かるあ学習帳

この学習帳は永遠に未完成です

1999年版『終ノ空』考察解説まとめ

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終ノ空

シナリオ:SCA-自

原画:SCA-自、基4%、にのみー隊長

(C)ケロQ

1999年8月27日発売

 

 

水上行人と若槻琴美

本節では『終ノ空の主要登場人物である水上行人と若槻琴美について考察する。行人と琴美は幼なじみの関係である。狂気に陥った卓司やざくろとは対照的に、行人と琴美は正気の人間である。そして行人と琴美は、世界の終わりが到来しないことを信じたい側の人間でもある。

・水上行人について

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水上行人は、ダラダラするのが好きな少年である。学校の授業をよくサボる。読書が好きで、カントの『純粋理性批判』などを読んでいる。しかし行人は、いざという時には頼りになる男でもある。世界の終末を信じる間宮卓司一派に対抗し、ヒロイックに奮闘する。
 
『終ノ空』公式サイトによれば、行人は「理性的な少年。だがそれ故に理性の限界を知っている」という。なぜ、理性的な人間は、理性の限界を知ることになるのか。その答えは、行人が愛読する『純粋理性批判』を読めばわかる。
 

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 人間的理性はその認識の或る種類において特異な運命をもっている。それは、人間的理性が、拒絶することはできないが、しかし解答することもできないいくつかの問いによって悩まされているという運命であって、拒絶することができないというのは、それらの問いが理性自身の本性によって人間的理性に課せられていからであり、解答することができないというのは、それらの問いが人間的理性のあらゆる能力を越え出ているからである。*1
 
カントによれば、人間の理性は、推論に推論を重ねた末、一切の物事の根本にさかのぼろうとする。理性は答えの出ない根本問題を目指して、ときに暴走する。理性的な人間は理性的であるがゆえに、理性を働かせているうちに、解答することができない根本問題に悩まされる。理性的な行人は理性的であるが故に、理性の限界に直面する運命を担っている。
 
理性の限界を知っている行人がカントのアンチノミー論に心惹かれ学校の屋上で終ノ空を見ることになるのは当然の成り行きだろう。暴走した理性は答えの出ない根本問題を作り出し、答えの出ない根本問題がアンチノミー論では吟味される。終ノ空は、〈ある〉ことと〈ない〉ことの対立が終わる場所である。アンチノミー論と終ノ空は、理性の限界と密接に関わっている。
 
行人は、宇宙の始まりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えないことを『純粋理性批判アンチノミー論から教わる。そして行人は、「〈ある〉ことと〈ない〉ことは対立するように見えるのだが、実は同じものなのではないか?」と思うようになる。
 

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 んな感じで、俺は、宇宙のはじまりが〈ある〉とも〈ない〉とも言えない。どちらも論理的矛盾をかかえているからだ。
 この様に、人間には、世界の根元の部分で決して語りえない、証明不可な部分がある。

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行人「〈ある〉という事と〈ない〉という事…

行人「もしかしたらこの対立するように見えるものは所詮表裏一体、同じもんなんじゃないかなぁ
行人「だからどちらを答えても…」
行人「対立してるもの」
行人「対になっているもの」
行人「それ以外のもの」
行人「…」
彩名「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない
行人は卓司と共に、アンチノミー的な場である終ノ空を見上げた。行人は理性の限界に直面しても、その限界を超えようとしない。行人は彩名に、「立ち止まる者」「見つめる者」と評されている。理性の限界で立ち止まり、世界を見つめる者。それが行人だ。形而上学的な根本問題を、行人は語り明かそうとしない。語り得ぬことについては、沈黙しなくてはならない」。ウィトゲンシュタインの言葉の意味を、行人は思索する。
 

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彩名「ゆきとくんは卓司くんとまったく違う生き方をしている」
彩名「でもそれは、まったく違っていながら」
彩名「裏、表の逆でしかない」
彩名「それは、立ち止まる者と立ち止まらない者」
彩名「見つめる者と食らう者」
(中略)
彩名「ゆきとくんはここに立っている
彩名「ずっと
彩名「ここに立って
彩名「見つめている
卓司「なにを?
彩名「世界を…
卓司「世界?
彩名「そう、卓司くんが捨てた…もの
彩名「世界のすがたを…
彩名「そうして彼は消えていく」
彩名「何もない…」
彩名「無のなかに」
彩名「彼は消えていく…」
彩名「何の意味もなく、何の理由もなく」
彩名「ただ」
彩名「ただ、消えていくの」
 

・若槻琴美について

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若槻琴美は、一見すると快活な少女である。行人とは幼なじみで、実は行人のことが好き。数学と物理の成績が行人よりもずっと低いらしいが、他は文武両道の優等生である。剣道部に所属しており、後輩のやす子に慕われている。高島ざくろの自殺に心を痛める。琴美は弱虫な心を押し隠して強がるタイプで、琴美視点の時には彼女が人知れず抱える悩みが明かされる。
 
琴美はクラスメイトたちが噂する友達の自殺や世界の終わりの話に、上手く馴染むことができないでいる。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。
琴美には現世でやりたいこと(欲望)や、やらなきゃいけないこと(義務)がたくさんある。死や世界の終末は、現世でするべき行為の遂行を中断させてしまう。琴美には現世でするべき行為がたくさんあるので、琴美は終末感に満ちた教室の雰囲気に適応することができない。琴美はあくまでも現世……この世界の住人なのだ。
 
そして琴美は、幼なじみの行人とずっと一緒にいたいと思う。だから琴美は、行人と離別することを恐れる。するべき行為に満ちた現世。常に側にいる幼なじみ。それらは琴美にとって大切なものだ。だから、琴美は死や世界の終末を拒絶するのだ。
 

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 行人も、どこかにいっちゃうのかなあ…。
 そうだよね…、
 行人にとってわたしは…、
 いつまでも弱虫な…、
 心配ばかりかける…、
 幼なじみ…。
 いつか…、
 行人が、わたしから去って行く時に…、
 笑顔で見送れるようにしようと…、
 がんばってるんだけど…、
 でも…、
 だめ…、
 もし、行人がわたしの前から消えたら…、
 わたし…、
 笑顔でいられない…。
 泣いてしまう…。
 たぶん…、
 また、一人で泣いてるんだろうなあ…。
 なにも出来ずに…、
 ずっと…、
 ずっと…一人で…。
 まだ震えが止まらない…。
 こわい…。
 こわいよ…。
 世界は…、
 終わらないよね。
 
琴美には幼い頃、飼い犬のジョンが死んだ時の思い出がある。幼い琴美は死んだジョンの魂を求めて、家の外を探索した。琴美は世界の時間的な終わりだけでなく、空間的な終わりも否定する立場を取る。琴美が幼い頃の原風景は、世界の空間的な終わりを否定する根拠になっている。
 

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行人「たしか、あの時お前、ジョンの魂を探しに行くんだとか言って」
琴美「そう、ジョンの魂を取り戻せば、ジョンが生き返るって思ってて…」
行人「取り戻すって」
行人「お前、あの時どこに行こうと思ったんだ?」
琴美「わかんない…」
琴美「ただ…」
琴美「いつもその先を越えられない大きな坂があって…」
琴美「それを越えたらたぶん、ジョンの魂があるって…」
行人「大きな坂?」
琴美「うん、学校に行く途中の…」
行人「あれって、そんなに大きかったか?」
琴美「今はそうでもない…でもあの時は」
琴美「子供の時はものすごく大きく感じた」
琴美「これは世界の果ての壁なんだって思ってた
琴美「これを上り切ったら世界の果てなんだって
琴美「でも、違った…
琴美「その坂を上り切ったら
琴美「その先にもここと同じ街があった
琴美「その先にも坂があって、その先にも…
琴美「永遠に街が続いていた
琴美「世界に果てはないんだって、その時気が付いたの…
琴美は、いくら先に進んでも、死んだジョンの魂を見付けることができなかった。琴美は、いくら先に進んでも、世界の果てに辿り着くことができなかった。琴美が見出だしたものは、永遠である。どこまで先に進んでも、永遠に街が続いているだけだ。だから琴美には世界の果てはなく、琴美は永遠に広がる世界を信じる。永遠の広がりの中の有限な点として、琴美は生きる。
 

高島ざくろと間宮卓司

本節では『終ノ空の主要登場人物である高島ざくろと間宮卓司について考察する。正気の人間である行人や琴美とは対照的に、ざくろと卓司は狂気に陥った。ざくろと卓司は、語り得ぬものについて語った。そしてざくろと卓司は、世界の終末の到来を信じた。
 
・高島ざくろについて

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高島ざくろは不良の小沢裕一に強姦され、弱味を握られていた。琴美には優しくしてもらい、感謝していた。ざくろは「前世の仲間」から手紙を受け取る。前世の仲間である宇佐美・亜由美に出会い、前世の記憶を取り戻す。ざくろと前世の仲間たちは「大いなる災い」から世界を救うために、学校の屋上から飛び降りる儀式(スパイラルマタイ)を行い、死亡した。
 
終ノ空』琴美視点を読み終わった後でざくろ視点を読むと、琴美とざくろがいくつかの点で「対」の関係になっていることに気付かされる。まず、琴美は世界の終末の到来を信じまいとするが、ざくろは世界の終末の到来を信じた。そして琴美はあくまでも現世の住人であろうとするが、ざくろは前世の記憶を頼りに行動を起こした。琴美には日常生活でするべきことがたくさんあった一方、ざくろは無意味に感じられる毎日を送っていたことも対になっているのだろうか。
 
ざくろは「前世の仲間」に出会い、前世の記憶を取り戻した。ざくろの覚醒(アタマリバース)は、正常な人間からすれば狂気や電波を感じるものだ。なぜだろうか。なぜなら、現世を生きる私たち人間は、通常の場合、前世の記憶を持たないからだ。私たちには前世での出来事を経験した記憶が無く、理性をもってしても前世での出来事を推論する事ができない。そういう意味で、前世の事柄は理性の限界を超えている。そもそも、私たちに前世が存在するかも定かではない。ざくろは理性の限界を超越した事柄を知り、理性の限界を超えた。だから私たちは、ざくろの事を「狂っている」と思う。
 

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宇佐美「お手紙に書いた通り、あなたと私達は前世で世界の危機を救う為に戦った仲間だったんで
 仲間…。
 築川さんと瑞緒さんとは仲間だった…。
 そう言えば、あの時…。
 空から大きな禍々しいモノが降ってきた時、隣に誰かいた様な気がする…。
 あれは…、
 あれは築川さんと瑞緒さん…?
宇佐美「私達は昔、もう1つの宇宙、アウタースペースにある
宇佐美「ネブラ星雲のエロヒムロという星の住人でした
 
私たちは普通、「自分はなぜ生まれてきたか」「自分はなぜ存在しているのか」という根本問題に満足に解答できない。しかしざくろは前世の仲間と対話することにより、自己の存在理由をも知る。自己の存在理由は前世の事柄と同じく、経験によっても理性によっても十分に解答できない問題である。自己の存在理由を解き明かすのは理性の限界を超えた行為であり、やはり正気を逸脱している。だから、ざくろは狂っている。
 

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 私が何で生まれて来たか…、
 私が何で存在しているか…、
 それが今日解ったわ…!
 そうよ…、
 私は世界を救う戦士だったのよ!
 仲間と共に…。
 仲間…。
 友達…。
 本当の友達…。
常人は前世の記憶を持たないし、自己の存在理由を満足に知らない。前世の事柄や自己の存在理由は、常人にとっては「語り得ぬもの」であるはずだ。*2しかしざくろは語り得ぬものを知り、解き明かした。ざくろは語り得ぬものを解き明かしたという点で、卓司と同類の人間だとみなされる。
 
・間宮卓司について

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間宮卓司は、校内でいじめや嫌がらせの標的にされている少年であった。「バカタク」「ゲロタク」などと罵られていた。自分をいじめる他人やいじめを無視する教師に対して、卓司は憎悪を抱いていた。卓司は世界の終わりを信じ、幻覚(?)が見えるようになる。壁に描いた魔法少女リルルの落書きと対話することができる。「真理」に到達した卓司は、世界の終わりを宣告する救世主を名乗るようになる。
 
救世主に生まれ変わったと自称する卓司は世界の終わりを宣告し、この世の多くの建前が嘘であると力説する。平凡な人々は「人類は皆平等だ」「嘘をつくのは悪いことだ」といった建前=嘘を適当に信じ、適当に生きていく。しかし卓司は、平凡な人々が信じる嘘を嘘だと言い切ってしまう。そして人々の未来には奈落が待ち構えていることを宣告してしまう卓司は、日常性に「否」を突き付ける予言者である。
 

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卓司「そう、嘘なのだ!」
卓司「すべては嘘であったのだ!
卓司「世界がずっと前からあることも」
卓司「これからもあり続けることも」
卓司「すべては嘘だ!
卓司「我々が前に踏み出そうとするその先は…
卓司「奈落なのだ!!
卓司「世界は終わる!
卓司「確実に終わる!
卓司「これが真実なのだ!
 
卓司は大勢集まった信者たちに説法する。卓司は人生の無意味さを喝破する。卓司はその代わり、「兆し」と「予還」について語る。
 

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卓司「我々は、今までの我々の不条理さ、不合理さ、を認め
卓司「さらに、我々の終わりを受け入れなければならない!
卓司「無意味な人類の!一生を!受け入れなければいけない!!!
(中略)
卓司「しかし、それを認めてなお」
卓司「無意味な人生そのものを受け入れてなお」
卓司「我々が、その存在を否定しきれないなら」
卓司「君の心に」
卓司「まるで」
卓司「沈んでしまった船が」
卓司「その船の」
卓司「その躯のあった場所に…」
卓司「残していった」
卓司「水面の」
卓司「水面の…波紋…」
卓司「揺らぎのように」
卓司「心の中に、予感があるなら」
卓司「波紋のような揺らぎがあるなら」
卓司「それは…」
卓司「それこそ」
卓司「兆しへの予還である
さて、卓司の言う「兆し」「予還」とは何だろうか。思うに、「兆し」「予還」とは、この世界の内側から感じられる、この世界の外側の事象の「予感」のことだろう。この世界の内側に存在している私たちは、人生の意味について満足に答えを出すことができない。そしてこの世界の内側に存在している私たちの生は、不条理なものに感じられる。
 
この世界の内側に存在している限り、揺るぎない人生の意味は見つかりそうもない。しかし、この世界の外側に出たら、揺るぎない人生の意味が見つかるかもしれない。カラッポな私たちの生は、世界の外側から降り注ぐ意味によって満たされるのではないか。私たちの生を有意味なものにする〈外部〉が存在する予感が、「兆し」「予還」と呼ばれているのだろう(たぶん)
 
兆しからそれ以後になるための儀式として、卓司は集団自殺を行った。集団自殺の後、行人は卓司を次のように評している。卓司は理性の限界で立ち止まらず、語り得ぬものについて語った。卓司は、形而上学を誕生させようとした。
 

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 ヤツは聞いた。
 ヤツは、堂々と世界に存在の意味を聞き出した。
 そして、存在の至りという、菩提樹の実を食べた。
 新しい、形而上学の誕生…。
 それこそ、世界を食らうという事…。
 
カントによれば、形而上学とは「経験の限界を超えた、果てしない抗争の戦場」である。世界の果てはどうなっているのか」「死後に魂は存在するのか」「神は存在するのか」……など、人間の経験はもとより理性を当てにしても解答するのが困難な根本問題が、形而上学では議論される。卓司は、形而上学の世界に、堂々と足を踏み入れた。
 

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というのは、人間的理性が利用するそれらの諸原則は、すべての経験の限界を越え出てゆくので、経験という試金石をもはや承認しないからである。この果てしない抗争の戦場こそ形而上学と呼ばれているものである*3

 
理性の限界で立ち止まった行人と理性の限界で立ち止まらなかった卓司の間では、反形而上学形而上学の対立が発生している。行人と卓司の関係は対になっており、行人は卓司に対決を挑む。しかし、卓司の方は行人にある種の好意を抱いていた。
 

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卓司「僕はね
卓司「たぶん
卓司「僕は君が好きだったんだよ…
行人「…なんだそれ?」
卓司「すべての誤謬の中で
卓司「君だけは
卓司「僕のなかで真実だったのかもしれない
行人「…」
行人「お前…ホモか?」
卓司「あははははは、違うよ」
卓司「肉体の君など」
卓司「好きでもなんでもないよ」
行人「…よかった」
卓司「こんな言葉を知ってるかね
卓司「つれだつ友なる二羽の鷲は、同一の木を抱けり
行人「…」
卓司「その一羽は甘き菩提樹の実を食らい他の一羽は食らわずして注視す
世界を注視する行人と世界を食らう卓司は、対立している。しかし行人と卓司は、彩名が言う通り「裏、表の逆でしかない」。行人と卓司は、所詮二羽の鷲のように「つれだつ友」なのだ。卓司は行人に対して、「つれだつ友」としての親近感を抱いていたのだろう、と推測できる。なんやかんやで行人が世界を愛していたところも、卓司は気に入っていたのだろう。
 

呪われた生と祝福された生

本節では、『終ノ空』の主題の一つである「呪われた生と祝福された生」について考察する。
 
・赤ん坊の夢
行人は、たまに夢を見る。呪われた生と祝福された生を、共に生きる赤ん坊の夢を。赤ん坊の生は祝福されているのに、赤ん坊は自らの生を呪う。
 

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行人「赤ん坊が生まれるんだよ」
行人「そう」
行人「その赤ん坊は泣くんだよ」
行人「おぎゃ、おぎゃ、ってさ…」
行人「その声を聞いてみんなわらうんだよ」
行人「みんな祝福してるんだよ
行人「お母さんも…」
行人「お父さんも…」
行人「そして、その他の人も…」
行人「その赤ん坊の生を…
行人「祝福するんだ
行人「世界は生の祝福で満たされる
 
生まれたばかりの赤ん坊の生を、両親やその他の人々が祝福している。赤ん坊は誕生を肯定され、生きることを許されている。しかし、世界が幸福に満ちていたとしても、赤ん坊本人は世界と自らの生を呪っている。
 

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行人「でも」
行人「でも、違うんだ」
行人「そこで」
行人「俺は」
行人「俺は一人そこで恐怖するんだ…」
行人「恐怖を…」
行人「なぜなら…」
行人「それは、世界を呪っているんだ
行人「確実に…」
行人「世界を呪っているんだ
行人「その生まれたての赤ん坊は
行人「生まれた事を
行人「呪っているんだよ
行人「確実に」
 
赤ん坊は反出生主義者のように、自分がこの世に生まれたことを呪っている。生の祝福に満ちた夢の中で、生への呪いが確実に存在する。行人は、赤ん坊の息の根を止めようとする。
 

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行人「俺は」
行人「俺はその場で氷りつく」
行人「みんな、笑っている中」
行人「祝福の中で」
行人「一人で…」
行人「俺はさ…」
行人「俺は、よろけながら…」
行人「その赤ん坊に近づくんだ」
行人「そして、その赤ん坊の泣き声を止めようとするんだ
行人「そして、そうしなければいけないと思うんだ
行人「なぜ?」
行人「分かんないけど…」
行人「それがさ」
行人「それが、生まれてしまって
行人「無惨に生き続けてしまってる俺の
行人「俺の
行人「唯一の
行人「唯一の償いだと思うんだ
行人「誰に対して?
行人「たぶん
行人「その赤ん坊に対して…
行人「そして
行人「それ以外のなにかに対して…
行人「だと思う…
行人「俺は、生まれたての赤ん坊の首を絞めて
行人「その人生をそこまでで終わらせようとする
行人「終わらせるために…
行人は、自分の生を無惨だと思っている(行人は直前で「俺は人生が始まった瞬間から負け続けてるよ!」と言っている)。行人には、自分が無惨な生を送っている事に対する申し訳無さのような思いがあったのかもしれない。自分は無惨に生き続けている。せめて、この赤ん坊だけは無惨に生き続けないようにするため、赤ん坊の息の根を止めよう。行人はそう思ったのかもしれない。
 

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行人「祝福の笑いのなか」
行人「俺は」
行人「俺は、赤ん坊の首を絞めようと…」
行人「しかし…
行人「出来ないんだよ
行人「おぎゃ、おぎゃ、って泣いている赤ん坊の首を
行人「俺は
行人「俺は絞められないんだ
行人「なんで?」
行人「なんでなんだ?」
行人「これが、唯一できる償いなのにもかかわらず」
行人「泣き声を終わらせなければいけないのに
行人「出来ないんだ
行人「その赤ん坊に、何一つ、意味を与えられない
行人「何一つ、可能性をやれない俺が
行人「しなければならない唯一の方法なのに…
行人「出来ないんだ…
行人は、生を呪って泣いている赤ん坊に対して、完全に無力であった。理由は明言されていないのだが、赤ん坊を実際に殺害する事は、相当な決断力や実行力を要する事であろう。赤ん坊を殺害できないのは、人として当然な事に思える。
 

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行人「俺はその場で倒れ込むんだ…」
(中略)
行人「そのうち…」
行人「赤ん坊の泣き声が…
行人「普通に
行人「普通にさ
行人「普通になるんだよ
行人「それで」
行人「普通に…」
行人「おぎゃ、おぎゃって泣くんだよ」
行人「その声を聞きながら
行人「俺は泣きながら
行人「よかった、と思うんだ…
行人「よかった、と…
行人「何を?」
行人「よくわからないけど…」
行人「よかった、と…」
行人「何も解決してないし」
行人「なにもわからないけど…」
行人「ただ」
行人「ただよかったと」
行人「俺は泣きながら」
行人「思うんだよ…」
行人「…」
行人「俺が生まれて
行人「いまも生きているという事は
行人「たぶん
行人「たぶん、そういう事だと思うんだ
行人「そう…
行人「そして、これが
行人「これが、予感なんだと…
行人「思うんだよ
行人「俺の生きている
行人「予感だと
行人「…」
行人は赤ん坊を殺す事ができず、赤ん坊は大人しくなる。こうして赤ん坊の生への呪詛が、とりあえずはおさまった。生まれたばかりの尊い命が死なず、生への呪いが鎮静化したので、確かに良かったのだろう。
 
思うに、行人の夢の中の赤ん坊のように、生まれてきた事を呪う思いは、誰の心の中にもいくらかあるだろう。私は生まれてこない方が良かった、と……。しかしそう思っても、誰もそう簡単に自殺はしないし、他人を殺したりもしない。それでいいのだ。それが生きるという事なのだ。そういうインスピレーションが、行人の夢の中に現れたのだろう。
 
・雑踏の思索

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 我々は生まれた瞬間に、
 死を約束されているのだ。
 これを、呪いといわずして、何を呪いといえるのか。
 この呪いをまともに受け入れてしまった人間に対して、
 軽傷なだけで、生き残る事が出来る人間が何を言えるのだろうか?
 言えはしない…。
この世に生まれた人間には、(ほぼ確実に)死が約束されている。この世に生まれた人間全員には、死という呪いがかかっていると言い替えても良い。自分には死という呪いがかかっているという事実は、真剣に考えれば考える程、気が滅入る話である。
 
行人が見た夢に出てきた赤ん坊は、「この世に生まれた事」を呪っていた。行人の思想では、「死」が生を蝕む呪いとして表現されている。生きる事も呪い、死ぬ事も呪いと言った所だろうか。人間の全ては呪いなのか?そうではない。
 

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 しかしである。
 それでいてである。
 人間は、
 その生を祝福もされている。
 だから、無意味な存在なのにも関わらず、
 人間は生きる事が出来るのだ。
 …。
 人間?
 否、
 すべての存在だ。
 すべての存在は祝福されている。
 意味など、関係なく、我々は存在する事を許されている。
 だから、ここにすべての存在が存在しているのだ。
 我々は、存在を獲得しようとする。
 だから、我々は生きようとする。
 これは、祝福としかいいようがない。
 喜ばしくも、悲しむべきでもない、
 ただの祝福。
行人は、人間の生は呪われているだけでなく祝福されてもいると考えている。人間を含む全ての存在は祝福されており、全ての存在はこの世に生きる事を許されている。生きる事を許されているのに加えて、私たちは生を獲得しようとする。ただ単に生存が許可されている事だけでなく、私たちが生きようとする事も行人は祝福と呼んでいる。
 
終ノ空』琴美ENDでは、生の祝福について、さらに踏み込んだ議論が行われる。
 

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行人「だけど、祝福されているよ
行人「生は…
行人「だから、生への意志が…
行人「我々にはあるんだと思うよ
彩名「意志?」
行人「ああ、それは意志だ」
彩名「生きようとする意志?」
行人「いや、生きようとする意志ではなく」
行人「まさに、生への意志だ」
行人「生は、そこにあるが
行人「それを捕まえる事は出来ない
行人「我々は、生の匂いも、生の感触も、感じる事ができない
行人「生はそこにあるにもかかわらず…
行人「だから、人間は、それに至ろうとする
行人「生に至ろうと…」
行人「しかし、それには決して至れない」
行人「至る事がゆるされないんだ」
行人「だから、それは永久運動にならざるをえない
彩名「それは、どんな運動なの?
行人「俺には
行人「それは、回転のようにも見える
行人「生へ至る回転運動
行人は、人間の生を「永久運動」「回転運動」として捉えている。私たちは生を許され、私たちの生はここにある。なのに加えて私たちは生きようとし、生を掴もうとする。私たちは生への意志によって駆動し、グルグルと回転運動を繰り返している。
 

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 生は呪われているが。
 祝福もされている。
 そう、言わざるをえない。
 だから、また、
 生きているものは、
 死んだ者を弔う権利があるのだ。
 生きているものは、
 死のうとするものを引き止める権利があるのだ。
 …。
 人は、目の前の死のうとしている人を止めようとする。
 それは、自殺を悪とは認めてない俺ですらそうだ…。
 なぜだ…。
 なぜ生は呪われているのに、
 それに我々は固執するのだ?
 それこそが生の祝福なのだ。
どんなに呪われた生だとしても、自分の生を肯定し、あるいは他者にその生を肯定されるならば、そこに祝福がある。呪いとは生の否定であり、祝福とは生の肯定である。こうして人間の生には、呪いと祝福が、生の否定と肯定が、共存する。
 
・明晰な呪いと曖昧な祝福
呪われた生と祝福された生の問題を掘り下げるために、『終ノ空シナリオライター・SCA-自氏の見解を引用しよう。
 

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「生への呪い」に対する言説は案外簡単に論理的にすら説明が出来る。
「生への祝福」に対する安易な言説は煙の様な言葉になり、その身体すら濁らす。
 
その様なアンバランスな対比がありながら、多くの人は「生を肯定している」。

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「生への祝福」はいくらでも言葉に出来ますが、言葉にするほどチープなものになります。
「生への呪い」は言葉にすればするほど、抜け出しがたいものとして覆い被さります。
 
私たちは、生を呪う言葉を簡単に吐き出す事ができる。しかも、生を呪う言葉は、言えば言う程重みが増してくる。「私は/お前は生まれて来ない方が良かった」「生きるのは辛い」「死にたい」「死ね」。こうした言葉は簡単に出てくるし、言えば言う程人々を深く傷つけ、苦しめる。
 
逆に、残念ながら、生を祝福する言葉は、言えば言う程安っぽいものに感じられる恐れがある。「私は/あなたは生まれて来て良かった」「人生は楽しい」「生きるのって最高だ」と言えば言う程、能天気なパリピのように思われてしまう場合がある。だから、生を祝福する理論を構築するのは、生を呪う理論を構築するよりも難しいだろう。
 
多くの人々は普段何となく生を肯定し、何となく生きようとする。生の肯定は曖昧で「何となく」なものになりやすい。その理由の一つとして、生を明晰な理論で肯定するのは難しいからという理由があるだろう。生を肯定する明晰な理論を構築するのは難しいから、生の祝福は多くの場合明晰に語られず、何となく人々の生を包み込む。こうして生の祝福は「語られず示されるもの」になっていく。
 
生きるのが辛くなり、死にたくなったときには、語られず示されるものに目を凝らし、耳を澄ましてはいかがだろうか。おそらくそこには生の祝福が、生の肯定があるはずだから。
 
・弱々しく空虚であることの良し悪し
とあるブログに、『終ノ空』が肯定した生は「あまりにも弱々しく、空虚」だというご意見があった。このご意見は至極もっともであり、反論の余地は無いと思う。しかし、『終ノ空』が肯定した生は弱々しく空虚だから「悪い」とは一概に言えないと私は思う。終ノ空で見出された生は弱々しく空虚であるからこそ、かえってリアリティがあるのではないか。
 
多くの人々は深い理屈を考えず、何となく生を祝福し、肯定していると思う。現実の日常生活で多くの人々を支えているのは、曖昧で「何となく」の生の肯定である。そして何となく肯定される現代人の生は、弱々しく空虚なものになりがちだ。『終ノ空』で肯定された生は弱々しく空虚なものだったけど、生が弱々しく空虚なのは現実の日常でもそう変わらない。だから終ノ空』の空虚な生には、弱々しいからこその生々しさがあると思うのだ。
 
終ノ空』は、日常に根差した弱々しい生を、くっきりと描いて提示して見せた作品だと思う。そういう点で『終ノ空』で肯定された生には、弱々しく空虚だからこその「良さ」があると私は思っている。弱々しく空虚だからこそ、現実で見落とされがちな生の様態を発掘できるところが、『終ノ空』の良いところだ。
 

彩名END考察

本節では『終ノ空』の彩名ENDを考察する。彩名ENDは今日に至るまであまり考察されてこなかったように思う。彩名ENDの深淵を探りたい。
 
・一寸先は奈落
学校の噂や間宮卓司の予言では、7月20日に世界が終わるという。行人は、気が付くと晴天下の校門の前に立っていた。世界が終わると予言された7月20日が過ぎた後も、相変わらず日常世界が続いているかのように見えた。学校の屋上には、音無彩名が立っていた。彩名は、行人の記憶の異常を、鋭く指摘する。
 

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彩名「ゆきとくんは
彩名「ここまで
彩名「学校まで来た記憶がないのに
彩名「学校にいるんでしょ
行人「ああ、そうだ」
行人「なら」
行人「…やばいよな」
行人「俺、病気かな?」
彩名「くす」
彩名「かもね」

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彩名「もしかしたら
彩名「永久に続くかもよ
行人「何が?」
彩名「目をつぶった瞬間」
彩名「また」
彩名「透明な白の中で」
彩名「自分を感じるの」
彩名「そして」
彩名「また」
彩名「校門の前で」
彩名「立ちつくすかも」
彩名「そして」
彩名「ここでわたしと会うかもしれない」
彩名「いいえ」
彩名「もしかしたら」
彩名「わたし以外のわたしと会うかも」
彩名「無限のわたしと
行人「どこで?」
彩名「ここで…」
彩名「ここでよ」
もしかしたら記憶が欠落している行人は、目をつぶった瞬間に光に包まれ、晴天下の校門にワープしたのかもしれない。そして行人は学校の屋上で、彩名との邂逅を無限に繰り返すのかもしれない。学校の校門へのワープと、彩名との邂逅が、無限にループしているのかもしれない。いわゆる「無限ループ」発生の可能性を、音無彩名は示唆する。
 

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行人「たしかに
行人「そうなったら
行人「俺がいた
行人「あの
行人「あの世界は
行人「終わってるな
行人「ここは
行人「あの世界ではなく
行人「無限という
行人「死の世界だな
彩名「くす」
彩名「あの世界…」
彩名「まるで」
彩名「あの世界と呼んでいる」
彩名「現実世界が」
彩名「あの世になったような」
彩名「そんな、言い回し」
行人「ふふふふ」
行人「その通りだよ」
行人「もし
行人「俺がいままでいた
行人「現実世界というものが
行人「終わっているなら
行人「もう
行人「あの世界
行人「つまり
行人「現実世界は
行人「あの世だよ
行人「そして
行人「無限という
行人「死の世界が
行人「この世となる
行人「…」
行人「死が絶対にない」
行人「死の世界」
行人「ふふふふ」
行人「それは」
行人「地獄だな…」
行人が今まで過ごした現実世界は、もう終わったのかもしれない。そして行人は、無限にループする異世界に転移してしまったのかもしれない。もしそれが本当ならば、行人が今まで過ごした現実世界は「終わりのある世界」だったわけだ。そして代わりに行人は、「終わりのない世界」の住人になったことになる。
 
行人は目をつぶり、また「さっきと違う世界」にワープした(?)。行人と彩名は学校の屋上でセックスをする。行人と彩名によれば、愛は「最高の鎮痛剤」である。愛という鎮痛剤の効果は、束の間のものだ。しかし、孤独な生の痛みを、愛はしばらくながら確実に忘れさせてくれる。奈落の中で、二人は愛し合う。
 

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 次の瞬間が奈落だとしても、
 それは、
 しかたない事なのだ。
 我々はそんな、
 むき出しの不条理のなかを、
 実は、
 生きているのだ。
 …。
一寸先は闇、という言葉がある。私たちはほんの少し先の未来も満足に予測する事ができず、一歩先の未来にすら底知れぬ闇が広がっている。行人が一歩先に進んだ未来には、地獄や奈落が広がっていた。私たちには明るい未来が保証されておらず、私たちにはいつでも理不尽な目に遭う可能性が残されている。嫌な話だが、「しかたない事なのだ」。私たちの生については、一寸先は奈落、という言葉がよく似合う。彩名ENDは、私たちの不条理な実存を作品化したものだと解釈できるだろう。
 
・99のその先
彩名ENDの結末は、行人が7月20日に行った思索の内容に明らかに対応している。
 

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 ふと俺はこんな話を思いだした。
 ある哲学者がまだそれでは食っていけず、塾の講師をしていた時の話らしい。
 彼は、ある学生に九九を教えていた。
 この学生は鈍臭く、何をやってもだめだったが、あたりまえのように九九もだめであった。
 しかしこの学生の間違えには面白い法則性があった。
 彼は、答えが100を超える数字になると、とたんに答える事が出来なくなったのだ。
 つまり、彼は九九とは100以下まで有効な法則だと思い、それ以上の数にはまた新しい法則が付け加えられなければならないと考えたらしい…。
(中略)
 科学は過去起きた事のなかから法則と呼ばれるものを取り出し、未来を予測する。
 〈高いところにあるリンゴから手を離すと、過去にもそれが誰がやってもそう落ちたようにこれも下に落ちる〉と未来予測をする…。
 我々の認識の大半も過去にあったものの再現によって、未来予測をおこなっている。
 昨日、明日が来たから、今日にも明日が来ると…。
 さっきの一歩が踏めたから次の一歩も踏めると…。
 明日が来ないかもしれないといって、仕事をやめる人もいないし、
 次の一歩はまだ世界が出来ておらず、踏み出せば奈落に落ち込むといって次の一歩をためらう人もいない…。
 だが、そう言えるのか?
 今までの事が次も起こるのか?
 もしかしたら次の一歩には世界がまだ間に合っておらず、踏み出した瞬間に奈落に落ち込むのでは…。
 もしかしたら、今までが99であって…もうすでに…。
 
これは根拠の無い私の推測なのだが、終ノ空が1999年に発売された事が、彩名ENDや行人の思索の内容に大きな影響を与えたのではないかと思う。1999年当時、「2000年問題」が騒がれていた。1999年までは普通に作動していたコンピュータが、2000年になったら日付を正常に認識できなくなり、誤作動するかもしれないという可能性が当時は危惧されていたのだ。結局2000年問題は杞憂に終わったのだが、行人が懸念している事は2000年問題に近しいだろう。
 
1999年までは正常に作動していたコンピュータでも、2000年になったらバグるのではないか。100以下までは有効な九九も、100を超えたら無効になるのではないか。今まで有効だった科学法則も、未来になったら無効になるのではないか。今までの一歩先には、今までの常識が通用しない奈落が広がっているのではないか。その不安は、1999年から2000年に移行する際に先鋭化したと推測できる私たちの踏み出す先が奈落であるという卓司の予言は、極めて90年代終盤に相応しい。そして行人は今までの一歩先を懐疑し、彩名ENDでは実際に奈落に落ち込んだ。
 
彩名ENDの奈落は、1999年の想像力に支えられたものだろう。しかし、2020年の今になっても、私たちの一歩先に奈落が広がっていないという保証は無い。(むしろ、現在の方が危機に満ちていると言えるかもしれない。と言うか、2020年はすでに奈落?)『論理哲学論考の言葉を借りるなら、太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない」のである。
 

ニーチェと琴美END~無限のなかの有限とはなにか~

終ノ空』琴美ENDは、ニーチェ哲学と密接な関係を持っている。本節ではニーチェを補助線にして琴美ENDを解読しよう。キーワードは「プラトニズムの逆転」「パースペクティビズム」「永遠回帰」「運命愛」である。
 
プラトニズムの逆転とパースペクティビズム

f:id:amaikahlua:20210802191001p:plainニーチェ(1844~1900)

私の哲学は逆転したプラトニズム。真実な存在者から遠く離れているほど、いよいよ純粋に、いよいよ美しく、いよいよ善く……。目標はー仮象における生*4
 
ニーチェは、プラトニズムを逆転したことで知られる哲学者である。プラトニズムとは、かなり大雑把に言うと、超感性的な世界を《真の世界》だとみなす考え方である。*5プラトニズムは、私たちが内在している感性世界の背後に、理想的な「背後世界」を設定する。そしてプラトニズムは感性世界を低次元なものとみなし、背後世界を高次元なものとみなす。私たちが内在している感性世界は所詮《仮象の世界》であり、感性を超えた背後世界が《真の世界》とする。これがプラトニズムの戦略だと言えるだろう。
 
その一方でニーチェプラトニズムを逆転し、私たちが内在している感性世界を上位の世界として位置付け・感性を超えた背後世界を下位の世界として横たえた。さらにニーチェは、超感覚的な背後世界を廃絶しようとした。プラトニズムは身近な感性世界を否定している。そうではなくて、逆に感性世界を肯定し、感性的な現実に帰れとニーチェは言うのである。
 

f:id:amaikahlua:20210802191001p:plain

 真の世界を除去することが、決定的に重要である。真の世界があればこそ、私たち自身がそれである世界が大いに疑問視され、その価値を減ぜられる。すなわち、真の世界はこれまで私たちにとって生の最も危険な謀殺であったのである。*6
 
終ノ空』の主人公・水上行人が間宮卓司に語った思想は、ニーチェと問題圏を共有している。行人は間違いだらけの感性世界を、間違いだらけであるが故に正当化する。これは私たちが内在している感性世界を上位だとみなすニーチェ立場に符合する。「この誤謬の世界/それこそが/それゆえに正しいものさ」という行人の発言は、プラトニズムが誤謬だとみなす感性世界を認可している。
 

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行人「いいや」
行人「生きなくともいい」
行人「ただ
行人「見つめる事だ
卓司「見つめる?」
行人「そうだ」
行人「呪われた、生を
行人「祝福された、生を
行人「呪われた、死を
行人「祝福された、死を
行人「見つめる事だ
(中略)
行人「この誤謬の世界
行人「それこそが
行人「それゆえに正しいものさ
行人「それが」
行人「どんなに」
行人「俺達にとって」
行人「グロテスクな姿を見せても」
行人「それを
行人「見続ける
行人「それが
行人「正しさだ
行人「世界を見続ける…
行人「それが
行人「俺達の責任の取り方だ!
行人が「見る」という感性的な行為を肯定している点に注目して欲しい。私たちは、私たちが内在する感性世界をそれぞれのパースペクティブ(=視点)から「見て」いる。この感性世界は人それぞれのパースペクティブから観測されており、人々から感性的に「見られる」世界には生き生きとした現実感が付与される。終ノ空では同じ世界が水上行人・若槻琴美・高島ざくろ間宮卓司によって「見られる」。終ノ空』の「マルチビューシステム」は、リアルなものはパースペクティブ的だというニーチェの「パースペクティビズム(遠近法主義)」の実践であると解釈できるだろう。さて、ハイデガーニーチェ講義から引用しよう。
 

f:id:amaikahlua:20210721180330p:plainハイデガー(1889~1976)

(中略)すべての存在者はそれ自身においてパースペクティブ的に知覚するものであり、すなわちここで画定した意味において《感性的》である。
 感性的なものとは、もはや《仮象的なもの》ではなく、もはや曇らされたものではない。それこそが、ひとりリアルなもの、すなわち《真なるもの》なのである。*7
 
永遠回帰と運命愛
理性の限界を超えて突き進んだ卓司とは違って、行人は理性の限界で立ち止まった。卓司が言う通り、この感性世界は間違いだらけなのかもしれない。しかし行人は立ち止まり、間違いだらけのこの感性世界を観測し続ける。なぜなら、なんやかんやで行人はこの感性世界を愛しているからだ。そんな行人が彩名は好きだったし、卓司も好きだった。
 

f:id:amaikahlua:20210802191820p:plain

彩名「ゆきとくん」
彩名「たぶん
彩名「わたし、ゆきとくんが好きだったんだと思う
行人「はぁ?」
彩名「世界を祝福できるゆきとくんを」
彩名「自らの生を祝福できるゆきとくんを…」
行人「祝福?」
彩名「たぶん、卓司くんも…」
行人「なんだよ、それ?」
彩名「だって、ゆきとくんは愛しているんだもん
行人「何を?
彩名「世界を
彩名「だから、ここで、見つめていられる

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彩名「ゆきとくん」
彩名「わたし、わたしとして、ゆきとくんに出会えた事を感謝してる
(中略)
彩名「また
彩名「また会えるといいね
行人「?」
彩名「無限のなかの有限のうちに…
行人「なに、わけわかんない事いってるんだよ」
彩名「永久回帰って本当かな…
 
おそらく上述の彩名の発言は、ニーチェ永遠回帰と運命愛に関する予備知識が無ければ、意味不明だろう。
 
永遠回帰(永久回帰、永劫回帰)とはニーチェの術語で、万物が全く同じ姿で無限に繰り返される現象を指す。時間を過去→現在→未来に向かって進む直線だと考えると、時間には始まりと終わりがあり、歴史上の個々の出来事は一回きりである。しかし時間の始まりと終わりを接着して(?)円環として考えると、歴史上の全ての出来事はループし、無限に繰り返される。幸福な時間は一回だけで終わるのが惜しく、無限に繰り返されて欲しいものだ。彩名は永遠回帰を要請し、行人に出会えた幸福な時間が無限に再生されることを望んだのであろう。
 
ニーチェ永遠回帰を肯定するための態度として、「運命愛」を挙げた。運命愛というのは、無限に繰り返される歴史上の全ての出来事を「これでいいのだ」と肯定し、永遠と必然性を愛する態度である。彩名は行人に出会えた運命を愛し、〈無限〉に繰り返される円環時間の中の〈有限〉で幸福な時間として、あるいは〈無限〉の円環時間の中の〈有限〉な物質世界の出来事として、行人と再会することを希望した。これが彩名の言う「無限のなかの有限のうちに…」という言葉の真意であろう。
 

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 第一に問うべきは、私たちが、はたしておのれに満足しているかどうかということでは全然なく、はたして総じてなんらかのものに満足しているかということであるもし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも事物のうちにも、何ひとつとしてないからである。だから、私たちの魂がたった一回だけでも、絃のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要であったのでありーまた全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。*8
 
私たちはたった一瞬でも幸福に感じられる時間を体感することによって、その時間までに必要とされた万物を肯定できる。そして直線時間ではなく円環時間を採用することにより、特定の時間の肯定は時間全体の肯定へと拡張しうる。彩名にとって行人に出会えたことは幸福な出来事であり、円環時間で繰り返される万物を肯定するに足りる出来事であった。かくして彩名は運命を愛し、永遠回帰を要請したのである。
 

論理哲学論考』と琴美END~有限のなかの無限とはなにか~

本節では『終ノ空』琴美ENDの結末における「有限のなかの無限」について考察する。恥ずかしながら、私は琴美ENDのラストを十分に理解していない。しかし「有限のなかの無限」については語れる自信があるので、考察の締め括りに語ることにしよう。
 
・終わりなき日常を生きろ

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琴美「行人」
行人「は、はい」
琴美「こんな映画知ってる?」
行人「…」
行人「どんな、映画だよ…」
琴美「飛行機に突然トラブルがあってね」
琴美「それで、その飛行機、無人島に不時着するの…」
行人「それで…」
琴美「とりあえず、何人か助かるんだ」
琴美「でね、無線とかで、助け呼ぶの」
行人「…」
行人「当然だな」
琴美「でも、すぐ向かいますとかいって、救助隊は全然こないの」
琴美「なんか、明日には、あと数時間後には、あと何十分後にはとか言って…」
琴美「ずっと来ないの」
琴美「そのうち、一人が気がつきだすの…
琴美「自分たちは既に死んでいるのではないかと…
琴美「ここは地獄であり
琴美「永久に、希望と絶望をくり返さなければならないのではと…
琴美「その時、また無線が入って…」
琴美「もう、すぐに助けに向かいます…ってね」
行人「ふふふふ、発狂もんだ…」
琴美が語る挿話は、とても不吉である。琴美ENDの行人は、無人島の映画と同じように地獄的な状況に置かれているのではないかと推測できる。行人は、7月21日の教室から9月1日の新学期の教室へと一瞬で転移した。行人が一瞬で転移した新学期の教室は、何か映画の無人島のような永久の地獄を思わせる。琴美ENDの行人は、終わらない日常という永久の地獄で、希望と絶望をくり返す破目になりそうだ。
 
新学期の始まりと共に、行人と琴美は永久に一緒の生活をすることになるだろう。行人と琴美がこれから過ごす日常では、永久に希望と絶望が繰り返されるだろう。行人と琴美はこれから、永久に呪われた生と祝福された生を生きるだろう。いや、もしかしたら行人と琴美は、死後の地獄に転移したのだろうか?しかし行人とずっと一緒の生活は、琴美が望んだ幸福の形だったはずだ。
 

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琴美「新学期が始まったから
琴美「一緒だね…
琴美「ずっと
琴美「ずっと、ずーと
琴美「一緒だよ
琴美「有限のなかの無限のうちに…
彩名「無限のなかの有限のうちに…」*9
琴美「ここで…」
彩名「ここ以外で…」
琴美「この世界は、それまでの世界?」
彩名「それまでの世界は、この世界?」
琴美「ずっと
彩名ずっと、ずっと
琴美「永久に…
彩名無限に…
琴美「一緒
琴美「だよ
琴美「今日から、新学期だから、ここで、行人とずっと一緒だよ
 
・われわれの生は終わりをもたない
琴美ENDの結末で意識されているのは、おそらく前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考の次の一節であろう。
 
六・四三一一
 死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
 永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
 視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。*10
 
ウィトゲンシュタインは「人は死を体験しない」「生には終わりがない」と語っている。これは非常に奇妙な説だと思う読者がおられよう。だって、私たち人間はみないずれ死ぬ定めではないか。そして私たち人間は、生の終わりに死を体験するはずではないか。ウィトゲンシュタインは、一体どうしてこんなに変なことを言っているのだろうか?京都大学教授の大澤真幸は、『論理哲学論考を次のように解読した。
 

f:id:amaikahlua:20210804123614p:plain大澤真幸(1958~)

「われわれの生は終わりをもたない」と。この命題は、人間という動物が死なないという非科学的なことを主張しているわけでもなければ、霊魂は不死だという宗教的なことを述べているわけでもない。生の内側から、終わり(死)に到達することはできない、と述べているのである。終わりに辿り着いたときには、もはや生ではないからだ。そうだとすれば、生には終わりが属していない、生には終わりがない、と結論せざるをえない。死は、生との関係で、いわば「鍵がかかっている部屋」にあたる。人はどうしてもそこに入ることはできない。*11
 
これでウィトゲンシュタインの死生観がおわかり頂けたのではないだろうか。私たち人間は、生きている限り死という「部屋」の内部に入ることができない。生から死の内部にアクセスすることができないので、生者にとって死は生から隔絶された世界である。だからウィトゲンシュタインは「死は人生のできごとではない」と言っているのだ。終わり=死は生の内部に存在しないので、生には終わりがない、とも言える。
 
・無限の生、無限の世界
7月20日よりも前の琴美は、世界の時間的な終わりに反対し、世界の空間的な限界も否定していた。琴美にとって世界は永久に滅亡しない(で欲しい)し、永遠に果てしない広がりのある空間なのだった。そして琴美は自らの死も拒絶したし、永遠の広がりの中の有限な点として生きていた。
 

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 世界が…、
 終わる…。
 …。
 20日に…。
 …。
 ふん。
 終わってたまるもんですか…。
 こんな中途半端なままで、わたし、死ねるわけない。
 わたしには、やりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 たくさん…。
 たくさん、あるんだ。
 だから、
 世界は終わらない。
 終わらせない。

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行人「大きな坂?」
琴美「うん、学校に行く途中の…」
行人「あれって、そんなに大きかったか?」
琴美「今はそうでもない…でもあの時は」
琴美「子供の時はものすごく大きく感じた」
琴美「これは世界の果ての壁なんだって思ってた
琴美「これを上り切ったら世界の果てなんだって
琴美「でも、違った…
琴美「その坂を上り切ったら」
琴美「その先にもここと同じ街があった」
琴美「その先にも坂があって、その先にも…」
琴美「永遠に街が続いていた
琴美「世界に果てはないんだって、その時気が付いたの…
7月20日よりも前の琴美の思想は、『論理哲学論考』と符号する。死を拒絶した琴美の態度は、「ひとは死を体験しない」という『論考』の命題と共鳴するだろう。「永遠に街は続き、世界に果てはない」という琴美の世界観は、「視野のうちに視野の限界は現れない」という『論考』の命題に対応するだろう。琴美の生は死を斥けたし、琴美の世界は無限に存続すると思われたし、琴美は無限に広がる世界に内在していたのである。
 
・ヒトの無限、神の有限
琴美の生は死を「鍵のかかる部屋」のように排斥したし、琴美の日常は終わりなく無限に続き、琴美の内在する世界は無限に広がっているように見えた。そして琴美は新学期が始まっても、行人と一緒に無限の日常を送ろうとする。しかし、琴美のような無限の世界を「有限の全体」として把握できる特権的な視座が存在する。それは、いわゆる神の視点(メタ視点)」である。世界をメタ的に俯瞰する神の視点は、人間にとって無限に思える世界を有限な世界として捉えることができる。論理哲学論考』のバートランド・ラッセルの序文で、ラッセルは神の視点について言及している。
 

f:id:amaikahlua:20210804124020p:plainラッセル(1872~1970)

高みから見渡せる至高の存在にとってはわれわれの世界も限界をもったものとなるのでしょうが、われわれにとっては、たとえそれが有限のものであろうとも、世界は外部をもちえないがゆえに、限界ももちえないのです。ウィトゲンシュタインが用いるのは、視野のアナロジーです。われわれの視野は外部をもちえず、まさにそれゆえに、われわれにとっては限界をもちません。*12
 
世界や私たちの生は人間の視点から観測すると無限であり、神の視点から観測すると有限である。琴美は世界や自らの生を基本的に無限として捉えていて、これは非常に素朴で人間的な物の見方である。しかし琴美の世界や生には、神の視点から観測すると限界が存在する。かりに琴美の世界と生が7月20日に終末を迎えていて、9月1日の琴美が死後の地獄に転移していても、琴美のスタンスはさほど変わらないだろう。なぜなら琴美は地獄でも相変わらず行人と一緒に無限の日常を送ろうとしていて、その日常は神の視点からすればおそらく有限であるということは、変わっていないのだから。
 
これで「有限のなかの無限のうちに…」という琴美のセリフは解明される。言葉を補うと、「神の視点から観測するとおそらく〈有限〉な世界の内部で、一緒に〈無限〉の日常を送ろう」、と琴美は行人に告げているのであろう。
 

補説への招待

終ノ空』本編の大まかな考察は以上である。本節では、『終ノ空』に関する補説へのリンクを貼っておく。

amaikahlua.hatenablog.com

この考察では、『終ノ空』と小説家・埴谷雄高の思想の関係を論じた。埴谷雄高は、哲学者と文学者の違いを論じた。埴谷によれば、哲学者は理性の限界で立ち止まらないと間違える恐れがある。一方、文学者は理性の限界を超えて先に進もうとする。この違いは、『終ノ空』における行人と卓司、さらにはSCA-自氏と埴谷の対立に対応するだろう。

amaikahlua.hatenablog.com

この考察では、『終ノ空』と社会学者・宮台真司の著書『終わりなき日常を生きろ』の関係を論じた。『終わりなき日常を生きろ』では80年代の「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」、90年代の「ブルセラ」と「サリン」の対立が論じられる。日常に従属する者と日常に反対する者の対立は、『終ノ空』で言う琴美と間宮卓司一派の対立に対応するだろう。

amaikahlua.hatenablog.com

この考察では、『終ノ空』で間宮卓司が遭遇した「不安」について論じた。「不安」「存在の至り」「世界の無意味性」と密接な関わりを持つ間宮卓司視点は、ハイデガーとの親和性が高いかもしれない。

あとがき

この場を借りて、反省会をさせていただく。私は音無彩名の正体について明晰に論じる事ができなかったし、世界の終わりの日に現れる終ノ空についても詳しく考察する事ができなかった。彩名にしても、終ノ空にしても、作中で読み手を煙に巻くような説明がされていて、私にはよく理解できなかったのだ。琴美ENDの考察もかなり荒削りで中途半端なものになってしまったが、完璧を求めると考察をいつまで経っても公表できなくなると思い、半端なまま掲載することにした。
 
終ノ空』のシナリオは、複数の人物の視点の寄せ集めでできている。同様に『終ノ空の考察も、複数の解釈者の考察が寄せ集まる事によって完成するものだと私は思っている。この『終ノ空』の考察は、あくまでも私の視点から見た見解にすぎない。良ければ皆さんもぜひ、皆さんご自身で『終ノ空』をプレイし、皆さんの視点から『終ノ空』を考察してみて欲しい。複数の人物の視点が寄せ集まる事は、この作品にとって大事な事だと思うから。

*1:カント(原佑訳)『純粋理性批判 上』、平凡社ライブラリー、二〇〇五、二五頁。

*2:念のために弁明しておこう。『終ノ空の作中では、カントの説やウィトゲンシュタインの説、クトゥルー神話などが闇鍋のようにごた混ぜに混ざり合っている。原作で複数の説がごた混ぜになっている性質上、本稿の論述もごた混ぜ感が拭えないものになってしまったことをどうか許して欲しい。

*3:カント『純粋理性批判 上』、前掲、二六頁。

*4:ハイデガー(細谷監訳)『ニーチェI』、平凡社ライブラリー、一九九七、二一四頁。

*5:もっともハイデガーによれば、《真の世界》や《仮象の世界》という言い方はニーチェの語法であり、プラトン本人の言葉ではないらしい。しかし本稿では正確さよりもわかりやすさを優先し、《真の世界》仮象の世界》というニーチェ的な語法を導入することにした

*6:ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 下』、ちくま学芸文庫、一九九三、一一八頁。

*7:ハイデガーニーチェI』、前掲、二九一頁。

*8:ニーチェ『権力への意志 下』、前掲、五一一頁。

*9:終ノ空には声優によるボイスが存在しないので見落としがちだが、琴美のセリフの間に彩名のセリフが混じっている

*10:ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』、岩波文庫、二〇〇三、一四六頁。

*11:大澤真幸三島由紀夫 ふたつの謎』、集英社新書、二〇一八、一二三頁。

*12:ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』、前掲、一七〇~一七一頁。