【人形緊急事態宣言】私の人形が、ついに美しさの限界を突破してしまいました……。
皆さん、ごきげんよう。
本日は緊急事態が発生しましたので、速報をお伝えします。
なんと、私の人形(名前:無為美ちゃん)が、 ついに美しさの限界を突破してしまいました。
世界各地で物価のインフレが続き、 また過去最高気温が観測される今日この頃の夏でございますが、
私の家庭内でも人形の美しさのインフレが止まらず、 過去最高に美しい人形の写真が撮影されました。
試論:音楽の演奏時間が短くなると、一体どんな問題が生じるのだろうか?
テオドール・アドルノは、 ポピュラー音楽をクソミソに批判した哲学者である。 アドルノのポピュラー音楽批判は、 大勢の大衆を敵に回すような理論である。 ポピュラー音楽は文字通り大衆にとても人気がある音楽ジャンルな ので、 大衆は彼らが大好きなポピュラー音楽を批判されたら怒り出すだろ う。
しかしアドルノのポピュラー音楽批判論文“On Popular Music”は、 TikTokや(YouTube)Shortsの登場により音楽に著しい「短時間」 と「刺激」が求められるようになった令和では、 非常に重要な文献であろう。“On Popular Music” 英語版はインターネット上でタダ読みできるので、 興味のある人は是非読んでみて欲しい。なお、本稿の訳文は全て、 私=甘井カルアによる和訳なので悪しからず。
シリアス音楽には全体的な計画性がある
アドルノは“On Popular Music”で、「ポピュラー音楽(popular music)」と「シリアス音楽(serious music)」を区別している。 シリアス音楽はポピュラー音楽の対極にある音楽ジャンルで、 アドルノはシリアス音楽の例としてベートーヴェンの第七交響曲や 「熱情」などを挙げている。 アドルノの定義によればシリアス音楽には具体的な全体性があり、 全体を構成する細部にもかけがえの無い存在意義がある。 そして細部が壮大なフィナーレを目標として、 計画的に動員されることもある。
テオドール・アドルノ(1903~1969)
シリアス音楽は、(ポピュラー音楽とは) 対照的な目的を持つ音楽として、 このように特徴付けられるかもしれない。: それぞれの細部は音楽の計画の単なる執行だけでなく、 細部同士の生きた関係性を順番に構成する具体的な全体性の一部と して、音楽的な意味を持つ。
(ベートーヴェンの第五交響曲のスケルツォの場合、) その楽章の全体は脅迫的で不気味な表現だけでなく、 正式な展開が扱われるまさにその方法によって、 強大な緊張を惹き起こすためのフィナーレへのイントロとして構成 されている。
シリアス音楽はポピュラー音楽に慣れた現代人には高尚すぎると思 われるかもしれないが、 ともかくシリアス音楽には全体的な計画性がある。 仮に音楽の演奏時間がクッソ長くなっても、 シリアス音楽は長期的な射程で計算された作品を提供できる。 演奏時間が長いシリアス音楽は、全体的で長期的な計画に基づき、 リスナーに大きな感動を与えることが可能である。
ポピュラー音楽は標準化され、気晴らしのために使われる
アドルノによればポピュラー音楽では全体的な計画性が衰退し、 ポピュラー音楽の細部は「機械の歯車(a cog in a machine)」のように交換可能である。また、 ポピュラー音楽には「標準化(standardization) 」という大きな特色があり、 楽曲がパターン化されているし一旦ヒット曲が出ると似たような曲 がたくさん作られたりする。 資本主義社会の生産者たちは標準化された音楽を大衆に提供し、 大衆はポピュラー音楽に機械的に反応するようになる。
私は音楽理論は専門外なので、 アドルノのポピュラー音楽批判の可否には深く踏み込めない。 しかし私は“On Popular Music”を読み終わって、 ポピュラー音楽は均質化された大衆の象徴のような音楽なんだろう なと思った。 現代の大衆は置き換えの効く社会の歯車として働いており、 社会のマニュアルから逸脱することを恐れがちである。 そして現代ではマスメディアが大きな権力を持っており、 生産者はメディアを利用して大勢の人間の関心を同一化することが できる。
さらにアドルノは、ポピュラー音楽が「気晴らし( distraction)」のために利用されることを指摘した。 現代の大衆は雇用や減収などへの不安を抱いており、 浮世の心配事から自分の心をリラックスさせるためにポピュラー音 楽を聴取することがある。 そして気晴らしやリラクゼーションのための音楽はその性質上、 努力や集中力が無いリスナーでも気楽に聴けるよう設計されている 。大衆は「崇高なシリアス音楽を全神経を集中させて聴取する」 のではなく、「 自分が抱えている問題から気を逸らすためにポピュラー音楽を聴取する」(! )。
気晴らしの概念は、個人心理学における自給自足の術語ではなく、 社会的な設定においてのみ適切に理解される。気晴らしは、 生産の現在の状態と、 直接的あるいは間接的に大衆が従事する労働の合理化・ 機械化された過程とに連結される。
令和の音楽は超短時間の刺激を提供する
アドルノはポピュラー音楽を手厳しく批判したが、 もしも彼が今TikTokやShortsで音楽を聴いたら発狂憤 死するだろう。 なぜなら令和ではTikTokやShortsの登場により、 音楽はより著しく短期的な刺激による娯楽のために利用されるように なったからだ。 口に放り込まれたらすぐに美味しいと感じられて消化されるお菓子 のように、演奏時間が短い音楽が次々に消費されていく。
私が最近注目しているのは、式浦躁吾という作曲家である。 式浦さんは、約15~ 30秒ぐらいで聴き終えられるクッソ短い音楽をたくさんYout ubeなどに公開している。しかもこの人の曲の歌詞、「 体は正直だって言ってんの」「要はわたしを好きにしていいよ」「 先生のこと好きになっちゃう」とか言った具合に、 実に過激で衝撃的なのである。 令和はTikTokやShortsで超短時間かつ刺激的なコンテ ンツが求められる時代なので、 式浦さんの音楽は今の時代の需要に見合っていると言えるだろう。
古き良き時代のシリアス音楽には全体的な計画性があり、 リスナーは長大な音楽を集中して聴くことによって大きな感動を得 ることができた。 しかしポピュラー音楽の登場により作品の全体的な計画性は衰え、 大衆は強靭な集中力の必要無しに音楽を気軽に消費できるようになった。 さらに令和の式浦さんの音楽は超短時間で聴き終えられるので全体 的な計画性は論外であり、瞬間的な「刺激(stimuli)」 を与えることに特化している。( しかし式浦さんの音楽は歌詞が極端に短縮されているため、 俳句や短歌に近い「匂わせ」も可能にしているとも思うのだが…… この件については今回は割愛する。)
最近、 テレビアニメやテレビドラマを倍速で視聴する人が増えていること がよく話題になっている。おそらく今の時代は「 長大な時間をかけて全体的な計画性を味わう時代」ではなく、「 短時間で瞬間的な刺激を楽しむ時代」だからであろう。 そして令和では音楽に限らず超短時間で刺激的なコンテンツを次々に消費できる ので、現代人の集中力と忍耐力が低下しているのかもしれない。 約25分くらいで観終われるテレビ番組でも、約15~ 30秒くらいで聴き終えられる式浦さんの音楽と比べたらもはや「 長すぎる」のである。
コンテンツの倍速視聴が流行する理由は他にもたくさん考えられる が、超短時間で味わえる刺激的コンテンツの大量生産は明らかにその一因だと私 は思っている。短時間の刺激に慣れ、 集中力と忍耐力が低下した人間は、長大/ 壮大な計画によって得られる快楽や感動を味わうことが困難だろう 。以上の理由でアドルノの“On Popular Music”は、令和社会で「反時代的考察」 として再読する価値がある文献だと言えよう。(終)
ハイデガー選集13『世界像の時代』解説や考察みたいなもの
ハイデガー選集13『世界像の時代』
ハイデガー(桑木務訳)
昭和37年1月25日発行
世界……像……そして世界像
『世界像の時代』を解読するためには、ハイデガーが「世界」 に与えた定義を理解する必要がある。 ハイデガーにとって世界とは、「存在する全てのものの総称」 である。宇宙や自然に加えて、歴史もまた世界に属する。( この書きぶりだと、 歴史上の人々の内面世界とかも世界全体の内に含まれているのかな ……。)ハイデガーの言う「世界」 には自然科学でカバーできない領域も含まれるので、「世界」 を自然科学で語り尽くすのは不可能である。
マルティン・ハイデガー(1889~1976)
このばあい世界とは、存在するものをひっくるめての名称です。 世界というこの名称は、宇宙や自然に限られません。 歴史もまた世界に属します。 ところで自然と歴史ならびに両者のさまざまの相互浸透すらも、 世界を汲みつくしません。この世界という名称のなかには、 世界根拠の世界に対する関係がどのように考えられているにせよ、 世界根拠が包含されているのです。(p.27)
んでもって次は、「世界像」の定義を見ていこう。 ハイデガーの言う世界像は、 世界に関する絵画や想像図を超えた射程を持つ。ハイデガーは「 像」に、「私たちは何かについて分かっている」 というニュアンスを込めている。 そして私たちが世界に関する理解を得たとき、 存在するものが体系的な表象として私たちの目の前に立てられる。 つまり世界は人間の主観の前で、客観的な「像」 として認識される。世界像は、 主観vs客観の図式で立てられた体系なのである。
像とはこのさい、試し刷りといったものではなくて、たとえば、 わたしたちは何かについて分かっているという言い方から響いてく るところのものが、思いうかべられているのです。このことは、 事柄自身が、わたしたちにとって在るように、 わたしたちのまえにある、ということです。(中略)世界像とは、 本質的に解すれば、それゆえ、 世界についてのひとつの像を意味するのでなくて、 世界が像として捉えられていることをいうのです。(pp.28- 29)
近代……中世……そして輝かしい古代
ハイデガーによれば、中世(ヨーロッパ)では存在するものが「 神の被造物」だと考えられていた。つまり中世は、 キリスト教という「宗教」が支配的な時代だったわけだ。 しかし近代に突入すると、宗教に代わって「科学」「物理学」「 数学」「技術」みたいな理系学問が支配的になる。 そして近代の理系学問は、万物を数理的に計算しようとする。
近代物理学は、それが優れた意味において、 或る種の確定した数学を利用するから、数学的といわれるのです。 しかし近代物理学は、 もっともっと深い意味ですでに数学的であるからこそ、 そのような仕方でただ数学的にだけ、 処理することができるのです。タ・マテーマタとは、 ギリシア人にとって、人間が、 存在するものを観察し事物と交渉することにおいて、 すでに予め知っているもの、を意味します。(p.10)
ハイデガーは、 宗教や理系学問によって世界を解釈することに懐疑的な哲学者であ る。一方ハイデガーはソクラテス以前大好きおじさんなので、 ソクラテス以前古代ギリシアの精神を賛美する。 ソクラテスが現れる前のギリシアの人々は、 ありのままに存在するものの存在を素直に受け止めていたという。 人々が存在を素直に受け止めていた頃の古代ギリシアには、 近代的な主観vs客観の対立は存在しない。 だからソクラテス以前古代ギリシアでは、 世界像が成立しないとハイデガーは考えた。 対象を数理的に処理する方法が発達していなかった中世でも、 世界像はまだ成立していなかったとハイデガーは考えている。
ギリシア精神は、存在するものの近代的解釈から、 さらに遙かに距っています。存在するものの存在についての、 ギリシア的思考の最も古い箴言のひとつに「 なぜなら思考と存在とは同一である」というのがあります。 パルメニデスのこの命題は、存在に促がされ且つ規定されるので、 存在するものをうけ容れることは、存在に属すのである、 と言おうとするのです。(p.30)
ハイデガーはこの『世界像の時代』で、 ソクラテス以前古代ギリシアの精神を妙に美化しているなと私は思 った。でも、ハイデガーは私よりも遥かに古代ギリシア文明に詳しい人だから、ここはひとまず彼の見識を信頼しておこう。
「強い言葉」が「重要な言葉」だとは限らない
『世界像の時代』の「補遺」には、「宇宙的(惑星的)帝国主義」 とかいう術語が登場する。啓蒙時代の人間主観は、「 国民としてみずからを捉え、民族として意志し、 種族として訓練され、ついには地上の王者を自負するにいたる」( p.68)。人類は技術的・画一的に組織され、 地球を技術的に支配する。これが宇宙的帝国主義である。
「宇宙的(惑星的)帝国主義」という術語の響きや意味合いは、“ Star Wars”の帝国軍みたいで厨ニ心をくすぐられる。しかしこの術語が『世界像の時代』の本文ではなく、あくまでも「 補遺」に掲載された術語であることに注意したい。 私が読んだ限り、この「宇宙的(惑星的)帝国主義」 は魅力的な術語ではあるものの、『世界像の時代』 という書物全体での重要度は案外低いタームであるように思える 。