ミヒャエル・エンデ『モモ』を最後まで読んだ。
『モモ』
1976年初版発行
「時間節約」批判
ミヒャエル・エンデの『モモ』には、「灰色の男たち」 という不気味な侵略者が登場します。 灰色の男たちは巧みな弁舌で町の人々をまるめこみ、 時間を節約するよう説得します。 人間が節約した時間は灰色の男たちが奪い、 灰色の男たちが利用します。灰色の男たちは、 言うなれば人々から時間を騙しとる詐欺師のような連中です。
灰色の男たちに説き伏せられて時間を節約している人々は、 心に余裕が無くなります。他人との交流やペットの世話、 家事などにかける時間を節約しているうちに、 生活に豊かさが無くなっていきます。 効率的に考えたら無駄な物事の中には、 豊かさをもたらす物事があります。 時間を節約することに気を取られていると、 様々な豊かさを失ってしまうのです。
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということに は、だれひとり気がついていないようでした。 じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、 日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、 だれひとり認めようとはしませんでした。 (中略)人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。(p.95)
『モモ』の作中では、 時間を節約することがネガティブに表現されています。ただ、 時間を節約するのは、『モモ』 で描かれているほど悪いことなのか? という思いが私にはありますね。 無駄な物事の中には本当に無駄で厄介なだけで、 ろくな豊かさをもたらさない物事があると思います。 本当に無駄で害悪なだけの物事にかける時間は、 潔く節約した方が良いと私は思いますね。
「役に立つ」ことの貧しさ
町の大人たちが時間を節約するにつれて、 子どもたちも時間を節約するようになります。 子どもたちは効率的に考えたら無駄な遊びをしなくなり、「 将来の役に立つ」遊びをするようになります。子どもや若者に「 将来の役に立つ」 ことをむやみに推奨する風潮に対する風刺が利いていると感じて、 素晴らしいと思いました。
「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうにききました。 「そんなことは問題じゃないのよ。」と、マリアがおどおどして言いました。「 それは口にしちゃいけないことなの。」 「じゃ、なにがいったい問題なの?」「将来の役に立つってことさ。」とパオロがこたえました。(p.287)
インターネットを徘徊していると、「文学や哲学は役に立つのか? 」「大学の文学部の勉強は将来の役に立つのか?」 といった議題で議論が交わされているのをたまに見かけます。「 文学や哲学が役に立つのか?」 という問いに対する答えはさておき、「役に立つのかどうか」 という尺度で物事を判断すると心や生活が貧しくなると私は考えて います。
文学が役に立つ、文学が役に立たないと断定するのはともかく、 文学を読むのは(人によるとは思うけど)楽しいし面白い。 そして、文学を読むと(これも人によるとは思うけど) 心が豊かになる。こんなに面白い文学を「 将来の役に立たないから」という理由で切り捨てると、人々の 心や生活が貧しくなる。文学や哲学にかける時間を「 役に立たないから」節約しようとしている人々は、 灰色の男たちに洗脳された人々のように貧しいものの考え方をしているように思えて なりません。
二項対立の解体
『モモ』の文末には、作者=ミヒャエル・ エンデによる短いあとがきが書いてあります。エンデによると、『 モモ』の物語は自分独自の作品ではなく、 他人から聞いた話をベースにして書かれたものだそうです。
といいますのは、白状しますと、この物語はわたしがひとから聞いたのを、 そのまま記憶どおりに書いたものだからです。 わたしはじぶんではモモとも、その友だちとも、 ぜんぜん会ったことがありません。(p.354)
そして、エンデに『モモ』の物語を教えてくれた人物によると、『 モモ』 は過去の出来事ではなく未来の出来事として語っても良いそうです 。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましたね。 でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。 わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」 (p.355)
『モモ』のあとがきを読むと、『モモ』が「 エンデのオリジナル作品なのか/ エンデではない他人の原作なのか」、「現実に起こった話なのか/ フィクションなのか」、「過去の話なのか/未来の話なのか」 の区別が曖昧になります。『モモ』のあとがきには、「自作/ 他作」「現実/虚構」「過去/未来」…… といった二項対立を解体する効果があると解釈できると思います。
……私の『モモ』読書記録は以上です。 対戦ありがとうございました!!