
 

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東:僕は自分の批評では、二千字ぐらいで一つのユニットにして、それをブロックみたいに組み合わせて文章をつくっています。*4
 

「何万文字もする長文記事」のリスク

 
ここまで書いておいてこう言うのもアレですが、何万文字もする長文記事を書くのは疲れますし、書き終わった後の誤字チェックなどもしんどいです。何万文字もする長文記事は書く側がしんどいだけでなく、読む側もしんどい。何万文字もする長文記事は、ブログを見に来て下さった読者様にも、多大な「読む負担」を与えると思います。
 
ここだけの話ですが……。私は去年、(マジで、常軌を逸脱したレベルで)天文学的なくらい文字数が多い記事が書いてあるブログを発見しました。Twitterでこっそりそのブログの評判を覗いたら、「文字がたくさんあって読みづらい」「この文章、最後まで読み終わった奴いるの?」とか、散々な言われようでした。まあそうですよね。クッソ長い文章を読んでウンザリするのは、お客様として当然の反応だと思います。
 
何万文字もする長文記事を書いて成功するのは、少なくとも私にとっては魅力的な栄光です。しかし、何万文字もする長文記事を公表するのには、少なからずリスクが伴うと思います。何万文字もする長文の他にも魅力的な書き方はいくらでもあるはずで、何万文字もする長文を書く前には「その書き方は最適解なのか」をよく考えた方が良いと思いますね。私は熟慮の末、『終ノ空の場合は大長編の考察にした方が良いと結論し、長文記事の公表を決断しました。
 
何万文字もする長文記事を書いて失敗したら、ネット上に巨大な「活字の屍の山」を残すことになるかもしれない。その覚悟が、あなたにはあるだろうか。

*1:デカルト(谷川多佳子訳)方法序説』、岩波文庫、1997、pp.28-29

*2:デカルト本人も、4つの規則が数学以外の諸学問にも有効に適用できる事を期待していた

*3:古賀徹『愛と貨幣の経済学』、青灯社、2016、pp.68-69

*4:東浩紀大澤真幸山城むつみ「いま批評を書くとはどういうことか」(『群像』2020年2月号)

『ミュウツーの逆襲』考察完全版~ニャースとは何者か~

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物語を考察する際に、物語の主役ではなく脇役に焦点を当てると考察がはかどる場合があります。例えば『千と千尋の神隠し』の主人公は千尋ですが、主役の千尋ではなく脇役のカオナシの行動に注目したら物語をより深く理解できると思います。カオナシ千尋の影のような存在なので。ミュウツーの逆襲』の場合も、主役のサトシやミュウツーではなく脇役のニャースに注目することにより、考察を深めることができるというのが私の持論です。

 

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ミュウツーの逆襲』
監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
(C)ピカチュウプロジェクト98
1998年7月18日公開
 

戦わないニャース

 
ミュウツーの逆襲』の終盤では、ミュウツーをはじめとするコピーポケモンとミュウをはじめとするオリジナルポケモンが、自己の存在を賭けた痛々しいバトルを繰り広げます。しかし、オリジナルのニャースとコピーのニャースだけは、戦わずにのんびりと月を眺めます。なぜ他のポケモンが争っているのに、ニャースだけは争わないのでしょうか?とりあえず、脚本家の首藤さんのコラムを引用します。
 

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 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
 自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
 なんとなくロケット団ニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
 「今夜の月は満月だろな…」
 自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団ニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観ることができる。
 達観諦観わびさびの世界のようなものである。
 

ニャースが得たものと失ったもの

 
TVアニメ版ポケモンの第72話「ニャースのあいうえお」では、オリジナルのニャースが人間になりたかった理由が明かされています。
 

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(画像:第72話「ニャースのあいうえお」より)

ニャースはメスのニャースである「マドンニャ」のことが好きになり、マドンニャが好きな人間になるために人語や二足歩行を習得する訓練をします。しかし、ニャースは人語や二足歩行を習得した代償として、進化や新しい技の習得ができなくなります。ニャースはマドンニャに告白しますが、「人間の言葉をしゃべるポケモンは気持ち悪い」という理由で振られます。その後、グレたニャースロケット団に入団します。*1
 
ここまでの説明で、オリジナルのニャースが人語や二足歩行を努力によって「後天的に」身に付けたことがおわかりいただけたかと思います。このことは、誕生したばかりのコピーのニャースが人語をしゃべることができず、二足歩行もできないことからも推測できます。
 

生まれつきの諦観

 
首藤さんのコラムの言葉を借りれば、オリジナルのニャースには「諦観」があるという。「諦観」や「達観」というのは、「悟りの境地」といった意味の言葉です。オリジナルのニャースが諦観を人語や二足歩行と同じく後天的に身に付けたかというと、そうとは言いきれないと考えられます。
 

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ミュウツーの逆襲』に登場するコピーのニャースは、コピーとして誕生したばかりなのにオリジナルのニャースに戦いを挑みません。ですので、コピーのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていることになります。オリジナルのニャースには生まれつき「戦いに対する諦観」が備わっていて、その諦観がコピーのニャースにも遺伝した可能性が高いです。*2
 

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(画像:映画『ピチューピカチュウ』より)

オリジナルのニャースは生まれつき「先天的に」諦観を持っている可能性が高いと思いますが、それに加えて経験によって「後天的にも」諦観を身に付けた存在だと思います。オリジナルのニャースロケット団の業務をしたり、アルバイトをこなしたりします。オリジナルのニャースは人語や二足歩行を習得したことにより、人間社会に参加できる社会性を身に付けました。ですからオリジナルのニャースは、「後天的にも」他者と上手くやっていくための諦観を身に付けたと考えられます。
 

「去勢」されたポケモン

 
精神科医斎藤環さんが書いた『社会的ひきこもり』という本があります。この本には、こんなことが書いてありました。
 

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まず「去勢」について簡単に説明しておきます。(中略)精神分析において「ぺニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。*3
 
ニャースは成長の途中で、マドンニャという異性との関わりを通じて、人間や本来のポケモンになることに失敗しました。精神分析用語を借りれば、ニャースは「去勢」されたポケモンだと言えますね。また、『社会的ひきこもり』には、続けてこう書いてありました。次の文言は、『ミュウツーの逆襲』ニャースミュウツーを考察するのにとても役に立ちます。
 
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。*4
 
ニャースは「去勢」されており、人間社会に参加できるので大人です。ニャースは挫折を経験して社会性を身に付けており、そのうえで自分の身の振り方を悟っているのでしょう。「去勢」されて成熟していることが、ニャースの「諦観」や「達観」を発達させているんだと思います。
 
一方、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーは万能の存在であり、明らかに「去勢」されていません。ミュウツーは、能力に恵まれているために社会性に欠けるエリートそのもののような存在です。ミュウツーは何の苦労もせずに人語や二足歩行を習得しており、強力な技も使えるのでニャースの上位互換のように思えますが、人間の社会に要領よく溶け込める存在ではないと思います。
 

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ミュウツーニャースのように悟っていないので、「私は誰だ?」と悩むことになるのだと思います。もしかしたら、ニャースのほうがミュウツーよりも精神年齢は上かもしれませんね自分探しのまっただ中にいるミュウツーは、頭が良くても精神年齢は意外と思春期の少年ぐらいかもしれない。ミュウツーの逆襲』の続編である『ミュウツー我ハココニ在リ』は、そんなミュウツーの成長物語だといえます。
 

補説:首藤さん、これでいいんですか?

 
さて、ここまでの考察を踏まえて、冒頭で引用した首藤さんのコラムをもう一度読んでみましょう。
 
 人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団ニャースは、自己存在について割り切っている。
 人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団ニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
 
首藤さんは明言していませんが、首藤さんのコラムを読んだ限り、首藤さんは「オリジナルのニャースの諦観はあくまでも後天的に身に付けたものだ」と考えているように(私には)少し感じられます。
 

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ところが『ミュウツーの逆襲』を鑑賞すると、オリジナルのニャースもコピーのニャースも、ある程度先天的に諦観を身に付けていると解釈できます。また、作中ではコピーのニャースがオリジナルのニャースよりも先に空を見上げているし、「今夜の月は丸いだろう」と先に言ったのもオリジナルのニャースではなくコピーのニャースのほうです。
 
ミュウツーの逆襲』でオリジナルのニャースとコピーのニャースが戦闘をしない場面は、首藤さん本人が考えていることと微妙にズレている気がします。あるいは、首藤さんのコラムの書き方が、首藤さん本人の思考から微妙にズレているのかもしれない。首藤さんは故人ですから事の真相は藪の中ですが、「首藤さん、これでいいんですか?」と私は少し思います。
 
〈関連記事〉
今回の記事は、以下の2つの記事の内容を合体させた完全版です。
 
また、『ミュウツーの逆襲』『ミュウツー!我ハココニ在リ』とTV版エヴァンゲリオンをまとめて論じた記事をここに掲げます。自信作ですので、良かったら読んで頂きたく。

*1:画像の出典と参考:「ニャースのめっちゃ泣ける過去とロケット団に入った理由」

*2:オリジナルのニャースには先天的な「戦いに対する諦観」が備わっていなかったが、コピーのニャースに突然変異で「戦いに対する諦観」が発現したという可能性も考えられると思います。しかし、この可能性はあまり高くないかもしれません。

*3:斎藤環『社会的ひきこもり』、PHP新書、1998年、二〇六頁。

*4:Ibid.

【ブログ術】「末永く読まれる記事」を書く方法。

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明けましておめでとうございます。

新年ですから、景気の良い話をしましょうかね。
 
ありがたい事に、私が去年書いた1999年版『終ノ空の考察と、2年前に書いたエヴァンゲリオン旧劇場版の考察にアクセスが殺到している今日この頃です。
おそらく昨年末にリメイク版『終ノ空』が発売され、これからシン・エヴァンゲリオン劇場版が公開される影響でしょう。
終ノ空エヴァンゲリオン旧劇場版も20年以上前の作品ですが、良質な作品は再びリメイクされて末永く愛される。
素晴らしい事だと思います。
 
私はこのブログを初めて、古典的な名作っていいなーと心から思うようになりました。
次から次へと新しい情報が流れては去りがちなTwitterとはだいぶ違って、ブログの記事には残留性がかなりあります。
末永く愛される名作についてブログに書くと、その記事もネットに残って末永く読まれ続ける可能性がある。
終ノ空』とか『新世紀エヴァンゲリオン』とか『ミュウツーの逆襲』とか『沙耶の唄』みたいな名作は、ブログの記事に普遍性をもたらしてくれる。
 
これは笑い話なんですが、去年の8月、私が書いた『沙耶の唄の考察にアクセスが集中しました。

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なぜかと言うと、8月に決まった大阪万博グロいロゴマークが、沙耶の唄』に出てくる怪物に似ていると話題になったからです。
このような形で、名作は意外なきっかけで「これ、あの作品に出てきたアレに似てる!」と評判になる事があります。
新型コロナを予言していると言う事で、『AKIRAが話題になった事もありましたよね。
 
ゲームやアニメや漫画だけでなく、純文学もしぶといもんです。
私はこのブログで大江健三郎についてたまに書く事があるのですがアクセス解析を見た限り、大江健三郎関係の記事も地味にしぶとく読まれてるっぽい。
昭和の芥川賞受賞作「飼育」の記事に異常にアクセスが殺到した事もあった。
これは私の予想なんですが、もしかしたらどっかの大学や高校の授業で「飼育」に関する授業があって、学生たちが「飼育」について調べ物をしたからアクセスが殺到したのでは?とか思った。
「飼育」の記事は改めて読むと出来が良くない気がするので、今年のうちに改訂版を書きたいです。
 
いろいろ話しましたが、末永く読まれる記事を書きたいなら、末永く愛されている/末永く愛されそうな作品について書くといいぞ!って話です。
 
では、今年もよろしくです。

さよならTwitter、ようこそ素晴らしき日々。

新型コロナウイルスが猛威を振るう2020年が終わろうとしていますね。

2020年は、私個人にとっても災難が多い1年間でした。
特にTwitterで災難に巻き込まれる事が多く、Twitterをやめた事が私にとって大きな出来事でした。
 
岡村靖幸の「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」という歌があります。
この歌の歌詞に影響を受けて、私はTwitterをやめる決断をしました。
 
寂しくて悲しくてつらいことばかりならば あきらめてかまわない
大事なことはそんなんじゃない
 
この歌詞は凄く婉曲な文章ですが、ようは寂しくて悲しくてつらい事を無理に続ける必要は無くて、もっと何か前向きになれる事をやっていきましょう」と言っているのだろうと思います。
今年はTwitterで寂しくて悲しくてつらい事が多かった。
だから、私はTwitterを諦めました。
って事で、さよならTwitter
 
そうそう、素晴らしき日々~不連続存在~10TH ANNIVERSARY特別仕様版』が手元に届きましたよ。
パッケージの見た目はこんな感じ。

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電波ゲーらしくおどろおどろしい芸術的な絵が描いてある宝箱みたいなパッケージを期待していたのですが、思ったよりは大人しい(?)デザインのパッケージでした。
3つの箱と1冊の本が束ねられていますねw
 

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1つ目の箱には、『素晴らしき日々~不連続存在~』のソフトが入ってました。
素晴らしき日々』は大変有名な作品で、多くの人々によって熱心に考察されていますね。
素晴らしき日々』の考察はネットでもう十分読めるし、高レベルな考察もたくさんあるから、もう私なんかが改めて考察を書く必要は無いかなあ……と思います。

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素晴らしき日々のUIは10周年記念という事で新しいデザインになってます。
 

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2つ目の箱には、『終ノ空remake』と1999年版『終ノ空』のソフトが入ってました。
終ノ空remake』は昨日全クリしたのですが、とっても面白かったです。
1999年版『終ノ空』と比べて、物語の運びが全体的に丁寧になったなあと思います。
高島ざくろがより不幸になり、横山やす子がかなりの曲者になってましたね。
途中で極道が出てきたけど、物語の結末は思ったよりは1999年版と変わらなかったですね。
終ノ空』の考察は先日書きましたので、参考にして頂けると幸いです。
 

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3つ目の箱には、CDがてんこ盛り。
素晴らしき日々』『終ノ空のBGMを流しながら古田徹也先生の『はじめてのウィトゲンシュタイン』(25日発売)を読むと、至れるぞ!?
「ナグルファルの船上にて」って、良い曲だな~。
 

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最後に、まあまあ薄い本が同梱されていました。
三大電波ゲーの作者である長岡建蔵さん、山田おろちさん、そしてSCA-自さんの対談が載ってます。
このようなイカれたゲームの作者だから、対談の内容も狂気……かと思いきや、かなり正気な(?)内容の対談でした。
他にもイラストや原画、SCA-自さんへの単独インタビューなど。
SCA-自さんは映画『ウィトゲンシュタインを観た事が無かったのか。
 
さて……『はじめてのウィトゲンシュタインの続きを読もうかな。
 
それでは皆さん、良いお年を!!