かるあ学習帳

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ファイアーエムブレム『新暗黒竜』から『エコーズ』までの歴史を語る

私はニンテンドースイッチを持っていない。だから私はファイアーエムブレム『風花雪月』をプレイした事が無い。私は未だにニンテンドー3DSを乱用している。ファイアーエムブレム(以下FE)をプレイするのが楽しく、『新暗黒竜』『新紋章』『覚醒』『白夜/暗夜』『エコーズ』は全部プレイ済みだ。今回は『新暗黒竜』から『エコーズ』までのFEの歴史を振り返ってみたい。なお、すまんがダウンロードコンテンツである『透魔王国』は振り返りの対象外とする。

 

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『新暗黒竜』は、FEシリーズ第1作『暗黒竜と光の剣のリメイク版である。主人公はスマブラでもお馴染みのマルスである。マルスがドルーア帝国と地竜王メディウスを討伐した「暗黒戦争」の様子が描かれている。ストーリーが王道であり、赤と緑の騎士やキルソード持ちの剣士のようなテンプレキャラが登場するので、この作品をプレイすれば「FEってこういうゲームなんだ」というイメージが大体掴めると思う。
 
『新暗黒竜』では、一度死んだ仲間は基本的に二度と生き返らない。死んだ仲間が復活する「カジュアルモード」は、このソフトには搭載されていない。1990年にファミコン用ソフトとして発売された『暗黒竜と光の剣』は、死んだ仲間が復活しないシビアなゲームシステムで世間に衝撃を与えた。『新暗黒竜』は、リメイク前のシビアさを(死んだ仲間が復活しない以外の要素も含めて)忠実に継承している。『新紋章』以降のソフトを全てカジュアルモードでプレイしたエンジョイ勢の私は、『新暗黒竜をプレイしていると原初的な緊張感に回帰した気分になる。
 
また、『新暗黒竜』には「支援会話」や「救出」が無い。仲間同士が仲良くなってチート級に強くなったり、死にそうな仲間を他の仲間が救助したり、とか言った事ができないのだ。しかし、このゲームはとてもバランスが良く、私は「闘技場」を全く利用せずにクリアできた(難易度はノーマルだけど)。シンプルで、尚且つ良く練られた『新暗黒竜のゲームバランスに感動した。
 
最後に一つ苦言を呈すると、キャラクターの顔グラフィックがブサイクだよなあと思う。FEには美男美女や個性的なキャラクターが登場するキャラゲーしての側面があるのだが、『新暗黒竜マルスを含めた登場人物の顔立ちがイマイチ美しくない。そこが残念だった。
 
2010年『ファイアーエムブレム 新・紋章の謎~光と影の英雄~』(DS)

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『新紋章』は、『新暗黒竜』の正統な続編である。『新暗黒竜で描かれた暗黒戦争に続く「英雄戦争」を描いた作品である。主人公は相変わらずマルスで、アベルシーダのような前作の登場人物が続々登場する。前作では善良な人物だったハーディンが魔王のように闇落ちしたのは面白かった。ハーディンやカミュのように時を経て豹変した人物がもっと沢山出てきたらより面白かったかもしれない。マルスシーダのような一部のキャラの顔グラフィックが、前作よりも美形に描き直されていたのは好印象。
 
『新紋章』では、新システムとして「マイユニットが実装されている。プレイヤーが自分の分身であるマイユニットの外見や名前や職種などを決めて、そのマイユニットマルスを影で支えるのである。このゲームには「光と影の英雄」というサブタイトルが付いているのだが、歴史の表舞台に出る「光の英雄」がマルスで、歴史を影で支える「影の英雄」マイユニットという訳だ。ちなみにマイユニットは戦闘力が非常に高く、影にしてはでしゃばり過ぎである。
 
さらに『新紋章』には、「カジュアルモード」が初めて実装された。カジュアルモードを選択すると、戦闘でHPが0になった仲間が次のステージで復活する。HPが0になった仲間が復活しないのは長年FE名物だったのだが、『新紋章』はその伝統に風穴を開けたのである。死んだ仲間が復活するFE」というのは、実に革新的な展開だったと言えるだろう。
 
他にも「新・アカネイア戦記」や「みんなの様子」などの新システムが導入された。マイユニット」「カジュアルモード」「みんなの様子」は次回作『覚醒』に受け継がれて、『覚醒』の成功の一因になった感がある。
 
『新紋章』は、『新暗黒竜よりも難易度が爆上げされていて恐ろしく難しかった。強力な飛竜や火竜が襲いかかってくる中盤が特にハードで、ちょっとした油断ですぐに死者が出た。味方の配置を1マス間違えただけで自軍が壊滅しかねないので、高度に慎重なプレイングが要求されるゲームだった。しかし、攻略が難しいぶんだけ『新紋章』をプレイしていると「FE力」が付いてくる。ファンの間で難しいと評判の『暗夜王国』は、『新紋章』を事前にプレイしたおかげで、私はとても楽しくプレイすることができた。
 

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FEシリーズは、この『覚醒』の登場によって一皮剥けたなと思う。キャラクターデザインを人気イラストレーターのコザキユースケが担当しており、登場人物の外見や顔グラフィックが飛躍的に垢抜けた。また、杉田智和や小野Dのような人気声優のCVが追加され、ゲームが賑やかに盛り上がっている。さらに、2011年の震災を機に流行した「絆」が作品のテーマになっている。売れ筋を狙っていると言うのは嫌な言い方だが、『覚醒』は売れ筋を狙いまくった結果とても楽しいゲームに仕上がった。そして売れに売れた。
 
『覚醒』では、「絆」というテーマがシナリオだけでなくシステムの面でも追求されている。良くも悪くも『覚醒』を象徴するシステムは「ダブル」である。2人のキャラでタッグを組むと戦闘力が向上し、連続攻撃やノーダメージ防御が可能になる。支援会話が成立する2人組を気兼ね無くダブルして、仲間同士の絆を深めていくと雑魚を笑えるくらい楽に倒せるようになる。ダブルをすることには基本的にペナルティが無いし、制作サイドがプレイヤーにカップリングを楽しむことを推奨しているとすら思える。
 
また、異性同士の仲間を結婚させると子供が誕生する場合がある。子供達は戦闘力が高いキャラが多く、みんなやり過ぎな程個性的な面々である。特に中二病を患っているウードという剣士はどうかしている男で、シリーズ屈指の人気キャラである。仲間同士の絆、異性同士の絆、親子の絆など、『覚醒』はとにかく絆を売りにしているので、郷に入ったら郷に従えの精神でとにかく絆を深めながら戦っていくことを意識すると良い。
 
『覚醒』はキャラクターデザインが優秀なキャラゲーのような側面があるし、ダブルを使えばハードモードでも無双できる。そのため『覚醒』は、戦略を立てるのが苦手な脳筋ゲーマーでも気軽に楽しめるだろう。逆に、性格が真面目で戦略をじっくり考えるのが好きなプレイヤーは、『覚醒』をプレイして「ふざけるな!」と思うかもしれない。覚醒』はダブルが強力過ぎるので戦略シミュレーションとしてどうかなという点があるのだが、世の中には頭を疲労させずに無双を楽しみたい層が存在する。そういう層はけっこう厚いだろうし、『覚醒』はそういう層の期待に応えてくれる。
 

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if『白夜王国』と『暗夜王国』は同時に発売されたのだが、両者はシナリオやコンセプトが大きく異なっている。白夜王国は経験値や資金を理論上無限に稼ぐことができる一方、『暗夜王国』は得られる経験値や資金が有限である。気取った言い方をすると「無限の白夜、有限の暗夜」と言った所である。暗夜王国は有限な資源で何とかクリアできるように絶妙なゲームデザイン施されており、ゲームとしての完成度が非常に高いと思った。
 
『if』には、「攻陣/防陣」という特徴的なシステムが存在する。「攻陣」は隣接する仲間と協力して攻撃ができるシステム。「防陣」は仲間の戦闘力を上げ、たまに仲間をダメージから守れるシステム。前作の「ダブル」が攻防一体の強力過ぎるシステムだったため、ダブルが「攻」と「防」に分けられたのだろう。その結果、『if』は高度に複雑化した戦略が要求されるゲームになっている。厄介なことに、味方だけでなく敵も「攻陣/防陣」を使ってくる。『if』の盤面を掌握しきるのは、ゲーム界の藤井聡太のような頭脳が無ければ無理ではないだろうか
 
私が『if』をプレイしていて印象的だったのは、主人公・カムイの境遇が逆転裁判シリーズの御剣怜侍に似ている所である。カムイは白夜王国で生まれた王族だったのだが、暗夜王ガロンによって父親を殺害される。カムイはガロンに誘拐され、暗夜王国で育てられることになる。御剣は弁護士である信の息子として生まれたのだが、検事である狩魔豪によって父親を殺害される。そして御剣は、狩魔家で検事として育てられることになる。このようにカムイと御剣は「敵勢力に父親を殺害され、敵勢力の家系に育てられた」という点で共通しているのだ。共通しているから何だって話かもしれないけど(笑)。
 
したがって、暗夜王国』のシナリオは『逆転検事2に似ているとも言えるだろう。暗夜王国』では、カムイが腐敗した暗夜王国を内側から改革するための冒険を繰り広げる。これは『逆転検事2で御剣が腐敗した検察を内側から改革したことを想起させる。『暗夜王国』はガロンという〈父親〉殺しの物語であり、ラスボスが意外な男性である。『逆転検事2』も過剰なまでの〈父親〉殺しの物語だったし、ラスボスが意外な男性であった。逆転検事2』が高評価されているんだから、『暗夜王国のシナリオももっと評価されるべきではないだろうか。
 
2017年『ファイアーエムブレムEchoes もうひとりの英雄王』

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『エコーズ』は、ファミコン用のゲーム『ファイアーエムブレム外伝』のリメイク版である。キャラクターデザインは初音ミクのCDや『ささみさん@がんばらない』のイラストを描いた左氏が担当しており、どことなく任天堂らしくないビジュアルになっている。『エコーズ』には「武器の使用回数制限が無い」「弓兵の攻撃範囲が異常に広い」といった、他のFEシリーズにはあまりない特徴が色々見られる。見た目も内容も他のシリーズとは異なっているので、色んな意味で『エコーズ』は「外伝」なのだろう。
 
『エコーズ』では、FEシリーズ定番の戦略シミュレーションに「広大なマップの移動」や「ダンジョンの探索」といったRPGらしい要素が融合している。そのため、却って本編よりも「シミュレーションRPGと呼ぶのに相応しい作品であった。美麗な3Dで描かれたダンジョンを探索し、仲間を育成するRPGの基本的な楽しさを思い出せるゲームである
 
『エコーズ』をプレイする上で特に押さえておきたいのは、「味方を早いうちにクラスチェンジさせるとゲームの攻略がしやすい」ということだ。他のFEシリーズでは、味方のレベルを上限の20まで上げきってから上級職に昇格させた方が賢明な場合が多い。しかしこの『エコーズ』は、味方が上級職に昇格できるレベルになったらすぐにクラスチェンジした方が得策であるように設計されている。他のFEシリーズに慣れているプレイヤーは、「クラスチェンジはレベル20になってから」という固定観念を捨てた方が良いと思う。
 
また、『エコーズ』には「ミラの歯車」という便利アイテムが存在する。ミラの歯車を使うと、油断や不運でミスしても時間を巻き戻せる。ミラの歯車の使用回数は、バトルに勝利したりダンジョンをクリアしたりすると復活するので、ガンガン使うと良いだろう。私は終盤までミラの歯車を使うのを何となく躊躇っていたのだが、早いうちから遠慮せず使うべきだったと後悔している。
 
遠距離からの容赦無い弓兵の攻撃、モンスターを複数召喚してくる敵、遠くからワープしてくる敵、厄介な魔法や地形効果など、FEらしく意地の悪い仕掛けに満ちた作品であるものの、エコーズ』はとても魅力的な作品だったと思う。
 

あとがき

今回の振り返りに加えて『風花雪月』が2019年に発売されたことを踏まえると、テン年代はFEにとって花盛りな時代だったなと思う。この記事を書いているうちに、私はニンテンドースイッチが欲しくなってきた。という訳で、ここにこっそり欲しいものリストを公開しておく。誰か私にスイッチを奢ってくれ。無理なら『風花雪月』のソフトやカップラーメンでもいいぞ。いつも頑張って更新してるんだから、みんな少しぐらい奢ってくれてもいいじゃんよ~。

宮沢賢治「よだかの星」のあらすじと解説(改訂版)

今回は宮沢賢治の名作よだかの星を考察します。子供向けの柔らかい文体で書いてある割には何となくわかりにくい宮沢賢治の小説を、早速分析していきましょう。

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よだかの星」(『銀河鉄道の夜』所収)
1989年初版発行
 

あらすじ

では、「よだかの星」を出だしから読んでみましょう。
 

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 よだかは、実にみにくい鳥です。
 顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。
 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという具合でした。
(p.35)
 
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、よだかは醜い」ということと、よだかは存在しているだけで他者を不快にさせる」ということです。そしてよだかは、深い自己嫌悪に陥ります。
 
ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
(pp.39-40)
 
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、よだかは食物連鎖に組み込まれた生物である」ということです。よだかは甲虫や羽虫を食い、よだかは鷹に食われる…という食物連鎖の関係が読み取れますね。よだかは空の向こうに飛翔することにより、食物連鎖から解脱します。
 
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
(中略)
そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
(pp.44-45)
 
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、よだかは限りがある(最後がある)命を持つ生物である」ということです。飛翔したよだかは死亡します(死因はおそらく空中の過酷な環境のせいでしょう)。しかし、死亡したよだかは星になります。
 

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 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
(中略)
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。
(p.45)
 
ここで皆さんに注目していただきたいポイントは、よだかの星は青く美しい」ということとよだかの星はそれ自体として独立して輝く」ということ、そしてよだかの星は永遠に燃え続ける」ということです。この童話のラストでは、よだかの星が「燃えている」ということが3回繰り返し書かれています。これはいわゆる反復表現」ですね。繰り返し表現して強調されるくらい、よだかの星は強烈に永遠に燃え続けているわけです。
 

よだかの性質の反転

さて、重要なポイントが出揃ったので、ポイントを整理しましょう。「星になる前のよだか」と「星になった後のよだか」の特徴をまとめてみると、次のようになります。
 
・星になる前のよだか
醜い、食物連鎖に組み込まれている、有限の命を持つ
・星になった後のよだか
美しい、それ自体として独立して存在している、永遠に存在し続ける
 

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ご覧の通り、よだかの性質が「星になる前」と「星になった後」で逆転していますね。このことを踏まえると、よだかの変化が対照的で鮮やかなものに感じられてくると思います宮沢賢治は星の美しさを際立たせるために、よだかという実に醜い鳥を主人公にしたのではないか?と私は深読みしています。よだかは随分酷い目に遭いましたが、これらは全て星の性質を一層美しく見せるための演出だったのではないかとも思います。
 
宮沢賢治は「よだかの星」に限らず対句を多用する文豪で、「よだかの星以外の小説でも言葉の配置に整然とした法則性が観測されていますインターネットでは「構成読み解き家」という在野の集団が、宮沢賢治の物語構造をエクセルを使って公表しています。その一例として、週休二日さん、nagiさん、fufufufujitaniさんの記事のリンクを貼っておきます。
 
注文の多い料理店は物語がABCの3つに分割されていて、AパートとBパートで執拗に対句が繰り返されている。
 
「オツベルと像」もAパートとBパートが対句になっていて、最後のCパートでは内部で対句が発生している。
 
超代表作銀河鉄道の夜は凄い事になっていて、現実の出来事と夢の出来事が対になっている。そして宮沢賢治は、対句を意識的に操作しようとしていた形跡が見られる。
 
他にも「セロひきのゴーシュ」「なめとこ山の熊」などの童話で、高度な物語構造が確認されています。このように宮沢賢治は物語に対句を織り込むことを得意としますから、よだかの星」で対句が発生しているのは単なる偶然ではないと考えられます。
 

実存と構造の反転

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ゲーム『青い空のカミュ』より

よだかの星」は理不尽な場面や不可解な場面で構成されていて、この童話を「不条理文学」のように感じた読者は少なくないのではないかと思います。よだかが生まれつき醜い外見で嫌われているのは理不尽な話だし、よだかが弱肉強食の社会で追い詰められているのも理不尽だ。しかもよだかが星になった理由が具体的に書かれていないから、最後のオチも謎が多い。生まれつき理不尽な思いをしていて、唐突に星になったよだか本人からしたら、思いがけないことだらけの一生でしょうね(笑)。

しかしよだかの星の物語構造を外野から客観的に分析してみると、全ての出来事に必然性が感じられます。よだかが醜いのは星の美しさを強調するためだと考えられるし、よだかが食物連鎖に包摂されていたのも星が独立していることを強調するためだと考えられる。そして有限の生命を持つよだかと無限に燃える星が対句になっていて、よだかの死は有限を無限に反転させるための儀式だと解釈できますね。
 

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このように「よだかの星」は、物語の内野に存在するよだかの視点から見ると「偶然性に支配された不条理文学」に思えるのですが、物語の外野から構造を観測すると「必然性に支配された整然とした文学」に思えます。内側と外側の違いで偶然が必然に反転する文学が「よだかの星です。物語の内部でよだかの性質が反転しているだけでなく、読者の視点の違いで物語全体の解釈も反転するのです。この反転ギミックと関連して、カミュ「シーシュポスの神話」の話をさせて下さい。
 
劇団「架空畳」の小野寺さんは、ようつべで「シーシュポスの神話」を解説しています。「シーシュポスの神話」は、不毛な労働を繰り返すシーシュポスの不条理な人生を描いた実存主義文学だという説があります。しかし「シーシュポスの神話」は繰り返しを描いているので円環構造を形成しており、不毛な労働を繰り返しているのは人類全体に当てはまることだと思える。「シーシュポスの神話」はシーシュポスの主観に即して見ると実存主義文学として読めますが、客観視点から見ると構造主義文学として読めます。
 

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よだかの星」と「シーシュポスの神話」は、視点によって「主観と実存/客観と構造」が反転する好例です。青い空のカミュ』とかいうノベルゲームが「よだかの星」と「シーシュポスの神話」を両方とも下敷きにしていることは、興味深いことだと思います。『青い空のカミュ』「よだかの星」「シーシュポスの神話」の三作は、「実存/構造」という問題圏を共有する作品として読めます。

「インテリがアイドルを研究し、アイドルが文学者になる時代」の誕生。

エンタメ消費の高レベル化が止まらない

ここ最近になってから、オタク文化評論界隈の高学歴化が急激に加速していると思う。例えば大阪大学感傷マゾ研究会」「早稲田大学負けヒロイン研究会」とか言った「研究団体」が、Twitterやnoteで注目を集めている。また、名前は書かないが、立命館大学の博士課程院生や日本大学の非常勤講師で、アニメについて研究している人が同じくTwitterで活躍していたりもする。私よりも学歴が高い人々がオタク文化について研究し、界隈で強力なコロニーを形成していると感じる今日この頃である。
 
私は先月、暇潰しに東京大学美学芸術学研究室のホームページを閲覧した。そして学部生の卒論を覗いてみたら、予想を裏切る内容だった。令和の東大生の卒論の題名がなんともおちゃらけゲフンゲフンポップな内容だったからだ。
 

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ビデオゲーム作品批評の批評」「グループアイドル・システムの誕生」「ジャニーズのホモソーシャル性 アイドルグループ嵐についての考察」「仮構性から見るコントの笑いの構造」「ビデオゲームにおける、ループするBGMの在り方について」「キャラクター論の展開におけるキャラクターソングの立ち位置について」…。パッと見、ゲームやアイドル、お笑いやライトノベルなど、エンタメコンテンツに関する卒論がかなり多い印象を受ける。勿論中にはシリアスな題名の卒論もあるけれど、令和の東大生はこういうポップな対象を研究して卒業してるんだなと、私は大きな衝撃を受けた。
 

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そしてゲームが研究対象として認められるようになっただけでなく「eスポーツ」としても認められるようになった。私の地元の高校でも次々に「eスポーツ部」が発足し、高校生たちが日夜ストリートファイターのコンボを特訓する「部活動」を行っている。プロゲーマーが、『東大卒プロゲーマー』『勝ち方はポケモンが教えてくれた』とかいう本を書いていたりもする。かつては暇潰しの趣味のように思われていたゲームが、今ではすっかり本気の競技種目の仲間入りである。
 
最早、アニメ・ゲーム・アイドル・お笑いのようなエンタメコンテンツを、単なる暇潰しの娯楽だと考えるのは時代遅れだろう。物凄いインテリや意識高い系の人々がエンタメ消費の現場に続々参戦しており、コンテンツ消費の高レベル化が止まらない。エンタメをエンタメと呼ぶのが憚られる世の中になってきていると思う。
 

「文学を書く芸能人」の続々参戦

最近ではインテリがアイドルやお笑いを堂々と研究するようになった一方、アイドルやお笑い芸人が文学を執筆するようになった。
 
2015年、お笑い芸人の又吉直樹『火花』芥川賞を受賞したことは記憶に新しい。又吉は純文学を読むのが趣味で文才に恵まれており、芸人だけでなく作家としての力量も高く評価されている。又吉は去年の3月に東大の副学長と「言葉の力」をテーマにした対談を行ったらしい。インテリがお笑いを研究し、お笑い芸人が純文学を書いたり有名大学で講義したりする世の中である。
 
また、2020年にはAV女優の紗倉まなが書いた小説『春、死なん』が、野間文芸新人賞の候補になった。今、私の手元に『群像』とかいう文芸誌が置いてあるのだが、この雑誌に紗倉まなの小説が掲載されていた。文章にざっと目を通した限り、紗倉さんも文才があるなと思った。紗倉さんも又吉と同じように、芸能人としてのネームバリューがあるだけでなく小説家としての実力も備わっている人なんだろうなと思う。
 

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そして去年、ジャニーズアイドルの加藤シゲアキオルタネート』吉川英治文学新人賞を受賞した。東大生がジャニーズアイドルの卒論を書き、ジャニーズアイドルが文学の新人になるのが、令和という時代である。加藤シゲアキは自分で書いた短編小説を舞台化し、脚本家デビューも果たしている。加藤シゲアキ直木賞本屋大賞の候補になっており、着実に人気作家としてのコースを歩みつつあると持ち上げておこう
 
他にも、乃木坂46元メンバーの高山一実が『トラペジウム』という小説を書いたり、宇多田ヒカル又吉直樹と『文学界』で対談したりしている。*1こうなってくると、「こんなん『文学界』じゃなくて『芸能界』やろ!とツッコミを入れたくなる。このように令和の日本では、文学界と芸能界の境界が曖昧になってきているのだ。
 

ハイカルチャー/サブカルチャー」の解体

一昔前の世の中では、主にインテリが文学の研究や執筆を主導し、アニメやアイドルなどは大衆に消費される暇潰しコンテンツだと思われていたと思う。しかし令和の日本では明らかに価値が転倒し、ハイカルチャー/サブカルチャーの境界がグチャグチャに掻き乱されている。言うなればインテリがアイドルを研究し、アイドルが文学者になる時代」の誕生である。私は「ハイカルチャー/サブカルチャーという区別を今後極力使わないことを、ここに宣言する。なぜなら令和は、「ハイカルチャー/サブカルチャーの区別が根本的に失効した時代だからだ。
 

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京都大学名誉教授の辻本雅史は『江戸の学びと思想家たち』で、学校をメディアとして考えるという興味深い視点を提示している。私たちはテレビというメディアでM-1グランプリを見たり、FANZAというメディアでポルノビデオを視聴したりしている。それと同じように、私たちは学校というメディアで政治の講義を受けたり、数学の授業を聴いたりする。つまり学校にはテレビやFANZAと同じように「情報の伝達メディア」という側面があり、学校の授業はM-1グランプリやポルノビデオと同じような「メディアから発信された情報」だと解釈できるわけだ。
 
辻本は学校というメディアがインターネットなどのデジタルメディアに主役の座を奪われてきていることを危惧している。学校というメディアが発信する日本史の授業はつまらなくて眠くなる情報だけど、デジタルメディアが放送するお笑い動画やアイドルのPVは睡眠時間を削りながら没頭できる面白い情報だ。デジタルメディアが学校よりも強力な覇権メディアになり、アニメやアイドルは日本史や数学よりも魅力的な情報だと人々が確信するようになったとき、時代に大きな転回が発生する。そして、ハイカルチャー/サブカルチャーの区別は転倒し崩壊するのである。

*1:ついでに宇佐見りんさんの芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』がアイドルを題材にした小説であることも付け加えておきたい